止まった時計
性的な表現、残酷な表現を含みます。
苦手な方はお戻りくださいませ。
「あの男……ドルジェは、表向きは慈善事業家として人々の信望を集めてたけれど裏ではコジカンと手を結んで、孤児の中から才気溢れる者や容姿の良い者を集め、一部は自分の私物として側に置き、多くの者は欲深な神どもにスキルやトクポンと引き換えに売り払ってた……」
ひろしは顔色一つ変えずにその話を聞いていた。いや、そう努めていた。もし、少しでも口を開いて感情を口にしまうと、自分でも抑えきれない程の怒りをその胸に内包していたからだった。
「私はあの男に家族を奪われただけでなく、この体さえも穢された……。朝も昼もなく、あの老人の望むときに、望むように」
シェイラを蹂躙することにこの上ない悦びを感じたドルジェは、彼女に対してすぐに老化防止のスキルを施した。彼は重度の小児性愛者であり、同時に両性愛者であった。子供が成熟することを嫌悪し、気に入った者には高価な使い捨てスキルである老化防止スキルを惜しまず使っていた。これによりシェイラは3年に一度程度しか年を取らない体になっていた。そして老人は少女の全てを穢し、壊し、陵辱する。
さらにドルジェはコジカンの子供たちの中からシェイラと比較的仲の良かった者を集め、側においた。逆らったり、自殺をしようものなら……と、子供たちを人質に彼女を脅した。本来はまっさきにヒロカズが人質に呼ばれてもおかしくはなかったが、ドルジェはその性癖から物心がついて間もない様な子供しか側に置くことはなかった。
シェイラは耐えた。醜悪な老人によって連日のように行われる執拗な凌辱に。いつしかシェイラの心は悲鳴を上げることにすら疲れ、笑うことも、泣くことも、抵抗することもなくなった。それをつまらなく思ったドルジェは、今度は痛みを与えることで反応を楽しむようになった。様々な拷問器具を試すように用いて、あらゆる苦痛を与えた。時には命に関わる深手を負わせてはそれをスキルで癒し、そしてまた心行くまで傷つけた。
驚くべきことにシェイラ・ドナンスタッグはこれにすら耐えた。一度として殺してくれとは言わなかった。少なくとも自分が耐えている内は、人質の子供たちに危害が及ぶことはない。
シェイラは孤児院であまり他の子供たちと関わる事は無く、連れてこられた幼い子供たちも顔見知りと言う程度であった。だが、ヒロカズならきっとそういう風に彼らを守るはずだ。私は尊敬する兄にまだ胸を張れる。自由になったらきっと大好きな兄にいっぱい褒めてもらおう。そう何度も言い聞かせた。それだけが彼女の心の支えだった。
10年後、ドルジェのシェイラに対する執着がやっと薄れてきたころ、彼女はスキルの訓練を行うための棟へと移された。STCと銘打たれたその建物の実態は、ドルジェの思いのままに動く兵士の育成機関であり、身体能力やスキル適正の高い者が集められていた。
スキルにはレベルが存在する。仕様した頻度や用途によって効力・威力が上がり、発動条件が緩和される。スキル自体が子供に受け継がれることは稀なケースを除いてはまず無いが、親や祖父母が高レベルのスキルを持っていた場合、それと同系統のスキルに対して子孫が高い適正を受け継ぐことは多分にある。つまるところ先祖が得意としていたスキルのレベルが上がりやすくなる。その点、シェイラ程のサラブレ
ッドは稀有で、彼女を飽きたおもちゃのごとく捨て置くのはあまりにもおしいとドルジェは考えた。シェイラが力をつければいつ反逆するか分からない。が、その危険性を差し引いたとしても、余りにも惜しい才能。そう考えた。
ドルジェの睨んだ通り、シェイラはSTCに集められたどの子供たちの誰よりも早くスキルを習熟していった。ドルジェは成長した彼女を、監視も兼ねて護衛隊長として傍らに置いた。シェイラが人質を連れて脱走することの無いよう、人質を別の施設に移してその安否だけを定期的に示した。
