教唆
「俺は、どうすればいい?」
男は、神父にそう尋ねた。もう何年もこの教会に通っている。男が教会を訪れるのは、いつも町が寝静まる夜だった。
「どうしようもないよ。君は十分頑張っている。けれど、君が頑張ってもどうしようもないこともある。むしろ、これ以上自分を責めたら、君の心が耐えられないよ。」
「そうじゃない。今日は、そうじゃないんだ。」
男は首を横に振る。神父と目を合わせることなく、自分に言い聞かせるように男は話を続ける。
「もう、誰かと一緒に生きるなんてことは諦めた。自分の幸せを求めるのもやめた。ただ、このままでは、俺が生きている意味がない。生きている意味が欲しい。」
「生きるのに意味なんていらないさ。」
「だったら、みんなに幸せになってもらいたい。俺ひとり不幸でも、みんなは幸せ。せめて、そうなって欲しい。どうすればいい?」
男は、神父の言葉が聞こえなかったのか、そのまま話を続けた。相変わらず、目を合わせようとしない。
そのとき、神父に恐ろしい考えが浮かび上がった。今までにも、何度か浮かんだ考えだった。
あまりにも恐ろしい考えだった。しかし、そのあまりにも恐ろしい考えにもかかわらず、そのときの神父にはそれ以外救いがないように思えた。
「悪い人になればいい。悪い人になって、みんなの憎しみや怒りを、全部自分に集めてしまえばいい。そしたら、みんな互いを憎しみ合わなくなるし、傷つけなくなるんじゃないかな。まあ、完全になくなるとは言わないけど、少しはよくなる。」
神父はこの言葉を誰から授かったのか。滞ることなく、スラスラと口から言葉が出てきた。これは、神の言葉なのか、それとも―
「そうか。分かった、ありがとう。」
男と目が合う。その真っ赤な目は、たしかに笑っていた。その目には覚悟が滲んでいた。まるで、そんなことはとっくに分かっていて、その言葉を神父が口にするのを待っていたかのようだった。
そうか。君もそう思ってしまったのか。神父は男の背中を、ただただ見つめる。
「あ、そうだ。もし俺が死んでも、祈りは捧げなくていい。おまえと会うのも、これが最期だ。いままで、世話になった。」
男は振り返ると神父にそう告げる。神父は小さく頷く。
「じゃあな。」




