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善と悪とモブ        :約5000文字 :コメディー

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/09/12

「待て!」


 夕方の古びた歩道橋。長年の風雨に晒されたせいなのか塗装はほとんど剥がれ落ち、あちこちに赤茶けた錆が浮いている。銀色の手すりはすっかり曇って光沢を失い、足元のタイルには無数のひび。割れた隙間からは灰色のコンクリートが覗き、階段の隅には黒ずんだ苔がこびりついていた。

 一歩進むたびにぎしぎしと軋む音がして、幅は大人が二人ようやくすれ違える程度しかない。スロープの類もなく、なんとも味気ない陸橋である。

 おれが買い物帰りに階段を上がり切った、ちょうどそのときだった。反対側から慌ただしい足音が響いてきた。子供かな――そう思った直後、怒鳴り声がびりびりと空気を震わせた。

 顔を上げた瞬間、おれは思わず息を呑んだ。

 そこには一人の男が立っていた。髪はぼさぼさに乱れ、着ているシャツは皺だらけで襟元も大きく崩れている。何日もまともに眠っていないようなやつれた顔つきで、今しがた足を止めたばかりなのだろう、肩を大きく上下させながら荒い息を吐いていた。ただその目だけは異様なほど大きく見開かれており、強い光を宿していた。

 そして、その背後には一人の警官の姿があった。

 どうやらこの男を追っていたらしい。男は一度背後を振り返り、すぐにまたこちらへ顔を戻した。その表情には焦りと緊張が色濃く滲み、逃げ道を探すように視線が忙しなく狭い歩道橋の上を走り回っていた。

 これはどう見ても、なんらかの事件の犯人に違いない。

 そう思った瞬間、おれは反射的に身構えていた。両の拳をぐっと握りしめ、胸の前に構える。ぶら下げていたスーパーのビニール袋ががさりと音を立てた。

 ……いや、何をしているんだ、おれは。馬鹿か。武道の経験はおろかスポーツだってろくにやったことがない。下手な真似をしたところで自分が怪我をするのがオチだ。

 だが、つい体が勝手に反応してしまったとはいえ、一市民として犯人逮捕には協力すべきだろう。表彰もされたい。で、感謝状をもらう姿をテレビやネットのニュースで報じられ、いつも通っているスーパーのレジのお姉さんに褒めてもらいたい。かかりつけの歯医者の受付助手にも。

 最近はそれなりに筋トレを続けているし、思い切りタックルして足にしがみつけば、おれだって多少の足止めくらいはできるはずだ。

 そう考えたおれは静かに腰を落とし、両足に力を込めた。


「あんた、引き返せ……!」


「え?」


「ここまでだなあ、冴島ぁ……」


「へ?」


 おれは思わず間の抜けた声を漏らした。犯人らしき男がおれに向かって引き返すよう言った直後、警官が腰のホルスターに手を伸ばし、拳銃を抜いたのだ。


「散々逃げ回りやがって、この野郎が……」


 警官は銃口を男に向けたまま、ゆっくりと撃鉄を起こした。かちりという乾いた金属音がはっきりと耳の奥に残った。

 まさか撃つ気なのか。ここで? おれの目の前で?


「よせ……! やめろ! 市民を巻き込むつもりか!」


 男――冴島は警官のほうを向き直り、じりじりと後ずさりした。両腕を大きく広げ、まるで全身でおれを庇っているような格好だった。

 警官は銃を構えたままゆっくりとこちらへ近づいてくる。横から差し込む夕日のせいでその表情は判然としない。だが、影に半分沈んだ輪郭は不気味に歪み、口元には醜悪な笑みが浮かんでいるように見えた。


「どの口が言う。お前が最初から大人しくしていれば、こんなことにはなってねえんだよ」


「あんた、早く引き返せ……!」


「おん? ああ、そこの人。この男は凶悪犯でーす。でも武器は持ってないので、逃がさないようにそのまま道を塞いでいてくださーい!」


「あんた、逃げろ、行け!」


「すぐに捕まえまーす! ご協力お願いしまーす!」


 ……いや、どっちだ。どっちが悪党なんだ。

 わからない。まるでわからないが、おれの知らないところで何か映画のような展開が進行していたのではないか。

 もし仮に警官が悪徳警官で、この男が濡れ衣を着せられた無実の人間だとしたら……。おれがここで余計なことをすれば、いわゆる『主人公の逃走の邪魔をするウザいモブ市民』になるということか……?

