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   ◇




 ――七月三日は井原の誕生日だった。高二のときの七月三日は日曜日で、なんとなく一緒に近所のカフェにいたわたしと春は、ほぼ同時に送られてきた井原のメールを見た。




 今日、わたしは十七歳になりました――という書き出しで、そのメールは始まっていた。わたしは、この歳になって、思うことがあります。それは、「どうして心があるんだろう」ということです。もし、わたしに心がなかったら、こんなに苦しい思いをする必要はないはずです。ああもうやだな、死にたいな、なんて思わないで済むはずです。欠陥品です、わたしは。心があるから駄目なのです。心さえなかったなら。ピアノに心奪われることもなかった。春ちゃんを好きになることもなかった。傷つけて、傷つけて、みんなを不幸せにすることもなかった。神様は、どうして、心を作ったんでしょう。こんなに難しいもの、わたしたちにどう扱えっていうんでしょう。わたしは、小さいころから、「天才少女」なんていわれて、テレビや雑誌で、ピアノを弾く姿、おめかししてわらう顔、普段の学校の生活なんてものを、いろいろ勝手に取り上げられることもしばしばでした。それをじまんしたことは、わたし、一度もありません。むしろ、わたしは、ふつうの子になりたかった。たとえば、春ちゃんみたいな、かわいくて、天真らんまんな、女の子らしい女の子に、なりたかったあ。ねえ、いまからでも、なれるんでしょうか。どう思いますか。たぶん、初ちゃんは、むりだっていうよね。むかしっから、そうだもん。ネガティブじゃないんだけど、ただ、できないことはできないって、はっきりいう子じゃない。でも、初ちゃんって、できないこと、なんでもないのに。わたしには、いっぱい、できないことがあって、悔しいなあ。初ちゃん、かわいいからね、たまにこわかったの。春ちゃんをとられるんじゃないか。ううん、そんなことないのに。でも、やだよ、やだ、やだ。ねえ、初ちゃん。わたしは初ちゃんのことが好きです。なんていったら、信じいる? 信じるわけないよね。もう、やだ。だって、裏切っちゃった。あのとき、初ちゃんが、初ちゃんのお父さんに殴られているのを見て、わたし、怖くて、あ、どうしたらいいの、って、初ちゃんの目を見ちゃった。初ちゃんは首を左右に振った。わたしはなにもしなかった。たすけてっていわれても、たぶん、なにもしなかった。臆病なくず野郎。くそ、くそ、くそって、毎日思ってた。初ちゃんが離れていって……この世の終わりだと思った。でも、春ちゃんがいて、まだなんとかなってたのに。あの日、事故にあって、ぜんぶ変わった。わたしはひとりになってしまった。ピアノが弾けないわたしに、存在価値なんてなかった。心が死んでいくの。いまもう虫の息なの。ピアノがないと、わたしはなにもみんなに伝えられない。ずっと昔から、わたしはピアノだけでみんなと話してきた。わたしだけを見てくれなかった。お母さんも、お父さんも、おばあちゃんも、初ちゃんも、春ちゃんも……ピアノを弾くわたしが綺麗で、それ以外のわたしは、そうでもないくせに! ああ、もう……こんなことしかいえない。もう、生きてる意味、ないです。ふたりのことすら信じられないのに、どうやって生きてけばいいの。心がふたりをこばんでいるのに、どうして生きていけるの。ねえ、会おう。旧校舎で待ってる。




   ◇




 深い山にある小学校の旧校舎に忍び込むのは、案外、簡単だった。学校のフェンスには昔の抜け道がそのままあって、身体が大きくなったわたしたちにはかなり窮屈だったけれど、なんとかなった。


 旧校舎の中はとても埃っぽかった。古びた四階建てで、廃病院みたいな趣がある。まだ残されていることが不思議だった。天井には蜘蛛の巣が張られていて、床のタイルはところどころ外れていた。


