胡蝶の夢跡
少女は歩きます一本の道を、一人で歩き続けます。
太陽が彼女を嘲笑うかのようにぎらぎらとてりつける夏です。
わきの畑を耕していた老人が顔を上げて尋ねました。
「お嬢さん、東にいくのですか」
「東になんか行かないわ。私が行くのは前です、ただ真っ直ぐ行くのです」
そうですか、と老人は頷き彼と彼女は別れました、
さようなら二度とお会いすることはないでしょうが。
少女はまた歩きます、ひたすら真っ直ぐ歩きます。
哀しみを胸に宿したまま、まっすぐまっすぐ歩きます。
道端に小川がありました。少女の故郷の都市にはなかった澄んだ綺麗な水でした。
彼女は思わず手を浸しました。
…冷たい、久々に心が揺れました、掬って飲みます。
乾いていた喉が潤って初めて喉が乾いていたと気付いた少女は笑います。
私、喉が乾いていたのね。
また少女は歩きだします。彼女は家出少女です。理由なんてありません、
ただとびだしたのです。青春のために。
思えば、母親と喧嘩したのかもしれません。父親の虐待が烈しかったのかもしれません。
出来のいい兄弟と比べられるのに耐えきれなかったような気もします。
少女の記憶は曖昧です、夢と現実が絡まりあいさらに脆く原型をなくしていきます。
蝶が目の前を通り過ぎました、彼女はふらふらとその後を追い掛けます。
何故かそうしなければいけない気がしたのです。
周りも見ずに追った先には小さな庭がありました。
数年前は美しかったであろう箱庭には無数の鴉揚羽が舞っていました。
少女が追ってきた青い蝶はどこにも見当たりません。
黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒
無我夢中で青羽を探しながら庭に踏み込みます。土は湿っていて柔らかく、
足を柔らかく受けとめてくれるようです。こんなにも強い陽射しの元、
何故管理もされていない庭の土が水分を保っているのか、庭には蝶と棘以外は
ありません。茂る草は全て薔薇のようです、ひとつも花はありません。
刺が少女の行く手を阻みます。
まるで少女を最奥部にたどり着かせまいとでもするように、黒い羽が目の前をちらつきます。
庭のむこうには小さな小さな白い噴水がありました。
水がわきだしています。どうしてか懐かしさが込み上げてきて、それから頬が湿りました。
噴水には人がいました、いた形跡がありました。
見たことある名前が刻まれていました噴水の縁に。
××× 誰だかは思い出せないけれどなにか大切なもののような気がします。
心の警告音が響きます。赤いライトが点滅するかのように
何かよくわからないものが少女を掻き立てます。思い出してはいけない何かがあるような。
蝶が舞います、羽根を休めていた黒い蝶がいっせいに飛び立ちます。
その中にあの青い蝶を見つけ少女は追います。
さらに奥へ 奥深くへ。
そして彼女は見つけました、見つけてしまいました。
日記帳を。
彼女の日記帳を。
彼女が春の終わりまで欠かさずつけていた日記です。
何故こんなところにあるのでしょうか。彼女の記録が痛みが。
頁を繰ります、彼女と×××の記憶。記憶が蘇ります、
夢から記憶だけが色を持ち鮮明な輪郭を伴います。そして最後の頁。
端が破りとられた最後の頁は真っ赤に染まっていました。
殺した、私が殺した……?
記憶はやけに朦朧としていて、真相がわからないまま彼女は立ち上がりました。
日記帳をもったまま。視界が歪みました、立ち眩み。
ポケットに手を入れるとカサリとした感覚があります。
取り出すとそれはノートの切れ端でした。ノートの破れに合わせてみるとぴったりと合いました。
心のピースはまだ足りません。パズルは穴だらけです。
手に持った切れ端を眺めます。小さな文字で愛してる。
×××どこへ行ったのですか、あなたは。会いたいです、貴方に会いたいのです。
死を誘うという蝶が舞います。視界を埋め尽くしました。
もうそこに少女はいません。いないのです。
だってこれは―夢だから。
8月の終わり、夢を見ました。懐かしい人がいた気がします。
かつて少女の全てだった×××は暗い部屋の中で切なげに笑いました。
まだ君は探しているんだね、ずっと僕を。僕は君を殺したというのに、
まだ君はそれにも気付かずに彷徨い続けているなんてね。
滑稽で滑稽で愛おしい。
彼の独房にどこからか一匹の黒い蝶が迷い込みました。
ひらひら、ひらひら暫く舞っていたその蝶はやがて隙間を擦り抜けて闇に消えていきました。
彼はその蝶を、握りつぶしました。