「ドルジェはスキルカードのコレクターでもありました。それだけに頻繁に盗賊が侵入し、私はいつもそれを相手に戦わされていた。けれど、あの日に侵入した賊はたった一人で警備部隊を全滅させたのです」
シェイラは息を荒げながらも力強く語る。ひろしはすぐにでも安立に看せたかったが、積年の思いを必死で語る彼女の瞳がそれを許さない。
賊はたった一人だった。警備兵たちは何をされたのかもわからぬまま次々と地面に伏せていった。ついにはスキルカードの保管部屋の前まで侵入され、シェイラは単独これに対峙していた。
「シェイラ。絶対にこの宝物庫への侵入を許してはいけません! いいですね、守れなければ人質たちを殺すよう手配しましたからね!」
宝物庫の重厚な扉の中から、慌てふためくドルジェの声が漏れてくる。賊の男はそれを鼻で嗤うと、シェイラの方に向き直って口を開いた。
「なんだありゃ。ねえちゃん、あんなのに飼われてるのかぃ? もったいないねぇ」
髭に白髪が混じり始めた中年の男が、品定めをするかのようにシェイラの体を見回した後で、ずるりと舌なめずりをした。
「姉ちゃん超美人だし、邪魔しないって話ならおらぁあんたにゃ手を出さないけど、どうするよ?」
「……私には守るべき者がいます。申し訳ないですが、お引き取り願うとしましょう」
「さっき言ってた人質ってやつかい。お人好しは早死にするぜぇ?」
シェイラが両腕を胸の前打ち鳴らしてから構えると、突き出した腕にジリジリと雷が迸った。男は呆れた様に頭を掻くと、少しだけ腰を落とす。
シェイラが護衛部隊用の真っ白なローブの裾を翻して飛び掛かる。拳を振りぬく度に放たれる凝縮された雷が、強烈な炸裂音と共に壁や床を焦がしていく。
「へ~、早いね。他の番犬とは段違いだ」
目にも止まらない連撃を、男は紙一重で実に楽しそうにかわしたり受け流したりしていた。シェイラが突然しゃがみこんで地面に拳を打ち付けると、男を中心として青白く光る円形の紋様が現れる。
「捕縛術式スタートアップ。シーケンス移行」
「ぬお! なんだぁ!?」
男の腰から下の感覚が突然に失われる。よく見ると電撃で焦げ付いた地面や壁に同じ紋様が無数に浮かび上がっており、男の足元にあるひとつが一際激しく輝いていた。シェイラの捕縛スキルは男の中枢神経に送られる電気信号を遮断していた。
「うげっ、最初から狙いはっ……!」
「移行完了。Aufruf , Elektron Explosion」
捕縛術式の紋様が大きく広がった直後、青白い雷光が竜巻のごとく螺旋を描きながら舞い上がり、やがて弾け飛んだ。
「死んでないといいですが……」
ローブの袖で顔を覆い、閃光をやり過ごしていたシェイラはそう呟いてゆっくりと視線を戻した。他の賊とは違い、あの男は何十人といる警備隊員を倒しており、かつ自分の攻撃をあれほどたやすくかわしていた手鍛れであることを警戒し、初めて対人でこの技を使ったが、真っ黒に焦げてボロボロと崩れ落ち始めた壁や天井の様子をみていると、自分は始めて人を殺したのかもしれないと言い知れぬ不安が過ぎった。
しかし、男は立っていた。深々と腰を落とし、交差させた両腕で顔を覆い、降り注ぐ瓦礫の中に。
シェイラの表情が初めて凍りつく。破壊されたのは男の衣服だけであり、むき出しになった筋肉質な上半身には傷一つ無い。
「ひゅー、痛ってえなあ」
そうおどけた声を上げる男の頭のてっぺんに遅れて崩れてきた天井の瓦礫が直撃する。
「ぐおっ。真剣に痛てぇ! くっそ、しかし今の技はびっくりしたなぁおい。ちょっぴり漏らしちゃうかと思ったぜ」
「そんな……。あれをまともに受けて、傷一つないなんて」
