第1条
第1条
最初の感想は、そう……「臭い」だった。
とにかく臭い。この臭さのおかげで無事覚醒できたのではないかと思うぐらいに臭い。
こんなに臭いところが病院のはずはない。どこかの遺体処理場だろうか。
それにしても臭い。文字通り鼻が曲がりそうだ。
「おや、お目覚めかい?」
中年女性の声。
目を開くとそこは木組みの天井だった。
寝かされているベッドもおよそベッドと呼べるものではない。
ただ木床の上に藁を敷き詰めただけの粗末な寝床。
「体は痛まないかい? 痛みがないんだったら起きて飯をくいな」
がたいのいい、小太りのきもったま母ちゃん然とした女性の姿がそこにあった。
「あんた、ここに運ばれてきてからまる一週間近くなにも食べてないんだ」
差し出されたのは木碗と木を削り出して形成されたスプーン。
覗いてみると木碗には白濁色に濁ったスープらしきなにかが入っている。
ひどく薄味の、でもおいしいと感じられるスープだった。
空腹でいっきに飲み干してしまったのがおかしかったのか、中年女性が笑う。
「まぁまぁ、そんなにおいしそうに飲んでくれれば作ったあたしもうれしいよ」
そう言ってまた、彼女はにかっと、満面の笑みで笑う。
決して美人というわけではないし、年のころも50代半ばの女性であるが、今の俺には彼女が女神にさえ見えた。そんな女性のくったくのない笑顔。
損得勘定のまったく絡まない自然な、人間らしい笑顔がそこにはあった。
「あ、ありがとうござ――」
そこまで言いかけて、全身に震えが走る。
日本語ではない。俺の今の言葉も、さっきからの彼女の語りかけも、音としては日本語ではない。
それでもわかる。さも日本語を聴いているように自然に理解できる。自然に話せる。
これはちょっとした恐怖だ。自分が自分でない何者かになってしまったという恐怖。
「お、話もできるみたいね。よかったよかった、心配したんだよ」
わからない。
俺は、俺は三鷹にかまえた俺の事務所で、そうだ俺の事務所で……ころされた。
コロサレタ。男に刃物で、殺された。刺し殺されたんだ。
自分の心臓に突き立てられるソレを俺はこの目で見た。
どう考えたって助かるレベルの外傷ではなかったはずだ。
だから、わからない。
「あんたが壁の外で倒れてるって聞いてさ、すぐここに運んだんだよ」
見回すと、やはりここはとても日本とは思えない構造の木造の建物の中。
およそ日本とは思えないほどの臭い立つ悪臭。室内にいてもはっきりとわかる腐敗と汚れの臭い。
「あたしゃ、イーラ。あんたは? もう自分の名前ぐらい言えるだろう?」
そう問いかけられてようやく眼前の女性に意識が戻る。
彼女だってよく見れば日本人の顔つきではない。
赤毛で、眼も水色がかった、まさに白人の容姿だ。
「セト、セト ハルヒコです」
自分の名前だというのになぜかぎこちないカタコトになってしまった。
妙に発音しづらい。日本語を日本語の音として発音しづらいのだ。
さきほどイーラと名乗った女性は「うーん、やっぱり異国の人かねぇ」と腕組みをして困り顔をする。
「ありがとうございました」
社会人として、どれほど混乱していても言うべき礼は言わなければならない。
「どうやらいろいろとしていただいたみたいで。お礼はかなら――」
「それよりはやく元気になってベッドを空けてくれるかい? いまはそれが一番のお礼だよ」の言葉で俺の言葉を遮ったのは彼女の優しさか。「うちは宿屋だからね」と続く。
なるほど、そういうことか。ここはいつもなら他の客を泊まらせる客室なのだろう。
その客室を俺が埋めてしまっている。
俺が元気にならない限り、ここに客を入れられないから儲からないということか。
それは確かに申し訳ない。それに、のちのち営業損害金を請求されても困る。