 いや、映画の中の話ならまだいい。実際に後々真実が明らかになったら、おれの身元を特定され、ネットに晒し上げられる羽目になるかもしれない。

『正義面した馬鹿』『戦犯』『余計なことしかしない』『せめて黙って逃げておけばよかったのに』『判断ミス』『間抜け』『勝手に巻き込まれにいったアホ』などと散々叩かれるに違いない。

 それなら、いっそ前に出てあの男を庇うべきか。……いい役だ。そういうのが一番かっこいいんだから。大丈夫だ。まさか警官が市民に向けて発砲するはずがない。……いや、悪徳警官なら撃つぞ。そういうシーンを昔、ドラマか映画で見た覚えがある。そのあとで都合よく主人公に濡れ衣を着せるのだ。

 いや、そもそも現実にそんなことがあり得るのか。だが、現にあの警官は銃を抜いている。いや、それほどまでに切迫した状況にあるということなのだろうか。


「あ、あの、どっちなんです……?」


 考えれば考えるほどわからなくなり、おれは混乱したまま小さく問いかけた。


「冴島ぁ……警察学校の頃からお前のことが気に食わなかったんだよ」


「向井、やめろ……!」


「同期なのか……?」


「頼む、話を聞いてくれ。おれは無実なんだ……!」


「あれだけのことをしておいて、今さらよくそんな台詞が吐けるもんだな」


 警官――向井は鼻で笑った。


「だが、まあいい。同期のよしみだ。話くらいは聞いてやるよ。牢屋の中でじっくりとな。さあ、大人しくこっちに来い。まだ逃げるつもりなら容赦はしない」


「おー、そういう関係か……」


 少しずつ二人の関係性は見えてきたものの、どちらが悪側なのかは依然としてわからない。じっと睨み合う二人――いや、三人。おれもまた、その場から一歩も動けずにいた。余計なことをしてこの均衡が崩れたらと思うと、足が動かないのだ。

 張り詰めた空気がびりびりと肌を刺し、おれはためらいがちに唾を飲み込んだ。

 そのときだった。背後から階段を駆け上がる荒々しい足音が響いた。


「そこまでだ!」


 鋭い声が飛んだ。


「警部補……!」

「源さん!」


 現れたのは、たびれたコートを着た男だった。階段を上がり切るなり、おれを押しのけるようにして前へ出た。

 そして男は懐に手を入れると拳銃を取り出し、両手で構えた。


「向井、銃を下ろせ。あとはおれがやる」


「源さん、頼む。おれの話を聞いてくれ……!」


「大丈夫だ、冴島。ここから逃がしてやる……」


 源さんと呼ばれた警部補の男は、向井には聞こえないよう声を落としてそう言った。

 おれは思わず「ほう」と呟いた。逃がすということはつまり、この源さんという男は冴島の味方なのか。では、冴島は正義側なのか……?


「源さん、こいつはこのままおれが署に連行しますよ」


「向井、これは命令だ。冴島、例のアレはお前が持っているんだな?」


「……はい」


 冴島はわずかにためらう素振りを見せたあと、小さく頷いた。


「あのー、アレってなんですか?」


 おれは訊ねた。


「よし。おれに渡せ。向井に気取られないようにな。あとの始末はおれがうまくやる……」


 源さんは声を潜めて言った。


「何をこそこそ話しているんですか、警部補ー!」


 向井が苛立った声で叫んだ。源さんは冴島に向かってそっと手を差し出した。

 冴島はゆっくりとポケットに手を伸ばした――が、なぜか動きを止め、静かに首を横に振った。


「源さん……これは渡せません」


「えっ」


「冴島。いいから渡すんだ」


「源さん……?」


 おれは源さんの顔をそっと覗き込んだ。ぐぐっと眉間に深い皺が寄り、顔つきがいっそう険しくなった。そして、その手に握られた拳銃の銃口がゆっくりと冴島に向けられた。


「源さん、あんたやっぱり……」


「冴島。渡すか、それともここで死ぬか。選べ」


「源さん……」


 冴島が俯いた。


「源さん……」


 おれも呟いた。


「……おい、向井」


「ああ」


「なっ……!」


 おれは思わず声を上げた。向井が銃口を源さんに向けたではないか。


「向井……。貴様ら、グルだったのか……!」


 源さんは苦虫を噛み潰したように低く唸った。


「警部補。銃を下ろしてください」


「お、お、おー……いや、どっちなんだ……?」


 冴島と向井は同期で険悪な仲。いや、向井が一方的に対抗意識を燃やしているだけなのかもしれない。だが、それは実は見せかけに過ぎず、二人は裏で手を組んでいた――いや、冴島の優秀さや女にモテるのに本人はまるで気にしていないという態度が本当に気に食わないのかもしれないが、とにかく手柄と事件解決のために協力している。