 一階には井原はいなくて、二階に上がると、どこかの教室から物音がした。椅子を動かす音だ。二階、東詰めの、ずっと前には図書室があったらしい大部屋からだった。


 図書室の扉は少し開いていた。その隙間に指を入れて、春がゆっくりと開け放つ。大部屋の中央に、井原がいた。椅子を三つ、円状に並べて、そのひとつに座っていた。窓からは黄色い夕陽が差し込んでいて、部屋中に舞う埃を照らして、幻想的な風景に仕立て上げていた。


「座って」と井原はいった。「ねえ、早く」


 わたしたちは促されるままに椅子に座った。尻を乗せると、椅子はぎしぎしと鳴ってうるさかった。


「井原ちゃん」と春がいった。「さっきのメール」

「ななって呼んで」井原は春の言葉をそう遮った。「ねえ、お願い。今日だけは、ななって呼んで」

「いいの」

「うん」


 春は戸惑いつつも、「なな」と井原を呼んだ。


「うん」

「さっきのメール、冗談だよね。死にたいなんて……」

「本気だよ。今日、死ぬの」


 井原は平然とそういった。その言葉に、迷いも恐れも存在しえなかった。春は震えていた。なにかを抑え込もうとして必死なように見えた。


「どうして」


 春に代わって、わたしはそう訊いた。なぜかわたしは、動揺もなにもしなかった。


「さあ。よくわからない」井原の答えは簡潔だった。「わたし、もう、なにも信じられなくなった。ううん、最初から信じてなかったの。ピアノを弾いて誤魔化してただけ。もともと生きるのに不似合いなやつだったんだよ。親友のことも信じられない」

「もう信じることはできないの。わたしは、井原ちゃんのピアノが好きなんじゃなくて、ただ、井原ちゃんのことが好きだったって、正直にいっても」

「うん。もう、無理だよ。だって、それを聞いただけで、疑って、吐きそうになる。ねえ……初ちゃんに訊きたいことがあるんだけど、いい」

「なに」

「あのとき……どうして、わたしたちから逃げたの」


 わたしはしばらく考えてから、答えた。


「お父さんがね、好きだったの。お父さんからの虐待は、小二くらいからずっとあった。機嫌が悪いときはよく殴られたし、背中には煙草を押しつけられた跡がいくつもある。いっぱい泣かされたし、身体はもう、ぼろぼろ。でも、哀しいけど、それでも普段はやさしいお父さんだった。わたしがいい子にしてたら、大丈夫。そう思ってたんだ。馬鹿みたいだけどさ……わたしはやさしいお父さんを失いたくなかった。お父さんが急な病気で死んじゃったときね、わたし、泣いたんだよ。なんていうかさ……哀しいけど……あのとき、井原……ううん、ななちゃんに見られた瞬間に、わたし、頭の中が真っ白になった。これで、このことが周りに知られたら、お父さん、警察に捕まっちゃうんじゃないか。離れ離れになっちゃうんじゃないか。それだけは嫌だった。だから、もう、それ以上知られたくなかった。でも、一人じゃ寂しくてさあ……青木ってやつと仲良くなったな、そういえば。あいついま、どうしてるんだろ」


 そのとき、わたしはようやく青木のことを思い出していた。そして、ここにあいつがいたらなんていうんだろう、なんて思った。でも、青木は井原のことなんてほとんど知らなかったし、「死ぬなんていうな」みたいな、月並みの言葉をいうのだ。それはきっと青木の場合、心の底から本気なんだけれど、井原には響かない。


 そう思い至って、ふと、わたしはいま、どうしたいんだろうと不思議な気持ちになった。井原が死ぬというのを止めたいのだろうか。きっと、止めても止めなくても、後悔する。それだけはわかった。で、わたしには、生きてくれなんて、酷すぎていえないのだ。


 春は、ずっと震えていた。きっとこいつにも無理なことだった。いまさら、死なないでくれなんて、いえないのだ。いままで哀しみのどん底を三人で歩いてきて、井原だけが突っ走ってしまった。その先に、わたしたちは行けないし、声も届けることもできない。深淵だ、どこまでも真っ黒い闇だ。井原はその中にいる。


「初ちゃん。ちょっと、二人っきりにしてくれる」


 春の状態を見かねたのか、それとも単純に、現実ではふたりだけの世界にいたかったのか、井原はわたしにそういった。わたしは椅子から立ち、春の背中をぽんと叩いて、大部屋を出た。