室内を見渡す限りとても一流ホテルとは思えなかったが、屋根付きで雨風しのげる場所で寝られるなんて、それはそれで贅沢なことなのかもしれない。少なくとも近代文明の欠片さえも見つけられないこの不思議で、時代に取り残されたような未開の土地ではそうなのだろう。
さてどうしたものか。
あのあとイーラが去ってから俺はずっと思案していた。
そしてあるばかばかしい仮説にたどり着く。
『異世界転生仮説』である。難しければ『なろう理論』と言い換えてもいい、というのは冗談だが。そんな冗談が頭から飛び出すぐらいには混乱も治まっていた。
つまり、今はやりの異世界転生ものである。小説でもアニメでも、異世界ものというジャンルが出来上がるほどに、異世界転生の人を惹きつける魅力は強力だ。
絵空事にも思えるそんな、いわゆる非常事態がこの俺に起こったという仮説を俺は笑い飛ばした。
あほくさい、なにが異世界転生だ。
きっと実際のところは、なにかがどうにかなってまだ近代科学文明を受け入れていない土地に流れ着いてしまったというやつなのだろう。どうせそんなところだろう。
アメリカで電気文明を拒絶して、昔ながらの生活をしているアーミッシュの人々を真っ先に思い起こす。
まぁそれにしても、日本の三鷹からアメリカのアーミッシュ集落へ流れ着くなど、おかしな話ではあるが。
不思議なことは意外に身近にあるモノなのだろう。
いろいろな理屈を総動員して事態をなんとか正常化しないと、頭がおかしくなりそうな感覚に襲われた。
部屋のある二階の木窓から覗く外の様子は、まったく中世ヨーロッパの街そのものだったのだから……。
鐘楼をたたえた立派な教会を中心に、市の立つ広場が広がり、その広場から東西南北各方面に大通りが伸びる。大通りからいくつもの通りがランダムに派生し、各区画がそれぞれ形成される。
ずっと向こうには都市を囲むように壁がめぐらされ、壁の外には無数の耕作地が所狭しと広がっている。さらにその外側には吸い込まれそうな深く暗い森が、旅人を拒むもうひとつの壁としての役割を果たすようにそびえていた。
祝日なのだろうか、通りは大勢の商人や街娘でごったがえしていて、馬車はあれども車は一台も……。
ここまで見渡してみて、俺は外をのぞくのをやめた。
また悪寒がする。
一度整理をつけた『アーミッシュの集落に流れ着いた』という仮説は、ここまでの眺めで完全に打ち崩された。
これはアーミッシュとか文明を受け入れないどこかの地方とかいう、そういうレベルのものではない。
これはまぎれもない中世ヨーロッパの街並みだ。
やめだやめだ。今はまだ頭が混乱してるだけだ。
きっと悪い夢だ。もうひと眠りすれば夢は冷めてきっと三鷹に、三鷹の俺の事務所に……。
いやあそこには戻りたくないな、などと思う。
願わくば、次に目覚めるのは日本の、臭くない清潔な白い天井とふかふかのベッドのある病院であってほしい。
もう外は観たくないから、今度は室内に目をやる。
都心の激安ワンルームほどの狭い縦長の部屋にはベッドと小さいテーブル、そしてたぶんトイレ代わりであろう木のバケツしかない。
小さいテーブルの上には金属製の水差しと木のコップ。その横には……次の瞬間思ってもいなかった、でも見慣れたものが目に入り、心臓が跳ね上がる。
厚さにして5㎝はあろうか、分厚い本。そして金色に輝くバッジ。
まぎれもない、六法全書と行政書士徽章だ。
なぜここに。こんなものが。
神様が死してなお、「お前は行政書士であれ」と俺に告げているとでもいうのだろうか。
鼓動が早くなっていくのを感じる。
意識がもうろうとしていくのを感じる。
手足がしびれてきてうっとうしい。
俺は結論を保留することにした。
俺は死んだのか、死んでないのか。
ここは俺のいた世界なのか、違うのか。
これから俺はどうなっていくのか。
すべてはもう一度眠ることで解決するかもしれない。
だから俺は、結論を保留することにして、ふたたび汚れた悪臭のする寝床についた。