 源さんは冴島に目をかけていた面倒見のいい先輩だったが、今回の件では何か裏があり、それを薄々感づいていた冴島と向井が結託して罠を張ったということなのか……。いやいや、源さんはそんなことをする人じゃないだろう。いや、知らないが。

 今の流れを見る限り、冴島と向井が仲間で、源さんと対立していることだけは確かだが、いったいどちらが悪側なんだ。もし源さんが悪党なら、おれの存在を完全に無視しているこの状況は、冴島たちを援護する絶好のチャンスなのだが……。


「やはりな。前々からお前ら二人は怪しいと踏んでいたんだよ」


 源さんが低い声で言った。


「警部補、いいから銃を下ろしてください」

「源さん、下ろして。さあ」


「いや、ちょっと微妙なところだな……」とおれは首を傾げた。

 警察学校時代から優秀と評判の二人に裏の顔があり、それをある事件がきっかけでとっくに情熱をなくしてお荷物扱いされていた源さんだけが気づいて密かに調べていた、ということもありえる……のか?


「さあ、下ろせ、下ろせ!」

「向井、落ち着け」


「あの、いったんどっちがどっちなのか教えてくれません?」


「人を撃ったことはあるか? 案外、狙ったところから逸れてしまうものだぞ」


「その場合、おれに当たる可能性があるのでは……?」


「ほら、撃てよ……撃てるものなら撃ってみろ!」


「いや、煽らないでくださいよ」


「そこまでだ!」


 またしても背後から階段を駆け上がる荒々しい足音が響いたかと思えば、怒声がびりびりと空気を震わせた。振り返った瞬間、一人の男がおれを突き飛ばすようにして前に出た。

 おれは柵に体をぶつけ、「ぐう」と呻き、そのまま手すりに寄りかかった。


「二人とも今すぐ銃を下ろすんだ」


「警部……!」


 どうやら警部らしい。その男もまた懐から拳銃を抜き、三人に向けて構えた。


「待ってください。話を聞いてください!」


 冴島が言った。


「ああ、聞いてやるとも。だから銃を下ろせ」


「あんた、まさか……」


 向井の顔が引きつった。


「ふふ、ははは!」


 源さんが突然笑い出した。どうやらこの警部は仲間らしい。


「冴島、向井。大人しくしろ。これで三対二だ」


「え、おれも含まれている……?」


「いいえ、そっちが二ですよ」


「いや、だからなんでそこにおれまで数え入れるんだ」


 全員がその場で動きを止め、重苦しい睨み合いが続いた。夕日は沈みかけて、それぞれの影が長く伸びて重なり合っていた。駅前のほうからムクドリの鳴き声が響き、歩道橋の上に落ちた静寂をいっそう際立たせていた。

 もう何が何やらさっぱりわからない。いったいどちらが善でどちらが悪なのか。それとも何か誤解が生じているだけで全員が善なのか、あるいは全員悪なのか。

 まるで映画を途中から見せられているような気分だ。誰でもいいから説明してくれ。せめて何か言ってくれ。そう心の中で願うも、まるでセリフを忘れた舞台役者のように誰一人として口を開けないまま、どこか気まずい――もっともそう感じているのはおれだけなのかもしれないが――時間だけが過ぎていく。

 ……いや、もういい。あとはニュースで結果を知ればいいか。

 すっかり気分が萎えたおれはそう結論づけ、ゆっくりと後ずさりを始めた。

 が――次の瞬間、階段を駆け上がる足音が響いた。それも一つや二つではない。無数の足音が猛烈な勢いでこちらへ迫ってきた。


「そこまでだ!」

「全員銃を下ろせ!」

「お前らこそ下ろせ!」


「え、え、え」


 歩道橋の両側から続々と人が押し寄せ、たちまち狭い通路は人で埋め尽くされた。あちこちで怒号が飛び交い、もはや誰が誰に向かって叫んでいるのかすらわからない。


「いや、ちょ、ちょっと!」


 おれはその勢いに呑まれ、後ろへ逃げるどころか逆に前へと押し進められていった。

 なんとか体を捻って人混みから抜け出そうとしたが、その場に立っているのがやっとだった。肩がぶつかり合い、誰かの肘が脇腹に食い込み、足元すらまともに見えない。

 やがて橋がぎしぎしと不気味な音を立て始めた。手すりの一部が根元から外れ、足元のタイルがバキッと割れ、橋全体がぐらりぐらりと大きく揺れ動く。

 そして、何かが折れるような、これまでで一番大きな音が響いた直後――橋が崩れ落ちた。

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