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01

 今は亡きひとに。

 心さえなかったなら。



   ◇



 廃棄油を舐めるような午後だった。雑踏はくだらない音楽。太陽は空を滑り、大地を疎ましいほどに燦々と照らしていた。いま、陽気に囲まれている。天候はまだ崩れるようすを見せない。人々が蠢く街を、わたしは目でとらえきれていなかった。


 ビルは影を落とす。

 春は土足で上がり込んでくる。


 帽子を目深にかぶり、わたしは灰色の地面を見つめた。遥か昔、しっとりとした感触の土があったであろうこの場所。コンクリートで固められ、いまでは冷淡な表情を見せる。それを文明と呼ぶ。


 文明……それは人類の揺るがぬ前進だ。生命というものに疑問を抱かなかった時代、ヒトは生存のために本能的な前進を開始した。それが五百万年前のことである。二足歩行を開始し、また多くの道具、さらには科学の進歩となると、それからずっと遠い未来の話ではあるが、いまを生きる我々にしては、遥か太古の物語である。


 人類史は、常に戦いとともにある。


 紀元前より、食料や領地を巡る凄惨な争いは世界各地で行われていた。どの国のどの街にも、きっとその地下には何万トンもの血と悲壮の涙が染みわたっていることだろう。その上に、『いま』という時間が成り立っている。そしてその『いま』でさえ戦争が起こり、蹂躙する者とされる者、両者の間に決定的な差異が生じる。何千年にも続く歴史的差別。不平を唱えた者から死んだ。そういう時代もあった。いまはどうだろうか。わからない、とわたしは首を振る。しかし、善が短命ならば、悪は霞の命だ。それだけはわかる、ような気もする。


 血は滴り、涙は枯れる。


 呼吸をするたびに肺が焼け落ちる。


 なにを捨てれば、なにを望めるようになるのだろう。

 いつもそればかり考えていた。




   1




 天才は二度死ぬ。その言葉をはっきりと理解したのは、ちょうど十年前のことだった。わたしがまだ高校生のとき、井原は死んだ。自殺だった。いったいどうして、なんて思わないでもない。でも、心の底から知りたいとは、どうしても思えないのである。


 井原は小学生のころ、ピアノの才をもてはやされていた。彼女にとってピアノは生き甲斐だったらしい。もしくは、それ以上の存在。


 ただただ、毎日ピアノに齧りついているような子だった。彼女が笑ったのは、ピアノを弾いているときで、それをわたしたちが聞いているときで、演奏を終えたときで、わたしたちが拍手をしたときだった。それ以外で笑うことは、滅多にない。そもそも、それ以外のことをすることが、あまりなかった。


 昨日も弾いて、今日も弾いて、また明日も弾く。どんどんうまくなって、どんどんうまくなって、どんどんうまくなる。小学四年生のとき、学校の体育館でソロでピアノを弾いた。その数か月後に、地元のホールで、さらに数か月後には、テレビカメラの前で一曲披露した。わたしたちはそれらをぜんぶ観た。ピアノの前で笑う彼女を、きれいだと思った。


 そんな井原は、もちろん人気者だったが、友達はあまりもたなかった。それこそ、わたしか、春くらいなものだった。周りから見たら、わたしと春が、人気者の『囲い』みたいに見えたかもしれないけれど、でも、実のところをいうとまるで違う。実際は、わたしと井原が、春を囲っていた。


 井原は春みたいな子に、心底憧れているらしかった。春は御転婆娘で、単純なばかで、いったいどこに憧れているのか。昔はわからなかったが、いまではなんとなく、わかる気がする。


 井原は消極的な子どもだった。明るい様子を見せるのは、ピアノを弾くとき以外にない。


 ピアノは井原の誇りだった。


 春に近づける、ただひとつの方法だった。




   ◇




 井原が崩れたとき、わたしと春はなにもできなかった。壮絶な瓦解だった。もう自由には動かせない左手を恨めしそうに睨み、ついには、ある日の授業中、突然に発狂した。地の底から這い出た悪魔が、井原を乗っ取っていた。


 彼女は泣き喚きながら教室を飛び出し、廊下の窓に額をぶつけた。同じ高校でも、クラスが別だったわたしと春は、しかし声を聞くなり井原のもとへ走った。わたしは窓枠に張り付いていた井原を引き剥がして、そして春が泣き止まない井原を強く抱きしめて、手に持っていた鋏をやさしく取り上げた。でも、それ以上のことはなにもできなかった。わたしはたぶん、なにも声を掛けていなかった。なにをいうべきかわからなかったし、いまでも、わからない。ただ、ただ、ずっと、ずっと、井原の言葉が耳に響いている。


