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 しばらく距離をおいていた春が、わたしの家に駆け込んできたとき、もうすでに嫌な予感がした。井原ちゃんが事故った! JMC前の交差点で! 頭の中が白紙になる。気付けば、家を飛び出していた。


 病院に搬送された井原は、数日間、目を覚まさなかった。ひどい暑さの夏だった。病院の壁に張り付いてわんわん鳴く蝉の声にも、まるで反応しない。ベッドのうえに横たわる姿は、ただの井原に似た人形に見えた。


 わたしたちはしばらく、気が気でない状態で夏休みを過ごした。それが四日も続いた。そして、八月の中旬、ついに井原が目を覚ましたと聞くと、わたしと春は予定を合わせて、三日後、面談が可能になると病院へ向かった。


 わたしは井原にどんな顔をして会えばいいのか、実のところよくわからなかったが、井原はわたしを見ると、にっこり笑った。彼女は首だけ動かせるようで、寝そべったままでこちらを向き、


「初ちゃん」といった。「久しぶり」

「うん……こんな感じで、会いたくなかったけど」


 喋れるんだ、という安堵とともに、わたしの胸には誤魔化しようのない罪悪感がにじみ出ていた。それでも、井原はただただうれしそうにして、「来てくれてありがとう」といった。わたしは勝手に救われた気持ちになって、病室の椅子に座った。


「具合はどう」


 と、春が訊く。井原は若干細い目をして、すぐに笑顔に戻ると、


「だいじょうぶ」といった。

「よかった……もう目を覚まさなかったら、わたし」

「だいじょうぶだよ……ごめんね、心配かけて」


 井原は気丈にふるまっていた。それで、春はきっと、安心したのだ。

 でも、井原の怪我が相当なものだということくらい、一目でわかる。身体中が包帯だらけで、ミイラみたいな見た目をしていたし、なにより、まだ動けないのだ。脚も骨折しているようだし、どれくらいで治るのだろう。すくなくとも、向こう三か月は入院してもおかしくない。


 そんな状態であったのに、井原はずっと喋っていた。なにかを紛らわそうとして必死なようにも見えた。もしかすると、彼女はそのとき、感づいていたのかもしれない。もうふつうに走ったり、歩いたりすることができないこと。自分の左手が動かなくなること。二度とピアノが弾けないこと。


 顔には出さなかったが、井原は怖くて仕方なかったのだろう。春と話をする隙間で、井原はわたしを見て、ふと泣きそうな顔を何度かした。いいたいことでもあるのだろうか、でも、あったとして、それを春でなくわたしに訴えかけてきたことが、不思議だった。


 わたしは、今度はひとりで来ようと決めた。正直、ひとりきりで井原に会うのは怖かったが、それは、きっと井原も同じだった。そして井原は、そういう恐怖を上回るくらいの重いものと、これほどの大怪我だ、向き合わなければいけないのかもしれない。そう思うと、行くしかない、行かなければならないと感じた。


 たしかその二日後に、わたしはたったひとりで井原と面会した。病室に入ってきたのがわたしひとりだと知ると、井原はいろいろなものが混ざった表情をした。哀しみと当惑が五割で、もう残りの五割は安堵だった。


 椅子に座って彼女と向き合うと、井原はぽつりと「ありがとう」といった。わたしは首を横に振った。で、


「具合はどう」と、二日前の春と同じことを訊いた。

「うん、だいじょうぶ」

「そっか。よかった」


 それから、わたしと井原は、どちらもしばらくだんまりだった。蝉の声が遠くから聞こえた。井原はそれに耳を澄ましているようだった。一通り蝉が鳴き終わると、井原がいった。


