ご存じ、異世界転移でございやす :約4000文字
……え~、昨今は異世界転生だの転移だのと、ずいぶん流行っておりますなあ。書店に行きますと棚一面がその手の本で埋め尽くされておりましてね、若い方々は皆さん夢中だそうで。ところが、わたしゃこれまで一度もその類いの物語に触れたことがなくてですね。いやあ、流行っているどころか、もはや一つのジャンルとして完全に定着しているそうじゃありませんか。
いきなり自分が今いる世界とはまったく別の世界に放り出されてしまうというのは、大人の身からすれば、いやはや何とも背筋が寒くなる話です。しかも元の世界に戻れないんでしょう? これまで積み上げてきたものが全部パア。仕事に人間関係に貯金――は、まあ大してありませんが、コレクションやら冷蔵庫の中の漬物の残りやら未払いの請求書やら……いや、そんなものまで気になってしまうのが、我ながら悲しい性分です。
ともかく、置いてきたものを思うだけで、ぶるぶると震えてしまいそうです。ははは、わたくしなんぞ、そんな目に遭ったらその場でゲロを吐いて腰を抜かすでしょうなあ。
子供なんかは逆に胸が躍るんでしょうかね。物語の主人公にでもなった気分で、「この世界を救うぞ!」とか「元の世界に必ず戻ってみせる!」なんて息巻いたりして。古くは『不思議の国のアリス』でしょうかね。あれも異世界ものの走りと言えるのかもしれませんな。
穴に落ちて気がついたら不思議な世界――いやあ、子供の頃は楽しく読めても、大人になると薄気味悪さを感じたりするものです。
ただ、今の若い人たちに人気なのは転生や転移の際に圧倒的な力を授かるような話なんだとか。バッタバッタと敵をなぎ倒し、異性からモテにモテる。なんとも景気のいい話ではありませんか。わたしも師匠なんかをやっつけて、「ざまあ」なんて言ってやりたいものです。ははは。まあ、そんなことはわたしとは縁のない話です……。
いやあ、それにしても、まさかそんなわたしがね、異世界に行く羽目になるとは夢にも思いませんでしたよ。
ええ? 信じてない? いやいや、これが本当なんですよ。
いわゆる異世界転移というやつでしょうな。目が覚めたら、わたしはトンネルのような空間に倒れていたんです。暗くて、床も天井も壁もごつごつとした石造り。幅はそれほど広くなく、ひんやりと湿った空気が肌にまとわりつき、歩くたびに足音がやけに大きく響くんですよ。匂いはねえ、少々生臭いというか、鉄臭いというか……まあ、あまり気持ちのいいものじゃありませんでしたよ。
壁には等間隔で松明が据え付けられていて、ぱちぱちと小さく爆ぜる音を立てながら橙色の火が揺れておりました。
はて、昨晩飲みすぎたかなあ、なんて頭を掻きながらとりあえず歩き始めたんですがね。あっちへ行っても、こっちに曲がっても景色がまるで変わらない。延々と同じような石造りの通路が続くだけ。これは迷宮だ、新宿駅だ、なんて冗談めかして独り言をこぼしてみましたが、ははは……。いやあ、冷や汗が止まらなくてですね。歩けど歩けど案内板なんてものは一切出てこない。
どうしたものかと途方に暮れているとですね――ヒタッ、ヒタッ……ヒタッ、ヒタッと遠くから足音が聞こえてきたじゃありませんか。
わたしはすぐさま音のするほうへ駆け出しました。やった、助かった。人だ、人に会える……! なんて、希望に鼻息を荒くしてね。
ところがですよ。曲がり角の向こうから現れたのは――人間じゃなかった。
ゴブリンでした。
ゴブリンです。ええ、ゴブリン。あら、ご存じありませんかね? どうやら今夜はご年配のお客さんが多いようで。ははは。……ええとですね、小柄で緑色の体をしていまして、耳は長く尖がっており、鼻は潰れたように大きく、肌にはぶつぶつと吹き出物のような突起があるんですよ。なんとも気味の悪い生き物です。そうそう、そちらのお客さんみたいに、なんてね。ははは。
裂けたような大きな口から涎を垂らし、腰には汚れた布切れを巻き、手には刃こぼれだらけのナイフを握っておりました。残忍だが馬鹿で力が弱い。雑魚。おつむの出来は幼い子供程度――というのが、後で聞いた冒険者たちの評判だそうです。
でもですよ。ナイフを持った悪ガキなんて最悪じゃありませんか。
わたしは驚いて尻もちをついてしまいましてね。するとゴブリン、邪悪な笑みを浮かべながら、まっすぐこちらへ走ってくるではありませんか。
ああ、こりゃいかん。息は上がっているし、そもそも腰が抜けて立てやしない。もう駄目だ――そう思ったそのときでした。
ずばあっと、一閃! 銀色の剣が宙に美しい軌跡を描いたんですよ。
次の瞬間、ゴブリンは声を上げる間もなく、首からぼとりと崩れ落ちました。そして、ふわりと揺れる金色の長い髪……。