 春ちゃんなんか大嫌い。初ちゃんなんか大嫌い。わたしなんか大嫌い。


 思い出すだけで痛いのに、どうしてもこだましてしまうのだ、その声だけは。いまだに春もそうだという。あのときの井原の言葉は、きっと本音だったんだろうね、ともいう。それからこう続けた。


 ――井原ちゃんは怖がってたじゃん、すべてに。あたしにも怖がってたろうし、初ちゃんにも怖がってたろうし。きっと、ピアノも怖かった。でも……あのときまでは、欠けてなかったから。ぜんぶ手元にあった……なんて、こういういい方は、あれだけど、ね。でも、ひとつだけでも失ったら、崩れちゃうようなところで生きてたんだよ。遅かれ早かれ、ああなってたのかもね。なにも失わないなんて、理想の話でしかなくて、理想の話は、夢にも届かない、靄よりもつかめないものだから。いまも、昔も、ね。


 ――わたし、井原ちゃんのことが大好きだったよ。


 ――それは井原ちゃんもそうだよ。きっと、ね。あたしも井原ちゃんのこと、大好きだった。でも、でも、ね。人の本音なんて、たくさんの抽斗があるものじゃない。大好きっていう本音と、大嫌いって本音が共存しても、なにもおかしくないんだよ。わたしだってそうだったよ。事故のあと、ずっと左手を見てる井原ちゃんのこと、わたし、大嫌いだったよ。でも、大好きだった。初ちゃんだって、そうじゃない?




   ◇




 半年前、井原の命日に、わたしはひとりで墓参りをした。墓石にこれでもかと深く刻まれた『井原なな』という文字を前にして、なんの哀しみも抱かないわけにはいかなかった。嗚咽をせき止めようにも、うまい術が見つからない。わたしは人目を憚らずに泣いた。でも、墓の目の前で泣いているのに、霊園のすみの薄暗い木陰にいるような気分があった。


 わたしが井原の墓を訪れたのは、実はその日が初めてだった。心が、ずっと拒絶していた。あんな死にざまを見て、葬列に並び、彼女の『終わった顔』を覗いた……それだけで、一杯いっぱいだった。


 しかし、日本を発つことを決め、荷物の整理をしていると、わたしの心の中で区画整備が進んだ。哀しみは哀しみで、喜びは喜び。哀しみの贅肉がそぎ落とされ、いつの間にか、井原が眠る霊園に赴く予定を立てていた。十月十三日、わたしは新幹線に乗って、東北の地を目指した。


 井原は父方の実家の裏にある、小さな霊園にいた。わたしはまず、井原の祖母に会った。髪の薄い、背中が曲がった小さなおばあちゃんで、急に現れたわたしを見ると、不思議そうな顔をした。右手にはねぎを持っていた。


 おばあちゃんは最初、東京から来たといったわたしを、異星人でも見たかのように珍しがった。でも、井原の名前を出すと、さっと好奇の潮は引いたようで、窪んだ眼に夜空より暗い翳が差した。家の中に招き入れてくれる。


 おばあちゃんの家では、十月の中旬で、もうすでにストーブとこたつが稼働していた。着ていたコートを脱いでも暑かった。だから、さすがにこたつには入らないで、絨毯の上に正座した。


「ななはいい子だったね」とおばあちゃんがいった。東北訛りはまるでなかった。「あの子のピアノは綺麗だった。ピアノを弾くあの子は綺麗だった。まだわたしが動けたときには……ななが中学生のころかね……東京であった演奏会に招待してくれてね。一番前の、特等席で見せてもらった。いい光景だった。舞台の上で楽しそうに弾く姿が、やけに目に焼き付いてね。いまでもまざまざと思い出せるよ……あの子の笑顔、演奏した曲、たくさんの拍手……誇らしかった……」


 おばあちゃんは目に涙を浮かべながら、滔々と語った。わたしを見据えることはほとんどなく、わたしの背後、仏壇で笑う井原の顔をずっと見ていた。


「どこで、狂ってしまったのか……」


 そういうと、おばあちゃんはおもむろに立ち上がって、居間を出た。階段を上る音が聞こえて、気がかりで追った。その家の階段は、手すりがあるもののだいぶ急だった。おばあちゃんが上がるには危険そうである。それでも、ゆっくりながらも危なげなく上る曲がった背中が下から見えた。わたしはおばあちゃんを追って、階段を上る。一段進むたびに、階段がギシギシと鳴った。