「んん? もしかして勝ったと思ってたのかい? いやあ、だとしたらがっかりだわ~。俺があのくらいで死ぬと思われてたのならがっかりだわ~」
男が頭をうな垂れ残念がっているところに、既に飛び上がっていたシェイラの踵が、青白い軌跡を描いて振り落される。
「げっふ。おまっ、たんこぶになってるところを……」
頭頂部を再び激しく打ち付けられた男が、しゃがみこんで大きく腫れ上がったこぶをさすりながら嘆いた。
「どうなっているの……。身体能力強化スキル? だとしてもこれほどのものが……」
シェイラはひどく困惑していた。ドルジェに与えられたレア等級の雷スキルがこれほどまでにその威力を示さないことはなかった。むしろ他の賊に対しては、殺さぬよう手加減することが難しいとすら感じ、試行錯誤していた程だった。しかし、目前のこの男は全力で打ちこんでも子供の様に痛がるばかりである。
「さてさて、もういいかな。ここを通してもらう」
男は鋭い目つきでシェイラを睨みながらゆっくりと立ち上がったかとおもうと、視線を逸らして宝物庫の扉に手を掛けた。シェイラは再び両腕に力を蓄えて地面に打ち付けようとするが、次の瞬間には得も知れぬ力によって吹き飛ばされ、激突した壁面が衝撃で抉れた。
「さあ、ご開帳だぜ。ってあれ?」
厚さが1mもあろうかという重厚な金属扉に男が力を入れるが、当然開くわけもなかった。その円形の扉には取っ手どころか鍵穴すら無く、ドルジェの開錠スキルのみによって変形し、開かれる仕組みになっていた。男はしばらくそこで扉と押し合いへし合いしていたが、やがて頭を掻き毟りならが二歩、三歩と後ずさる。ふぅっと息を吐き出した後で大きく腰を落とすと、緩やかに指が開かれた左手を前に、小指から順番に折りたたんだ右拳を腰の辺りに構えた。
地面にうつ伏せに倒れていたシェイラだったが、その神々しいまでに精練された構えに、しばらく目を奪われてしまっていた。まさか、普通に殴ってあれを開けてしまう気なのか、それとも何かしらの強力なスキルが放たれるのかと、ある種の期待のようなものすら抱いていた。
男は放った。真っ直ぐに、ただ真っ直ぐにその拳を。除夜の鐘のごとく金属の震える音が施設内に鳴り響く。反響したその音がどこかへと消えてしまった後で、突然金属扉は思いついたかのように周囲の壁ごと吹き飛んでいった。
「ぐ、うぅ。シェイラ、しくじりましたね……!!」
ドルジェは吹き飛んできた巨大な金属扉をシールドを張って受け止めてはいたが、その重圧に耐えかねて苦しそうに呻いた。シェイラはぽっかりと空いてしまった壁面の淵に手をかけてふらつきながらもどうにか立ち上がっていた。
「この無能が! 早くこの賊を始末しなさい! さもないと貴様の……ああっ!ひぃいい!」
男がお構いなしに近づいて、もたれ掛っている扉を足で踏みにじる様にして押すと、ドルジェはついに力尽きて半身が扉によってすっかり押しつぶされてしまった。
男は中腰になってドルジェの白髪をこれでもかと掴み上げた。
「よぅ、神様ごきげんよう」
上体が持ち上がってしまい呼吸もままならないドルジェが、口をあんぐりと開いたままその瞳だけを男に向けていた。
「高徳の神ドルジェか。おまえさん本当にそんな善い奴なのかい? 俺には全くそんな風には見えねえんだけどなあ。まあいい。とりあえず殺しちまうぜ? 準備はいいかい」
ドルジェは必至で首を横に振ろうとするが、男はその頬を掴んで力ずくで頷かせた。
「いやあ、さすが神様、潔がいいぜ。なあ、ボインのねえちゃん」
そう呟いた男の左手にはシェイラの拳がしっかりと握られていた。背後から音も無く放たれた拳を、男は振り返ることもなく受け止めていたのだった。
「こいつが死ねばお前さんも晴れて自由の身じゃねえか。なんで邪魔すんだぃ?」
「…………」
シェイラは無言のまま、涙と鼻水を垂らして怯えている醜悪な老人を見つめた。
