02
◇
無機質な灰色の石の下で、井原は眠っていた。安らかかどうかを推し量ることなんて、この世界の象の頭数を一の位まできっちり数えるよりも難しかったが、なんとなく、わたしの涙が石に染み込めば、そのぶん井原は深く眠れるのではないかと思った。むしろそうでないと、救われなかった。井原が、というよりも、わたしが。
井原は昔から陰口を叩かれていた。春はきっと知らなかったが、わたしは気付いていたし、井原もそうだった。ただ、ピアノを好きに弾いているだけで、調子に乗っているだの、なんだのいわれていた。有名税ってやつだ、仕方ないのかもしれない。けれど、井原が友達をあまりもたなかったせいで、それはどんどんエスカレートしていった。
口だけでなく、ものに及ぶ。最初は靴を隠す程度のことだったが、次第に靴だけでなく、筆箱、教科書、ノートと増えていき、体育の時間には、下着がなくなることもあった。小学四年生くらいだったか。そのころになると、ようやく春もいじめに気付いて、正義感の強かったあいつは、主犯格の女子を見つけ出してぶん殴った。それから井原に対するいじめは消えていったが、今度は、春の番だった。
春はどこまでも曲がらない、鋼鉄みたいなやつだった。あいつは誰の助けも借りずに――つまりはわたしも井原も蚊帳の外といった具合で、大人にもいわない――いじめてくる集団と真っ向から対立した。靴を隠されたら、相手の靴を投げつけたし、下着をとられたら、上着だけ着て殴り込みに行った。そんなことができるやつは、たぶん春くらいしかいないだろう。やっぱり、めちゃくちゃなやつだ。
最終的な軍配は、春に上がった。春が騒ぎ立てたせいで、結局、大人たちにいじめの存在が露呈したのである。主犯格たちはこってり絞られて、それを見た春は、いかにも満足げだった。
でも、井原だけは空っぽな表情をして、春に「ごめんね」といった。「気にしないで」と春はいったが、はたして、井原は気にしないでいられたのだろうか。「ありがとう」と空っぽな笑顔で返す。春はなにも気付かない。わたしだってその頃はなにも思わなかったけれど、思い返せば、あのときから井原の狂気ははじまっていた。
なににせよ、井原はピアノで哀しみを紛らわせた。打鍵音が響くたびに、心が軽くなっていくようだった。好きだったピアノは、あるときから逃避へと変わっていった。その音が綺麗であることに違いはなかったが、破滅はより近づいていく。とはいえ、昔の三人とも、そんなことは一ミリたりとも感じてはいなかった。
哀しみは途切れない。
いじめが起こってから、井原の横顔に宿る空虚な感じは、より濃くなっていった。学年が上がるにつれて、思い出の中に埋もれていったより古い思い出は、しかし常に底で重いままだ。忘れたいものほど忘れられない。人間とは欠陥だらけだから、生きにくいことばかりする。井原だってそうだった。
◇
中学三年生のとき、わたしたちは同じ高校を受験した。可もなく不可もなくといった、中途半端な高校で、わたしたちの中学校の生徒はだいたいそこへ流れていく。三人とも、学力に不足はなかった。まず合格するし、落ちることはそうそうない。
だからわたしたちはそれなりに勉強して、それなりに遊んでもいた。そのころ、わたしが仲良くなった男子が、青木だった。青木はサッカー部の主将で、顔はまあまあだが紳士的だった。ふたりで遊ぶこともしばしばで、夏が終わり、青木がサッカー部を引退してからは、よくあいつの家で勉強をした。青木は小さなアパートに家族と暮らしていた。弟がひとりいて、その子はいつも外で遊んでいた。
わたしはやつが好きでもなんでもなかったが、青木からの好意は、特に嫌というわけでもなかった。ある日、わたしは青木の家で、まるであいさつのようにキスをした。どちらかが求めたわけじゃなく、ただ自然に、そうあることがもっともらしいと感じたからだった。
それからなにがあったわけでもない。ふつうに勉強をして、わたしはいつものように家に帰った。その日から付き合うなんてこともなかった。いま思えば奇妙なことだが、とはいえ、あの頃の感情なんてそんなものかもしれない。
ただ、わたしと青木が最終的に付き合わなかったのかというと、そうはいかなかった。中学校のうちは交際なんて考えなかったが、高校生になって――井原が死んで。春しかすがれる人間がいなかったわたしの前に、ふと、青木が現れた。
同じ中学校のよしみで葬列に参加した青木は、棺の前でひたすらに泣くわたしに近づいて、隣で手を合わせた。そして、ただ一言、「あんまり背負い込むなよ」といった。そんなこと、できるはずがなかった。でも、そのことは、青木だってよくわかっていた。中三のころ、わたしと仲が良かったあいつは、わたしが井原にやったことをすべて知っていた。
だからこそ、あいつはいったのだろう。高二の頭で、精一杯に出した、あいつにとっての最適解なのだ。わたしは結局、青木に抱き着いてしまって、彼は顔を押しつけて泣くわたしをいつまでも宥めてくれた。
数か月後に、ようやく癒えかけてきたこころの傷をぶら下げて、青木の家に行った。理由は、よくわからない。なんとなく青木に会いたかった。
