ナターリアの旅立ち
夜会も終わり、静まりかえった王宮の客室の一つで、側妃ナターリアの発した言葉によって国王アレクセイは、目の前が真っ暗になってしまい、呆然としてしまいました。
え…。
実家に、
里下がりって…
ナターリア…
それは、
もしかして…
「なんで…?」
それを言ったアレクセイの様子はまるで捨てられた子犬のようでした。
こんな日が来るなんて思いもしなかった…。
ナターリアがいなくなる?
そんな…。
ナターリアは、そんなアレクセイを見て思わず初めて出逢った菜の花畑のときのことを思い出していました。
あのときもひどい表情をしていた。
確か母君の束縛が…なんて言ってたかしら…。
国王として逢ってからはその面影もなくなっていたけれど。
「…リア、ナターリア?」
いまにも泣きそうな顔をして、アレクセイが問いかけます。
ハッと我に返ったナターリアは、そんなアレクセイの姿を見ると気の毒になり、ここにいようかしらとも思いましたが、でも、後宮に入ってからというものあまりいろいろありすぎて、すっかり疲れてしまいどこか遠くに行ってしまいたい気持ちが出てきました。
それに、お父さまに逢いたい…!
ナターリアは気づいていませんでしたが、心のどこかにカールに逢いたいという思いもありました。
父はいまあの、菜の花畑のある別荘で療養をしています。
隣国に王女に付いて行ってしまっているので、いるはずもないのに…。
それでも、あそこは幼い頃、カールと遊んだ思い出のつまったところです。
そして、アレクセイと初めて出逢ったところでもあります。
ナターリアはため息をついて、
「ごめんなさい。私、少し疲れたの。少しお父さまの側で休ませて欲しいの。」
「疲れた、の…?でも、父君の側ってことはここからいなくなるんだよね…?」
「ええ…。でも、何でも出来ることはすると仰せられたでしょう?」
ナターリアは少し唇を噛み締めて、アレクセイに言います。
こんなことも叶えてもらえないの?
「それはそうだが…。帰ってくるよね?」
アレクセイが少し不安そうな顔をして尋ねます。
アレクセイはなんだかナターリアがこのままどこかに行ってしまい戻ってこないような気がしたのでした。
それは予感のようなものでした。
あの会話を聞いてしまったアレクセイにとっては…。
「はい…。」
ナターリアは複雑そうな顔で答えます。
「それなら、ナターリアの父君の前公爵は確か別荘に静養のため滞在いると聞いた。その近くに離宮がある。そこで、静養という形にしてもらえないだろうか?」
アレクセイが窺うように尋ねます。
「どういうことですか?私は里下がりをと、申し上げたはずですが…。」
ナターリアが怪訝そうに聞き返します。
「いや、形だけでよいのだ…。いろいろ申すものもおるゆえ、あちらに着くまでの間そういうことにして欲しい。ダメか…?」
アレクセイが苦しそうにナターリアに頼み込みます。
「アレクセイさまはこんな時にも私の気持ちを優先して下さらないのですね…。」
ナターリアは寂しそうにつぶやきました。
「ナターリア、すまない。だか、あちらに着いたら父君のもとに行けばよい。ナターリアのためなのだ…。」
アレクセイは申し訳なさそうに答えます。
ナターリアはまた唇を噛み締めて、
「分かりましたわ。陛下のお心遣い感謝いたします。では、もう疲れましたので休みます…。」
言葉は丁寧でしたが冷ややかな声でそう言うとナターリアは
、アレクセイに背を向けて横になってしまいました。
それはアレクセイにとって、初めてナターリアの冷たい態度でした。
本来は不敬なのでしょうが、あまりのことに呆然としてしまいました。
二人の間にまた子供が生まれるというのに…。
「分かった。じゃあ、大事にしてくれ。手配はしておく。」
アレクセイはそう言うと、寂しそうに客室を出て行きました。
パタン…。
行ってしまった…。
悪いことをしてしまったかしら。
ナターリアは少し後悔しながらも、後宮を出てなつかしいお父さまに逢える…!