「んー? あっ! もしかして……。いいねっ、いいよねえちゃん! そういう事ならいいぜ、俺は手を出したりしないさ。あっはは、そうかそうか!」
男は突然に上機嫌になり立ち上がると、シェイラの肩をバンバンと叩いて笑った。
シェイラは凍るような真っ赤な瞳でドルジェを見下ろしている。
「ひぃ! まさかシェイラ、お前! い、いいのですか。私に何かあったら人質もただではすみませんよっ」
「……ドルジェ様。いえ、ドルジェ。人質を開放するように連絡しなさい」
「誰に向かってものをいっているのですか! 早くその男を殺しなさい、そうすれば今の暴言は忘れてあげましょう」
「わかってませんね、状況が。他の警備兵は全て倒され、今のあなたの命を握っているのは私とそこの賊だけなんですよ。私にとっては人質を解放してここを脱出する千載一遇のチャンス。この男もなにやらあなたを殺すつもりのようですし」
男はシェイラの後ろで両腕を組みなおしてうんうんと頷いてみせた。ドルジェに選択の余地は無かった。ドルジェはそれでもなお決断をしきれずに唸っていたが、シェイラがかざした手から放たれた電撃によって、やがてその声は悲鳴に変わった。
「早くしてくださいますか? で、なければ……」
「ぐぅぁああっ! わ、わかった、わかりましたから!」
ドルジェはまるで拳骨を恐れる子供のように丸まって怯えていた。シェイラはローブのポケットから携帯電話を取り出すと、金属扉の下で地面にうつぶせに倒れたままの老人にそれを投げてよこした。
「ではお願いします。下手なことを言ったらまずはあれを破壊しますから」
カード保管庫にはいくつもの煌びやかなカードがそれぞれ凝った装飾のついたケースにいれられていたが、シェイラの指差したそれは部屋の一番奥で一際豪華なガラスケースに入れられている白金色のカードだった。他の物とは異なり、そのカードだけが自ら淡く発光しており、わずかに宙に浮いてゆっくりと回転していた。少なくともハイレア以上、もしかするとGODカード。どちらにせよ交渉するには十分な品であろうとシェイラはあたりをつけていた。
案の定、ドルジェは見たことが無いほど顔を真っ青にしてすぐさま携帯電話を拾い上げると、人質のいる施設で番をしている神官にむけて電話を始めた。
「さて、本当に解放したんでしょうね? 確認する方法はありますか?」
「人質自身からお前に念話が来るはずです」
ドルジェの言うとおり、まもなくシェイラの頭に直接、懐かしい声が響いた。
『シェイラお姉ちゃん、聞こえてる?』
シェイラは頭の中に響く声に『ええ、聞こえているわ』と念じて返事をした。
『神官様から念話カードを借りてお話しているの。聞いて、私たちここを出られることになったの、シェイラお姉ちゃんも一緒に出られるんだよ! ああ、よかった、本当に。私たち、気付いたのよ、この施設の実態に。私たちはすぐにでもここを出るから、細かい話は外で会ってからしましょう!』
シェイラが『わかったわ、外で会いましょうね』と念じると、ブツンとノイズのような音が聞こえたあとで静かになった。どうやら彼らもこの施設の裏の顔に気が付いていたようで、シェイラは少し安心して胸をなでおろした。自分を刺激しないために丁重に扱われていたであろう人質たちは、もしかすると施設をでたくないと言うのではないかという懸念がいくらかあったからだった。
「さあ、これで良いでしょう! 早くその男を始末しなさい!」
シェイラが男を横目に睨むと、男は噴き出すようにして笑いながらうんうんと頷いて見せた。
「はい、GO! レッツGO!」
男が楽しげにドルジェを指さすと、シェイラは右手の指先に雷を集めはじめ、ゆっくりとドルジェの口元に近づけていった。
「シェイラ、お前、なにを!?」