あいつは昔のアパートから一戸建てに引っ越していて、住所も、青木の友達に聞いて知っていた。突然にわたしが来たら、あいつはどんな顔をするんだろうか、と思った。困るんだろうか、喜ぶんだろうか。いや、喜ぶって、どうして。
いろいろ考えていたら、赤信号を渡りかけて、車に轢かれそうになった。そこで、やっと冷静になる。アポなしで行くなんて、馬鹿らしい。いや、わざわざアポをとるのも馬鹿らしいかもしれないが、とにかく、へんだ。でも、青木の家はすぐそこで、いまさら引き返すのも、あほらしい。
わたしは青に変わった信号を見て、歩き出した。ここまで来たら、行くしかないと思った。天気は曇りで、歩き出すとちょうど、雲間から微妙に光が差した。
青木の家の前までくると、野球の素振りをする坊主頭の男の子がいた。一瞬、わからなかったが、青木の弟だった。二年ぶりに見た彼の弟は、中学生になっていて、格段に大人びて見えた。
彼はわたしに気付くと、素振りをやめて、「お久しぶりです」と敬語でいった。
「覚えてるの?」
「はい、覚えてます」
礼儀正しい喋り方をするものだった。なんとなく奇妙だったが、成長したのだなと、どこか安心した。
「兄ちゃん、呼んできます」
弟はそういうと、すぐ家の中に引っ込んだ。それからちょっとして、青木が顔を出した。彼はわたしを見るなり、「よっ」と短くあいさつした。
「上がりなよ」
青木はなんの戸惑いもなくそういった。わたしは頷いて、門をくぐった。
家の中はカレーのにおいがした。「今晩、カレーなんだよ」と青木がいう。
「俺がつくるんだ。そういう日だから」
「そういう日って」
「当番制なんだよ。でも、俺、カレーくらいしか作れないから、俺の日はぜんぶカレーだ」
「また今日もか、って感じ」
弟が不満そうにいった。もうバットを片付けて、二階に上がろうとしていた。
「そういえば、晴翔くんって、野球してるの」
去りかけた弟に、わたしはそう問いかける。
「はい」と頷いた。「俺、野球のほうが好きなんで」
弟は階段を上っていった。わたしは青木にリビングに通される。テーブルに着くと、お茶を出された。
「急にどうしたんだ」
と、青木はわたしの向かい側に座って、訊いた。答えられるような理由もない。ただ、
「なんとなく」とわたしは答えた。
「そうか」青木はお茶を口に含んだ。
「晴翔くん、サッカーいかなかったんだね」
「あぁ。あいつは俺と同じことをしたくないんだ、たぶん」
「嫌われてるの」
「そう見えるか」
「ううん」
青木はシニカルに笑った。
「嫌ってるとかじゃないんだと思う。なんていうか、あいつにあって、俺にない、別のたぐいのプライドとかが、あるんじゃないかな。それに、俺は、べつにサッカーやれなんていわなかったし。まあ昔はなにもいわなくたってサッカーしてたけど、いつ頃だったかな、急に野球をやるっていいだしたんだ」
「野球のほうが好きっていってたよ、さっき」
「そうだな。俺、初めて聞いたよ、あいつがそういうの。なにが好きとか、あんまりはっきりいわなかったんだけどな、いままで」
「そうなんだ。でも、わたし、好きなものたくさん聞いたことあるよ。実は吹奏楽が好きだとか」
「……」青木は驚いたような顔をした。「吹奏楽が好きって、よく知ってるな。人にはいわないのに」
「聞いたよ、一度」
「そうか。理由は知ってるか?」
「昔からトランペットやってる都ちゃんが好きだから」
それを聞くと、青木は大笑いした。
「そう! そうなんだよ!」
わたしもつられて笑ってしまった。あの弟は、けっこう可愛らしいところがあった。
それからわたしたちは晴翔くんのことを話の種にして、二時間くらい喋りこんでいた。もう外は暗くなりはじめていて、帰ろうとしたら、夕飯を食べていかないかといわれた。わたしは親に連絡して、青木のカレーを食べることにした。
青木の親は帰ってこなかった。どうも共働きで、両親ともかなり忙しい人間なのだそうだ。わたしは青木と、弟の晴翔くんと、食卓を囲んだ。不思議な気分だった。我が家の味とはまた違うカレーは、ちょっぴり辛かった。
帰りは青木が送ってくれた。道の途中で、昔、青木の弟が「カレーが好きだ」といっていたことを思い出した。だからといって、わたしが青木にそれをいうこともなかった。たぶん、あいつもそれを知っていた。
その三日後あたりから、わたしたちは付き合い始めた。これもまた、特にどちらかが告白したとか、そんなこともない。ただ、三日後の放課、夕陽が散々に降り注ぐ街道で奪われた唇が、始まりだったのだと思う。
青木はそのときからわたしのこころの支えであり続けた。青木がいなければ、とたまにふと思うくらいには、彼の存在はかけがえのないものだった。井原がわたしに残した傷は、ゆっくり消えていく。もう微かな跡しか残らない。
それでも、まだ存在感を放つその傷跡は、わたしが一生涯かけて向き合っていかなくてはならないものだ。わたしが井原にしたことも、井原がわたしにしたことも。ぜんぶがぜんぶ見えなくなるなんてことは、たぶん、死んでもない。あの世でも苦しみが続く。
ただ、そのとき、青木がいてくれるなら、なんとなく、やっていける気がした。そうだ。わたしはやつが好きなのだ。