そう、エルフです。それはそれは美しいエルフがまるで風のように颯爽と現れて、わたしを助けてくれたんですよ。
細身の体に、すらりと伸びた長い手足。肌は透き通るように白くてですね。暗闇の中だと、ぼうっと光っているように見えましてね。松明の近くだと、それがまた柔らかな黄金色に見えるんですよ。金色の長い髪は動くたびにさらさらと流れ、それはそれは煌びやかで目を惹くんですよねえ。
耳は長く尖っていて、顔立ちは整いすぎている。いやあ、あれはもう本当に人間とは別物でしたよ。神様が気合を入れて作ったに違いない。そう思わせるほど、美しい娘さんでございました。
鎧を着ているんですが、これがまたなぜか露出が多くてですね。いや、ほんとにあれはなんででしょうね? 異世界では布が高級品なんでしょうか。それとも防御よりも機動力重視で、軽装が主流なんでしょうか。あるいは魔物やら過酷な環境やらでどうせ服なんてすぐにボロボロになるから、最初からあきらめているのか。体は頑丈だし、怪我をしても回復魔法ですぐに治せるけれど服は直せないから――なんて理屈かもしれませんな。
もしくは異性を誘惑するためでしょうかね。モンスターがうようよいる世界ですからね、貴族が娯楽や儀式として狩りをする、なんてこともありそうじゃないですか。こちらの世界でも昔、狩りは貴族の嗜みでしたしね。そこへ女の冒険者が護衛として同行するわけです。となると、どうせなら目にも楽しい魅力的な格好をしていたほうが玉の輿を狙えそうじゃないですか。いや、これはあくまでわたしの想像にすぎませんがね。ははは。
まあ、それはさておき。わたしは助けてもらった礼を述べて、そのエルフの娘さんといくつか言葉を交わしましてね。一緒に行動することになりました。
わたしとしては入口まで送り届けてほしかったのですが、彼女いわく、出口――つまりダンジョンの最奥、ボスの間を目指したほうが早いと言うんです。ボスを倒すと転移魔法陣が起動して外に出られる仕組みなんだとか。
彼女はもともとそのボス討伐が目的でここへ来ているわけですから、こちらも強く言えません。
そんなわけで、そこからは彼女と二人での冒険が始まりました……といっても、わたしは後ろで震えていただけなんですがね。オークやらゴーレムやら何やら、化け物が次から次へと出てきて、もう恐ろしくてね。通路の奥から響く足音や唸り声を聞くだけで、もう寿命が縮む思いでした。
そして極めつけはダンジョンのボス。ドラゴンですよ。
ええ、あのドラゴンですよ。象やライオンなんぞとは比べものになりません。なんたってあの巨体で火を噴くんですからね。鱗は鉄板のように硬く、息を吐くたびに焼けつくような熱風が部屋中に吹き荒れる。いやあ、恐ろしい。その熱風だけで、わたしの前髪が焦げついちゃいましたよ。
ところが彼女ときたら、怯むどころか果敢に挑むわけですよ。剣と魔法を巧みに使い、まるで舞うようにドラゴンの腹を斬り裂く。振り下ろされる尻尾を紙一重でかわし、壁を蹴って跳び上がり、そのまま首筋へ鋭い一撃を叩き込む。いやあ、見事なものでしたよ。
わたしも魔法だの剣だので、ズバッとビシッと援護できればよかったんですがね。現実は、せいぜい「ひあっ!」だの「へへえ!」だの情けない声を上げたり、「ずずっ、ずずずっ」なんて蕎麦をすする真似をして注意を引くことくらい。彼女、それはそれは鬱陶しそうに眉をひそめておりましたよ。
それでも最終的には見事にドラゴンを討伐することができました。
いやあ、よかったよかった。命が助かったことを何度も何度も噛みしめながら、彼女と共に転移魔法陣に足を踏み入れた次第でございます。
そして、次に気づいたときには――そこはなんと楽屋。しかも出番間近だったわけでございます。
いやあ、どうやらわたし、ステンと転んで頭を打ったようで。慌てて舞台に上がったはいいものの、肝心の今日の演目がまるで思い出せない。いやはや、どこへ落としてしまったのやら。
そこで、とっさに口を衝いて出たのが、この異世界体験記というわけでございます。
どうです? 即興にしては、まあまあうまくまとまっていたんじゃありませんかね。
いやあ、あまりにも荒唐無稽でみなさん反応に困っておられるようだ。まるでダンジョンに迷い込んでしまったかのようですな! ははは、どうもお粗末様でした……。
……いやあ、しかし本日のお客様はずいぶんお静かですなあ。それに会場の照明も少々暗すぎやしませんか?
それになんです、このピチャ……ピチャ……と滴るような音は。んん? わたしの後ろからかな……。あれっ、頭が……あれ、あれ、あれれれ……?
いや、それよりも、みなさん……? よく見れば何やら白い着物をお召しで……あっ、ははは、なるほど。顔色が悪いのはそういうわけでしたか。はは、ははは……どうやらわたし、また転移してしまったようで……。