 扉の前で蹲ると、ようやく、わたしの胸に哀しみが染み込んできた。井原が、今日、死ぬ。なにをいっているんだ、あいつは。受け入れられない。さっきまで受け入れられていたつもりだったのに、大間違いだった。そもそも、簡単に「そうですか」なんていえるわけないのだ。わたしは強がっていた。それは明らかに過ちだったが、若さとは常にそういうものだった。


 部屋の中からは、ぽつぽつと、小さく話し合うふたりの声が聞こえた。耳を澄ましても、中身はわからないだろう。とはいえ、正直、知りたくもなかった。やがてキスの音が漏れてきて、それすら止むと、ふたりは部屋を出てきた。部屋を出てすぐに、


「じゃあね、ふたりとも」と井原がいった。

「どこに行くの!」春が震えた声で訊く。

「屋上」井原はどこまでも淡白にいった。「頭から落ちるの。たぶん即死だよ」


 階段を上っていく井原を、春は追いかけなかった。ただ泣くばかりで、膝から崩れ落ちると、彼女はわたしに縋ってさらに泣いた。けれど、春は、そんな状態だったのに、わたしに「行って」と懇願した。「どうなってもいいから、行って」――わたしは立ち上がって、階段を上ろうとする。大部屋の前で、春はいつまでも泣いていた。それでも、行った。ひとりで行った。足が震えて仕方なかった。


 屋上に出ると、強い風が吹いた。屋上のへりに立った井原はわたしを振り返り、なんの感情もない目でこちらを見つめた。彼女は右手に鋏を持っていた。


「ねえ、ななちゃん。こっちに戻ってきてよ」


 井原はなにも答えなかった。そしてわたしから目をそらすと、右手に持っていた鋏を、左の手首にぐさりと突き立てた。血が溢れ出したが、構わず井原は、もう一度、左手首を刺した。風に乗って血の匂いが運ばれて、気持ち悪かった。


「もう痛みもない」


 井原はそういった。手首から滴り落ちる大量の血は、屋上の床に血だまりをつくった。


最後、飛び降りる直前に、井原はわたしを見た。なにか言葉を発しようと彼女は口を動かしたが、間に合わなかった。井原は気を失ったように、突然ふらりと宙に身を投げ、地面へと落下していった。


 わたしは言葉にならない叫び声を上げながら落ちていく井原のもとへ駆けて、下を覗き込み、届くわけがない腕を伸ばした。その短い腕が伸び切った瞬間に、井原の頭蓋は砕け散って、彼女はもう二度と動かなかった。彼女はもう二度と動かなかったのだ。




   ◇




 春のところまで戻ると、彼女はなにもかもわかったうえで、また泣いた。わたしはその肩に手を置いて、同じように泣くことくらいしかできなかった。やがて遠くからサイレンが聞こえてきて、旧校舎の中に、誰かが入ってきた。警察だった。わたしたちは警察に保護されて、旧校舎の外へと連れていかれた。井原の遺体は見たくなかった。彼女の頭蓋が弾け散った音が、耳の奥で鳴り響いていた。


 わたしはずっと春の手を握っていた。春はその手を全力で握り返して、涙を流すのをやめなかった。


 それから、わたしと春は、しばらく学校を休んだ。夏休みに入る一週間前くらいになって、わたしはどうにか登校したが、春がまた学校に来たのは、夏休みが明けてからだった。




   3




 青木についていくことに、迷いはなかった。フランスは遠いが、いまさら、なんの距離を気にすることがあるだろう。春とはそう頻繁に会うことができなくなるが、あいつだって、いまでは新しいパートナーがいて、なにより、大人になった。たかだか一万キロていどの距離に、きっと悩むこともない。


 一緒にフランスへ渡ってくれ。そう彼にいわれた日から、わたしは荷造りを始めた。本屋でフランス語の教本を数冊買って勉強しながら、インターネットで、わたしたちが住む町の風土も調べた。一年を通して温暖。いいじゃない、住みやすそう。