シェイラはドルジェの口の中に帯電した指を突っ込んで舌を引っ張り出すと、渾身の力を込めて電撃をそれに流し込んだ。ドルジェの声にならない悲鳴が辺りを揺らす。電撃の熱によって唾液が蒸発し終わると、ついにはブスブスと煙を上げて舌が薄茶色に変色し、形容しがたい異臭を放ち始める。
「人を傷つける言葉しか吐かない口なんて要りませんでしたよね? そうだ、他人を見下すことしかできないその目も、やはり要らないでしょう」
そう呟いたシェイラが、指をその目に突き立てようとすると、ドルジェは泣きじゃくる子供のように嗚咽交じりに首を振りながら、渾身の力を込めて瞼を閉じてそれを拒んだ。シェイラは呆れたように軽く息を吐き出すと、突然拳をこめかみの辺りに力任せに打ち込んで、そのまま抑え込んだ。シェイラは足元に転がっていた金属扉のネジの一つを拾い上げると、それに電撃を走らせ始める。わずかに発光し始めたその金属突起の尖端で、涙の滲む瞼の上をゆっくりとなぞっていくと、やがて瞼と呼べる物の大半が電メスで切開されたかのように綺麗に削げ落ちた。否応なしに開けられたドルジェの瞳に映ったのは、鋭く輝く金属ネジと、シェイラの笑みだった。
どの時点からだっただろうか。シェイラは自分でも気づかないうちに唇の端を吊り上げ、眉尻を下げ、真っ赤な瞳を輝かせながら笑っていた。
ドルジェは初めて自らを悔んだ。シェイラに対して何度も行っていた凌辱や拷問に対しての懺悔ではない。ましてや子供たちを売りとばして私腹を肥やしていたことに関してでもない。ただ、この女が心に秘めていた憎悪の大きさを見誤ったことに対してであった。
「ドルジェ様、その汚らしい瞳で見ないで下さいますか?」
シェイラはドルジェの右の眼球に発熱したネジの尖端をそっと当てると、右回りにねじりながらゆっくりとそれを差し込み、やがて激しく掻きまわした。真っ赤な泡を口から目から噴き出して喘ぐドルジェのその様を眺めながら光悦とした表情を浮かべて放心しているシェイラに、後ろで傍観していた男が声を掛ける。
「おい、姉ちゃん。もうかたっぽの眼はやんねえのか?」
子供の様にねだる男の方を振り返ったシェイラが、不機嫌そうに応える。
「両目潰したら恐怖心が半減するでしょう」
「へぇ、そういうもんなのかい」
男は大層感心した様子で満足そうに頷いていた。
「さあ、続けましょう。次はどこを破壊しましょうか」
そういってドルジェに向き直ると、シェイラは再びその指先に稲妻を走らせた。
「私はね、あの男を何かの拍子に殺してしまったわけではないのですよ。あらゆる苦痛と屈辱を与えて殺したのです。すごく、すごく、楽しかった。指を折るごとに悲鳴を上げるのが、皮を焼くごと身悶えるのが。私はあの男の仕打ちに耐えたいたつもりだったけれど、もうとっくに壊れてたんですよ。私は穢れきってしまってる。せめて、最後は貴方の手にかかって死にたい」
声を振りしぼるようにそう語りかけるシェイラの赤眼は、どこか優しげで、ひどく淀んでいた。ひろしは力なく自分の肩を握るぼろぼろの手の平にそっと触れると、もう片方の腕で彼女の体を引き寄せた。
「よくがんばったな、シェラ。偉かったな」
「……兄さん?」
シェイラはなぜ自分が褒められたのか分からず、ひろしの肩越しに瞳を右へ左へと泳がせていた。
「シェラ、お前がその男を殺さなかったら俺が殺しにいってた。お前がしたことよりもっとひどい目にあわせて殺してやった」
シェイラはひろしの口から零れた予想外の言葉に身を震わせた。曲がったことが大嫌いだった義兄が、どんな理由があったにせよ人を殺したことを善しとするだろうか。恐らく自分を哀れんで心にも無い嘘を言っているのかもしれない。そう感じながらも、積年の苦しみを最愛の人が理解してくれたのかもしれないと思うと、意思とは無関係に体が震えてしまった。