「ね、わたし、死にたい」

「……」

「もう手が動かないかもしれないって。先生にいわれた」

「動くかもしれない」

「うん。でも、なんだかなぁ。疲れちゃったよなぁ」


 ぐさりと突き刺さる。“かえし”のついた槍みたいに、その言葉は抜けそうになかった。わたしがなにも処理できないでいると、井原が続けた。


「ピアノってね……というか、音楽ってね、ひとを殺すんだよ。心を殺すの。音楽を続ければ続けるたびに、死に向かっていく。だって、本当の音楽は、絶命の音だもの。しん、と静まり返ったとき、音が死んだときに、流れる音楽……わからない? わたしは何度もそれを聞いたよ……ある日ね、急に虚しくなって、曲を途中でやめたの。そしたら、最期の打鍵の音が余韻として残って、それすら消えたとき、ピアノが死んで、音楽を奏でたの。なにもない空間にこそ、音楽がある」

「よくわかんない……音がないのに、音楽があるの?」

「そう。『四分三十三秒』って知ってる? 四分三十三秒のあいだ、なんにも音を鳴らさない曲があるの。無音を聴く音楽なんだけどね……なにも演奏しない。けれど、なにかしらの音は聞こえるんだよね。風が吹く音、草木が揺れる音、誰かの声に、足音、エンジン音、血の流れる音、心臓が鳴る音。偶然の音楽。もう二度と感じられない音楽。で、わたし、そのとき気付いたの。ピアノなんて必要ないんだって。音楽に、ピアノなんていらない。ヴァイオリンも、トランペットも、ドラムもいらない。音楽は常にそこにある。特別ななにかはいらない。わかっちゃったんだ。だから、わたしも、いらないんだなぁって。どれだけ無駄なことしてきたのかなぁって……ピアノを弾いても、最近、虚しくなるばかりだったの。どれだけ弾いても、初ちゃんは帰ってきてくれないじゃない。弾く意味が見えなかった。そして無音の音楽に出会った。死の美しさが垣間見えたの。死にたいって、久しぶりに思った。いろんなことを紛らわせるために弾いていたピアノは、本当の意味じゃ、わたしを救っちゃくれなかったんだね。あぁ、どれだけ辛かったんだろう……なんて、ごめんね、ぜんぶわたしが悪いのに。辛かったのは初ちゃんだったのに。どうしてなんだろう、いっつもこうだ……初ちゃん、わたしね、ずっと後悔してた。初ちゃんを裏切ってしまったこと。きっと恨んでるよね、わたしのこと。あのとき、初ちゃんを助け出せてたら、どれだけよかったんだろう。わたししか、救えるひとはいなかったのに。でも、助け出す勇気も、誰かに話す勇気も、どっちもわたしにはなかった。初ちゃんがどうにかして保ってきた均衡を崩すのは、わたしには無理だった。春ちゃんなら、よかったのに。わたしが春ちゃんだったら。春ちゃんだったら、きっと初ちゃんを助け出せたのに。わたしのせいだ。ごめんね、本当にごめんなさい」


 井原はわたしの目を見て泣いていた。その涙はなによりも透き通って見えた。日々が崩れるのが怖くて、だれからも距離をおいていた自分が、馬鹿らしかった。


「ねぇ、井原ちゃん。わたし、気にしてないよ」と、わたしはできるだけ優しくいった。「井原ちゃんは、いつでもわたしの友達だったよ。これからも、ずっとそう。だから、死にたいなんて、いわないで」

「……」


 井原はなにも答えなかった。ただ、水晶より価値のある涙を、枕に染み込ますだけだった。




   ◇




 それから、井原は三か月の入院とリハビリをこなし、帰ってきた。大怪我のせいで、彼女はきちんと歩けなくなっていた。どうやら右脚が痺れるようで、いつも引きずるような歩き方をした。


 腹には手術痕が残り、とても生々しい。傷の跡はほかにも、二の腕や腿にも見受けられた。綺麗だった井原の身体は、散々なことになっていた。


 そしてなにより、彼女が一番苦しんだのは、左手の痺れだった。単純に開く・閉じるという動作はできるが、ピアノを弾くような、複雑な動きはまず無理だった。井原はピアノが弾けなくなった。彼女にとって、なによりも大きかった『逃げ場所』が失われた。