 渡仏までには半年以上の猶予があって、そのあいだに、わたしは井原の墓参りをしたり、春と遊んだりした。日本に思い残すことは、これでもう、ほとんどない。ただひとつ、あったとすれば、ピアノが弾けるようにはならなかったことだ。


 大学を出て、わたしは一般の企業に就職して、それなりに多忙な日々を送っていると、井原のことをふと忘れることが多かった。いいことなのかもしれない。あんな思い出、忘れたほうがすっきりする。


 でも、そうやって井原のことを忘れるのを、怖がる自分もたしかにいた。そしてわたしは、中古のキーボードを買って、アパートで練習してみることがあったのだが、やはり井原のようには弾けなかった。まだ生きているときに、教えてもらえばよかった、とたまに思った。


 日本ではついぞ弾きこなせなかったピアノだが、フランスでも、ピアノには触れる。向こうに着いて、落ち着いたら、教室でも探すことに決めた。毎日のように、のどかな家の中で、どこか退屈しながら夫の帰りを待つのも悪くはないかもしれないが、それに飽きたら、ピアノを弾こう。彼も、それくらいさせてくれる。


 そして、わたしは拙いピアノを彼の前で弾いて、笑ってもらうのだ。わたしもそのとき、笑って、もう一曲。かつて井原がそうしていたように。わたしたちが、幸せになるために。


 時間とは最大の薬で、あのときの雷のように轟き劈いたショックも、十年経ったいまでは和らいで、幸せを考える余裕もできた。あのころは考えもしなかった、結婚なんていうこともしてしまって、薬指にはきれいな指輪。寿退社までしてしまった。あのころの苦悩が、ぜんぶ嘘みたいだ。


 春はわたしの結婚を喜んでくれた。彼女もいまは余裕のある振舞いをしていて、ずいぶん大人になっていた。でも、昔のような明るさは健在で、ただ、春は、不器用じゃなくなったのだ。


 いまでは彼女も同性のパートナーと同居しているようで、充実した毎日を送れているようだった。あいつが幸せなら、わたしは本当に、日本に思い残すことはなかった。


 渡航日の前日、わたしはひとりで小学校の旧校舎を訪れた。とはいえ、建物は既に取り壊されていて、なんにもない更地になっていた。わたしはその真っ新になった土地の中央に、なんとなく突っ立って、空を見上げた。


 あの頃、あんなにも重苦しく感じた空は、いまではあけすけな感じが凄まじかった。雲は滑らかに空を往き、とどまるところを知らないでいる。青の中を、鳥が数羽、飛んでいく。気付くとわたしは涙を流していた。


 この空を、きっと、井原は見ていたはずだった。そうでなければ救われない。井原が、じゃなくて、みんなが。


 わたしたちは止めどない感情の奔流に抗わなかった。いや、抗おうにも、船がなかった。流されることしかできない。いつだってそうだった。


 でも、いまはもう、違う。わたしには船がある。もう二度と流されないのだ。だからこうやって、涙を流すのだ。




   ◇




 わたしたちの傷が癒えたのは、ただ、時が流れたからだった。

 大人になるにつれて、わたしは青木を愛して、春は強かなやさしさを手に入れた。

 それだけだった。




   ◇




 機内、座席のシートを探す。ちょっと奥の方だ……あった、ここだ。窓側の席で、わたしは迷わず、外の景色が見える奥の方へ座った。その隣に、彼が座る。


「晴翔くん、彼女いないの?」

「あぁ。今度、誰か紹介してやってくれよ」

「うん」


 わたしは笑った。彼も笑った。この笑顔は美しい。わたしたちは美しい。


 ああ、なにも始まっちゃいないし、なにも終わっちゃいない。ただ、そこにいまがあるだけだ。あのときほど若くもなければ、逆に老いてもいないわたしたちは、いまをそれなりに生きていた。でも、ここはどこだろう。わたしは誰なんだろう。いまからどこへ向かうのだろう……飛行機が離陸するのと同時に、わたしは静かに目を閉じた。



(了)


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[一言] いつまでもジョンケージの『無音の音楽』が鳴り響いている。
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