そのことを考えるだけで心が弾みました。
アレクセイは客室を出ると、そわそわと待つ女官長がいました。
「女官長、どうしたのだ?」
アレクセイが少し驚いて尋ねます。
「あ、はい…。皆様方がご心配なされておられまして、お迎えに参りました。」
女官長が複雑そうな表情で答えます。
「ああ…。そうだったな。戻るか。」
アレクセイは、気のない返事をしつつ、ナターリアのいる客室を振り向いてドアを眺めました。
「陛下…?」
女官長が心配そうに尋ねます。
「いや、なんでもない。行くぞ。」
アレクセイは何かを振り切るように、女官長を連れてメアリーたちのいる客室へ戻りました。
「陛下、ナターリアさまのご様子はいかがでございましたか?」
歩きながら女官長が心配そうに尋ねます。
「ああ、少し気分が優れないようだが、大丈夫なようだ。ちょうど女官長に頼みたいことある。」
少し暗い表情でアレクセイが答えます。
「どのようなことでございますか?」
「いや、それは公爵たちのもとで話そう。ここでは誰が聞いてるか、分からぬ…。」
「かしこまりました…。」
女官長は思わず周りを見渡しました。
そのまま二人は黙ったままメアリーたちの待つ客室に向かいました。
「失礼いたします。陛下がお戻りでございます。」
女官長はそう言うとアレクセイと共に部屋に入って行きました。
「待たせたな、公爵方。」
アレクセイが無理に微笑んで言います。
「いいえ、陛下。それよりお姉さまのご様子はいかがなのですか?」
メアリーは姉のことがよほど心配なのか、勢い込んで尋ねます。
「ああ…、心配はいらぬ。気分が優れぬようで、もう休んでいるが…。」
少し暗い表情でアレクセイが答えます。
「まあ、お姉さまは大丈夫なのですか?」
メアリーが不安そうに尋ねます。
「ああ、大丈夫だ。しかし、静養が必要のようだからしばらく離宮に移そうと思う。」
アレクセイが意を決したように言います。
「え…!陛下、ナターリアさまを離宮にお連れになるのでございますか?」
女官長が少し驚いたように尋ねます。
「ああ、だかそれは表向きのこと。ナターリアは父君にお逢いしたいゆえ、近くの離宮に静養にいく形をとる。ロプーヒナ公爵いやレオンすまぬが、里下がりをお願いしたい。」
「里下がりですか?しかし、なぜそのようなややこしいことをなさるのです?」
レオンが怪訝そうな顔で尋ねます。
「それは…。ここにはいろいろ申すものも多い。そういうことにしておいた方がいいと判断したためだ。」
アレクセイは少し気まずい表情で答えます。
レオンはそれを聞いて、呆れたようにため息をついて、
「やれやれ、世間では国王陛下の寵妃にして第一王子の母君であられるナターリアさまを羨む者も多いというのに。現実はこんなものですか…。」
アレクセイは、事実ですので返す言葉もなく暗い表情で押し黙ってしまいました。
確かに何もしてやれてない…。
はぁ…。
王子を生んでくれたのに。
王妃の地位も与えてやれず。
側に控えていた女官長がさすがに、
「公爵さま、それは少しお言葉が過ぎるのではございませんか?」
そう言ってレオンをたしなめます。
「無礼であると申すのか、女官長?謝罪が必要なら謝罪もしよう。しかし、義姉君に対してあまりのお扱いで黙ってはおられなかった。」
レオンは憤慨したように言い募ります。
その瞬間、客室の空気は一変しました。
その空気を打ち破ったのはオルティス公爵夫人でした。
「おほほ…。レオンどのは、ロプーヒナ公爵になられても怖いもの知らずでいらっしゃること。さすがは宰相さまの秘蔵っ子ですわ。さぁ、レオンどの…。」
オルティス公爵夫人はそう言うと、レオンに目配せをしました。
「申し訳ございませんでした、陛下。」
レオンはしぶしぶでしたが、頭を下げて謝罪をしました。
アレクセイもそれを見て苦々しい顔から少し顔が和らぎました。
その様子を横目でちらっと見たオルティス公爵夫人は、にこやかに微笑んで、
「陛下、こうしてレオンどのも謝罪なされたことですし、私に免じてお許し下さいまし、ね?」
アレクセイはホッとしたように、
「オルティス公爵夫人にはかないませんね。内々のことですし、何も気にしておりませんよ。では、もう遅いですし公爵方にはゆっくりお休み下さい。女官長、後を頼むぞ。」
そう言うとアレクセイは客室を出て私室に戻って行きました。
その夜は、ロプーヒナ公爵夫妻、オルティス夫妻は客室に泊まりました。
そして、ナターリアも翌日には何かに追われるように王子とともに離宮へと旅立って行きました。
王子の母ということもあり、何台もの馬車で護衛に囲まれての旅立ちでした。
「行ったか…。」
王宮の一室の窓際で涙をこぼして見送るアレクセイの姿がいました。
「陛下、大臣さまとのお約束の時間でございます。」
侍従が王宮の客室に泊まった大臣との謁見時間を知らせてきました。
お読みいただきありがとうございます。
これからアレクセイに頑張ってもらう予定です…。