 井原はほとんどなにもせずに日々を過ごした。それがどれだけ空っぽな毎日だったろう。彼女にとってのピアノは、日常を埋め尽くす大きなピースだった。それが、もう、ない。井原はいままでのように――とはいえ、わたしは直近の井原のことをほとんど知らなかったが、少なくとも中学生のころのように――笑って振舞った。そして、井原は徐々に、擦り切れていった。


 無理に笑うことは、百メートル走を五秒台で走ろうとするようなものだ。人間にはどうしても限界がある。いずれ無理につくった仮面は、日常の中にひずみを産んで、どんどん心が締め付けられてくる。それは苦しい、苦しい、苦しい。自分ひとりで弱みと向き合えないひとにとって、それは生き地獄だ。井原はまさにそれだった。


 やがて井原は春を拒絶するようになった。春の底抜けの明るさや優しさは、井原にとって毒だったのだ。


 かつてわたしが井原にそうしたように、井原は春を。


 それでも春は、井原にとっての光であろうとした。彼女に光はいらなかったのに、そうあることが正しいと思い込んでいた。ある日のこと、春はわたしに、久しぶりに遊びに行こうと切り出してきた。もちろん、井原も一緒に。ねぇ、井原ちゃんも元気になったんだしさ――と、春はいった。わたしは首を横に振った。


 春は理解しようとしなかった。いや、心のどこかでは理解していたのだろう。でも、昔の春は、ひどく不器用なやつだった。やりかたを、ほとんど知らないのだ。笑顔だから楽しい、楽しいから笑顔になる。井原は、単一的にそうなる歳ではなかったのに。もちろん、わたしたちも。


 わたしと井原を無理やり連れだして、春は何度も遊びに出かけた。そのたびに、井原は無理に笑った。まるで楽しそうに。まるで昔のように。なにも変わってないんだよ、なにも、なにも変わってない。そう春に、わたしに、自分に言い聞かせるように。


 それが数か月続いた。わたしたちは高校一年生を終えようとしていた。その頃になると、井原の春に対する拒絶は、より強いものになっていった。


 最初に、井原は春のことを無視しはじめた。わたしが話しかけないと、春の言葉をなにも聞かない。ただ、次第に、春のいる空間そのものを嫌がり出して、春のいる教室には近づかなくなり、そして、わたしにも近づかなくなった。やがて井原は学校に来なくなった。


 不登校になって一週間、わたしは春を押しとめることで精いっぱいだった。春を、いま、井原に会わせることはどうしても駄目だと思った。彼女を追い詰めたのは春だ。それでも春は、井原に会いたがった。


 春はついに、たったひとりで井原の家に行った。自転車に乗って、彼女の家へ。それを春の口から聞いたとき、わたしはあいつの頬をぶん殴った。そして、「あんたなんか友達じゃない」といった。春はごちゃごちゃの涙を流していた。


 わたしたち三人は、別々に過ごすことになって、そのまま進級した。春休みが明けても、井原は学校に来なかった。わたしと春は仲違いしたままで、それぞれが選んだ絶望の淵で寝そべっていた。


 井原も、春もいない毎日には、慣れていたはずだった。中学三年のころ、自分が築き上げてきたくだらない平穏を守るために、わたしはふたりを拒んだことがあった。そのときと変わらないはずだった。


 でも、あのときのわたしには青木がいて、まだ心の拠り所があった。自分の心を誰かに預けて、哀しみを労わってやるくらいの余裕があった。高二のわたしは、そうじゃない。青木とは別の高校で、そもそも、やつの名前が浮かんでくる隙間も、わたしの頭の中にはなかった。


 ただ、日々が苦しいだけで、その苦痛を紛らわせるために、昔のように笑う春と、それにつられて笑う井原の影を、脳の隅々まで追いかけていた。過去に戻りたいと思った。どこからやり直そう、と何度も夢想した。小学校の頃から……いや、もっと最近でもいい。中三のとき、わたしがあの子を拒まなかったら、もっと違ってたんじゃないか。さらに最近でも構わない。あの病室で「死にたい」といった井原に、きつくいってやれば。春をもっと早くに殴っておけば、とか、それはちょっと違うかも、とか。