「シェラ、お前はそんな男を殺したことまで後悔して命を絶つつもりか?」
「いいえ、違う、違います。ただ、穢れてしまった自分自身が嫌いだから死にたいんです」
「そうか、じゃあなおさら死ぬ理由なんてないだろう。お前は穢れてなんていない。本当に穢れてるヤツが、自分を嫌悪したりするもんか」
ひろしの一言一言がシェイラの胸を締め付け、解していく。しかし、同時にフラッシュバックする痛み、苦しみ、屈辱の記憶が胸に宿り始めた温かさを再び奪っていく。
「……私はあの男にされてるとき、目をつぶって、これは兄さんにされてるんだって、いつもそう置き換えていました。本当に、本当にごめんなさい。離してやってください。もう、貴方に触れられるだけで心が壊れてしまいそうなんです……」
シェイラはそう懇願しながら目を背けて歯噛みをした。
「ばかいえ。なんつうか……それはむしろ嬉しいくらいだ。てか、俺なんかじゃ役不足もいいとこだっただろう」
ひろしが目を背けて恥ずかしそうにそう答えると、シェイラは少し目を細めて呟く。
「嘘。汚れきった私……なんて……」
突然、シェイラの体がひろしの腕からずりおちる。霧雨で濡れた地面に倒れこんだシェイラの体を伝わって、じわじわと広がる波紋が水溜りを赤く染めていった。
「おい、シェラ……?」
すぐに仰向けにして抱き上げるが、シェイラの瞳は虚空ばかりを捕えていた。
ひろしは見誤っていた。彼女の力強い語り口調にすっかり騙されていた。シェイラは助けを呼ばせないために、致命傷を隠したまま命を振り絞るようにして口を動かしていたのだった。そのの体はとっくに冷たく、その瞳は既に見えていないようだった。
それでも必死に何かを伝えようとする彼女の口元にひろしが耳を近づける。
「でも……嘘でも嬉しい」
そう呟くと少しだけ微笑んで瞼を閉じた。
「嘘じゃない。お前みたいな美人の誘いを断る男がいるもんか。お前さえ良ければいくらでも俺は側にいるいる。いや、違うな。お前がいてくれれば俺はまだ生きていられる気がするんだ。シェラ、俺のためにもまだ……生きてくれ」
もしかしたらひどく残酷な要求をしているのかもしれないとひろしは思った。この世に絶望して一度は命を絶っている自分が、他人に生きることを強要する権利があるものか。単に自分の心が耐え難いから勝手なことをいっているのではないか。なんと我がままで矛盾だらけなのだろう。そう自分を嫌悪した。
「ヒロ兄ちゃん。私今ね、すごく幸せ。最後に会えて本当によかったぁ……」
シェイラは微笑む。それは約20年前、二人で手を繋いで歩いていた頃と何一つ変わらない、温かく、無邪気な微笑みだった。
何が幸せなものか。地獄のような毎日の中で、この子が何度自分の名前を呼んだことだろう、何度助けを求めたことだろう。ひろしには分かっていた。シェイラは死の淵にあっても、最後はせめて安らかであったと伝え、兄の心に傷を残さないようにと振舞っていることを。そして、彼女がなぜ自分の命を狙っていたのかも、おおよそ分かっていた。
「くそ、俺はまた守れないのか……」
母が自ら命を絶とうとしたときの、自分の手の中で命が消えていくあの感覚がもう間もなく訪れるのかと思うと、気が狂いそうだった。やはり自分は生き返るべきではなかったという激しい後悔の念が胸を引き裂き、その裂け目から抑え込んでいた憎悪の渦があふれ出そうとしていた。
「律、済まないけどそいつを引っ込めてくれ。もういいだろう。これ以上こいつに何しようってんだ」
ひろしは突然、視線を落としたまま押し殺すような声でそう呟いた。強く噛みしめた唇に血がにじむ。
いつの間にか霧雨は止み、薄雲の隙間から差し込んだ月光によって浮かび上がったのは、巨大な龍だった。水流を纏った長い胴がうねるたびに鱗が艶めかしく輝く。そしてその巨躯に守れらるようにして立っている律の深い蒼色の瞳が闇の中で鈍く輝いていた。