 二階の一室で電灯が点いていて、どうやらそこにいるらしい。中を覗いた。そこではおばあちゃんがわたしを待っていて、やわらかい笑顔で、額縁に飾られた大判の写真を見せてくれた。


 写真の中央に、舞台の上でピアノを弾く井原の姿があった。まだ横顔に幼さの残るころだ。赤いきらきらのドレスを纏い、激しい橙のライトに照らされるその姿は、野花のようにあどけなくて、きれいだった。


 わたしはその写真に見覚えがあった。中学生のころ、天童としてすでに有名だった井原が、初めて開いたコンサートの写真である。もちろん、わたしと春はホールで演奏を聴いた。一時間程度のコンサートは盛況で、井原はいつも以上に輝いていた。


 あのころの井原が、わたしは大好きだった。有名になっても鼻にかけることはせずに、どこまでいっても単にピアノが好きなだけの、かわいい女の子。たくさんの用事が入るようになって、練習や取材で忙しくなっても、大事なステージには必ずわたしたちを呼んでくれて。友達想いの、やさしい子だった。


 どこで狂ってしまったのだろう。春にいわせてみれば、あの事故で左手が動かせなくなってからで、ふつうに考えてみれば、それはそうだ。井原が発狂したのはピアノを失ったからで、もし事故に遭っていなければ、井原はいまもピアノを弾いていたかもしれない。


 でも、事故はただのきっかけでしかなかったのではないか、とわたしはときたま思う。彼女が死を選んだ根源的な理由はもっと別のところにあって、より昔まで遡及しなければ、井原の心に根差した狂気は辿れないのではないか。彼女が気を抜いたときに見せた、空っぽの表情が胸に引っ掛かっている。春はたぶん、その表情に気付いたことはなかった。あの子は井原に盲目だったから、わかるわけがない。


「どうして死んでしまった……」


 気がつくと、おばあちゃんがすすり泣いていた。写真を抱きしめながら、膝から崩れ落ちる。わたしは曲がった背中を撫ぜて、その、哀しい、小さな老女が泣き止むのを待つしかなかった。


 暫くすると、おばあちゃんは床に写真を伏せて、ぽつり、ぽつり、語り出した。


「あの子からね、友達の話を何度も聞いたことがあってね、あぁ、たしか……あんたは、初ちゃん? あぁ、思い出してきた……あんたのことを、いい友達だってずっといっていた。あとは、春ちゃん? その子のことも、楽しそうに話してた。あの子がわたしに話した大半は、ピアノのことか、あんたたちと遊んだこと。記憶がおぼろだけれど、小学生だったころ、あの子が校舎裏で幽霊を見たっていったことがあるらしいね……? 初ちゃん、あんたは信じなかったけど、春ちゃんとやらは信じ切ってしまったみたいで、それから一週間、幽霊捜しをしたんだって。春ちゃんが先頭に立って、ななを挟んで、あんたが尾っぽの縦並びで、学校中を歩き回ったって聞いたよ。旧校舎にも行ったんだって? 立ち入り禁止だっていうのに。それが偶然、通りがかりの人に見つかって、先生に怒られて、やむなく幽霊捜しをやめたんだって。悔しそうにいってたよ。もうちょっとで、見つけられたのにって。初ちゃんは信じなかったけど、わたしと春ちゃんにはわかるのってね。わたし、それを聞いてね、ひどく安心してしまった。ちゃんと友達がいて、あの子にとってずいぶん重かったろうピアノじゃなくて、もっと別のことで、子どもらしいことで、楽しめるなら。安心したよ、嬉しかった。いい友達がいるんだと思った。でも、狂ってしまった……どこかで。どうして、どうしてなんだろうね……あぁ、ごめんね、初ちゃん。あんたにする話じゃなかった。あんただってどうしようもなかったろうよ、ごめんね、ごめんね。ななちゃんと友達でいてくれて、ありがとうね、ごめんね、ごめんね……」


 わたしが井原の墓へ向かうとき、おばあちゃんは霊園の手前まで見送ってくれた。そしてわたしに、何度も「ありがとうね」といった。わたしはなにもしていなかった。いまも、昔も、ずっとそうだった。

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