第0条
第0条
そろそろ辞め時か。
瀬戸春彦はそう広くもない事務所でひとりつぶやいた。
この地に開業してから3年と4ヶ月、自分なりにできることはなんでもやってきたつもりだ。
だが、それでもなにか一歩及ばなかった。実力も運も、そしてコネクションも足りなかった。
時計はまだ午後4時半を指しているとはいえ、初冬ともなれば日没もはやく、すでに事務所の窓から差し込む陽光で室内はまるでインクをばらまいたかのようにオレンジ色に染まっている。
ここ2ヶ月は電話も鳴らず、来客もない。
当然依頼も舞い込まない。
それでも舞い込むのは事務所賃貸料の未納を告げる督促状。
ああ……ここらが潮時だ。いさぎよく事務所をたたんで、実家に帰ろう。
サラリーマンを辞めて行政書士事務所を開くと告げた時、両親は反対した。その反対を押し切って開業したのだ。いまさら、その両親にどんな顔をして会いに行けばいいというのか。
差し込む陽光を受けて、右手に握る金色の行政書士バッジが鈍く光る。弁護士バッジのモチーフが天秤なら、行政書士バッジはコスモスだ。
秋桜の花言葉は――調和・真心。
行政書士たる者の理念を、この秋桜が正確に表しているといわれている。
いまとなってはもうどうでもいいことだ。このバッジはもう行政書士会に返却する。
俺はもう行政書士を辞めるのだから。
左手でただ息苦しいだけのネクタイを緩めながら思う。
アルバイトでも派遣でもやって、ほそぼそと生きていくさ。
こんなことならサラリーマンを続けていればよかった。仕事はどうも好きになれなかったが、安定はしていただろうに。資格を取って一発逆転なんて発想がそもそもまずかった。
俺は、俺はもう……。
自然とほほを涙が流れ落ちていく。
事務所のドアが突然に開かれたのはその時だった。
入り口には男性の姿。
依頼者かもしれない、これで大きな仕事が入れば行政書士を辞めないで済むかもしれない。
俺はすぐに涙を拭って椅子から立ち上がる。
「こんにちは。どうぞ」
男性は黙っている。よっぽど緊急な立場に置かれたのだろうか。訴えられたとか、連帯保証していた債務者が消えたとか、そういう事情だろうか。
「どうぞこちらへ。お話はあちらのソファーで」
つとめてにこやかに、営業用のスマイルで応接する。
無精ひげをはやした決して身なりがいいとは言えない男性は、しかしそれでもまだじっとこちらをにらみつけるようにとらえている。
ふとなにかがおかしいと気づく。
この男を俺は知っている。確実に、どこかで一度だけ会ったことがある。
どこだ、どこで会った。脳内でこれまで関わった顧客リストを検索する。
少なくともこの時点で気づくべきだった。
この男が右手に銀色に光るモノを握りしめていたことを。
この男が8ヶ月前の受任案件の相手方だったことを。
だがそれに気づいたのは突然駆け寄ってきた男が俺に抱き着いてきてからだった。
「えっ……」
痛みはない。でも自分の血が流れ出ているのはわかる。
男が耳元でささやく。聞き取れるか、聞き取れないかの微妙な声でささやく。
その声が心に突き刺さる。話に聞いてはいた。とくに訴訟がからむ弁護士ではこういう事件も少なくはない。だが、それでも、まさか俺が。「お前のせいだ」という男の声は、さながら鬼のそれだった。
「お前が悪いんだ。お前のせいで俺は」
怒鳴るでもなく、感情をむき出しにするわけでもなく、男はただ冷たく言う。
「俺の人生はあの日終わった。お前が終わらせたんだ」
体が冷たい。初冬の三鷹はこんなにも肌寒かったか。空調の効いた室内で、俺はいまにも凍えてしまいそうだった。
血が失われている! 理性が冷静に警報を鳴らす。
一度引き抜かれた銀色に光るソレが、再び俺の体に差し込まれる。
不思議と痛みはない。それよりもただ混乱していた。
法律家のせいで不利益を被った、いわゆる法的相手方が、その案件を担当した法律家を逆恨みし凶行に及ぶというのはない話ではないが、今までは酒の席の話。ただの他人事だった。
ただ今回はその狂気が俺に向けられている。
俺はもう今月で行政書士を辞めるつもりだったのに。
その俺が過去にした行政書士の仕事のせいで、恨まれて殺されるのか。
酒の席でも笑えないな、これは。
再び引き抜かれた銀色のモノは、三打目が振り下ろされようとしている。
そこは心臓だ。
だめだ、そこはだめだ!
息を吸ってはいる。大量の汗を流しながら、必死で呼吸してはいる。
それでも体に空気が入ってこない感覚が治まらない。
男の息づかいが聞こえる。まるでひと仕事終わったように、やりおえたように深い呼吸をする男の息づかいが感じられる。「ふはは」と男は軽く笑っていた。
そしてやっと思い出した。あの離婚案件の、あのDV夫か、こいつは。
昔ならすぐ思い出せたのに、俺も歳をくったものだと思う。そんな場合ではないだろうに。
強烈な眠気。いままでに感じたこともないぐらいの強烈な眠気。
このまま寝てしまえば楽になるのだろうか。
こいつをぶん殴ってやりたいが、どうやらそんな元気はないらしい。
死ぬのか俺。
とても満足な人生だったとは言えないな。
こんなことになるなら最後に両親に会いたかった。
一目会って、謝りたかった。
瞼がとてつもなく重い。
遠のく意識のなかで俺が最後に見たのは、夕陽に染まる事務所と、右手の行政書士バッジと。
そしてデスクの上の使い古された六法全書だった。