「……わりぃ律、八つ当たりもいいとこだよな。迷惑ついでに済まないけど、できればこのまま静かに逝
かせてやってくれないか」
ひろしが無理矢理に笑って律の方を向き直る。途端に禍々しいオーラを放っていた龍が地面に吸い込まれるようにして消えて行った。
「なあシェラ、まだ聞こえてるか? 生まれ変わったらきっと兄ちゃんが見つけ出すからな。そしたら一緒に暮らそう。兄ちゃん料理上手になったんだ。今度一緒に……一緒に……食べようなぁ」
ひろしの瞳から零れ落ちたしずくがシェイラの頬を伝うと、彼女は少しだけ笑ったように思えた。堪らずその手を掴んで頬に当てながら、声を押し殺しながら肩を震わせた。
閉じた瞼ごしに淡い緑色の光が見えた。暖かく、優しい光だった。ゆっくりと瞳を開くと、真剣な表情で手をかざしている安立の姿があった。
「安立……さん?」
ひろしが目尻の辺りをこすりながら問いかけると、足立はただ微笑んで見せた。
そして次の瞬間にはひろしの体は上空に有った。
「邪魔じゃどけぃ! レイ、急ぐぞ!」
ひろしが背中を地面にひどく打ちつけられて目を回す。やっと上半身を起こしてみると、安立と律が忙しく口を動かしながらシェイラの体に手をかざしていた。
「そっちはどうじゃ? ほぅ、すごいな、完全に静脈が修復されておる。薄いのに、よくやるわい」
「律さまこそ。心臓が完全に停止して、あちこちの血管が破れているのに血流が全身に行き届いてます……」
律は生命維持のため、血液中に微細な酸素を生み出しながら、全身を駆け巡らせていた。しかも、破れている血管を通ることのないようにルートを探りながらである。一方で安立は破れた血管と神経を次々につなぎ合わせていく。そして修復が完了した血管を律が感じ取ると、すかさずそこへ血液を流し込む。ひろしにとってはどちらもただ手をかざしているようにしか見えなかったが、そこには考えられないレベルの治癒スキルの連携があった。
「お、おい、二人とも、いいのか……?」
ひろしがおずおずと尋ねる。
事実上、シェイラは自殺用の薬を捌いていた悪人であり、間接的に一度はひろしの命を奪い、律と安立を殺そうともした。それでも二人にシェイラを助けてくれと懇願するつもりはあったのだが、それはあまりにも自己中心的な感情論であり、断られても無理はないと覚悟をしていたつもりだった。
「ふん、この女には色々と聞かねばならんことがあるようなのでな、悪いがまだ死なせはせん」
「この人、あのとき言ったんです。『ごめんなさい、少しだけ二人きりにしてください』って。とても、とても悲しそうな顔をしてました」
「二人とも、すまない」
ひろしは静かに側まで這っていくと、祈るように手を合わせた。律は軽くため息をつくと、安立と目で合図してから叫ぶ。
「外傷はこれで良い。さあ、仕上げるぞ。喰らえぃ!ヒーリング・オブ・デッドスペース天誅殺!」
二人がシェイラの胸元に手のひらを押し込むと、眩い光が溢れてその全身を覆った。
「ヒロ兄……ちゃん? なんで、泣いてるの?」
そっと頬を拭う暖かい温もり。
「嬉しいからだよ」
「泣き虫?」
「そう、泣き虫。お前のがうつったのさ」
「シェイラ、もう泣かないよ?」
「なにいってるんだ。ずっと、ずっと、―――――泣いてたじゃないか」
シェイラは自分の胸の奥に埋もれていた懐かしい感情が、重厚な扉の隙間から噴出すようにして溢れてくるのを感じていた。それはひどく暖かで、淡い光を放つ感情。
ずっと見失っていたその扉の鍵は、どこを探してもあるはずもなかった。「幸せ」は今目の前で人の形をしているのだから。
「お兄ちゃん」
「どうした、シェラ?」
「左腕、熱かったよぅ」
幼い少女のような声でそう呟いたシェイラの真紅の瞳から、温かい涙が零れ落ちていった。