 わたしは一週間に二、三度、子供の頃の夢を見るようになった。それはたいてい、小学校の思い出の再現だった。いじめっ子との対立もなかったときの、ずっと古い記憶。たとえば、四階にあったコンピュータルームに忍び込んで、むやみやたらにPCの電源を点けて回って、怒られたこと。どうしてあんなことをしたんだろう、と思いながら目を覚まして、少し心が軽いのを自覚する。そして朝ごはんを食べて、歯を磨いて、制服に着替えると、外へ飛び出す。バス停で数分待てば、いつもの赤いバスがけだるげに走ってくる。それに揺られながら、うたたねをする。また記憶がさっと蘇っては、やかんから出る湯気みたいにすうっと消えていく。わたしはそれを掴もうとする。掴めない。指をすり抜けていく。目を覚ます。学校に一番近いバス停で下車する。校舎が見えると、急に心に暗雲が立ち込める。足が重たい。いままでの何十倍もの重力が圧し掛かってくるような気分だった。それでも、わたしが学校に通い続けたのは、中学の頃のような理由じゃなかった。父はもう死に、やつに怯える必要はもうなく、休んだって誰もわたしを殴らなかったのに。でも、わたしが行かなかったら、誰が井原を迎えるんだ、とそう思った。わたしだけが井原の最後の砦だった。井原にとって、本当にそうだったかは知らないけれど、わたしにはそういう確信があった。


 わたしと春は別々に過ごしたが、同じように学校で井原を待ち続けた。そして五月、ふらりと井原はわたしたちの前に姿を現した。彼女はまるでなにもなかったかのように、ある朝、わたしの教室まで来て、「おはよう」と笑顔でいった。純真無垢な笑顔だった。


 呆気にとられていたわたしに、井原は、「春ちゃんは、何組になったの?」と訊いた。わたしは数秒の間を空けて、「二組」とだけ答えた。それを聞くなり、井原は薄気味の悪い幸せそうな顔をして二組の教室へ向かった。


 それから向こう一か月は、なにもない、平穏な一日だった。わたしたちはまた昔に戻ったかのように一緒に過ごして、どういうわけか、井原が不登校だった瞬間の苦痛を忘れかけていた。そんな幸せな日々が続くはずもなかったのに。


 なんの前触れもない、六月の、あれは梅雨に入る直前のことだった。授業中、突然別のクラスから叫び声がした。すぐにわかった、井原の声だ。わたしは教室を飛び出していた。


 廊下に出ると、わけのわからない言葉を発しながら、窓に額を打ち付ける井原の姿があった。手には鋏を持っていて、それを空中で振り回していた。わたしが井原に組みかかると同時に、春も駆け付けてくる。わたしは懸命に井原を窓から引きはがして、春は、握られていた鋏を取り上げて、慈愛の籠った表情をして彼女を抱きしめた。


 井原は泣き喚いていた。発していた意味のない言葉は、次第に意味をもつようになった。「初ちゃんなんて大嫌い。春ちゃんなんて大嫌い。わたしなんて大嫌い。ピアノなんて大嫌い。車なんて大嫌い。学校なんて大嫌い。人間なんて大嫌い。心なんて大嫌い……」まるで小学生みたいな泣き声だった。井原を抱きしめる春の腕が震えていた。春は涙を堪えていた。わたしはなにもできずに、呆然とした面持ちで井原の手を握って、その肌の気持ち悪いくらいな白さを眺めることしかできなかった。


 数時間経つと、井原はぐったりとして動かなくなった。その日は井原の両親が迎えに来て、それから井原が学校に来ることはなかった。わたしと春には、井原が生きているのか、死んでいるのかもわからなかった。また以前のような苦痛の日々が訪れた。でも、春がまた井原の家に行くなんてことは、二度となかった。

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