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第2章 脱皮と襲撃

 ──1965年 12月22日 16時半 ネブロン

 

  「あれ、ヴィクトル先生。どうも」

 

 トン、と肩を叩くと、驚いたように彼は私に振り向いた。

 青い目は、相変わらず荒んでいるが間違いなく私を見ている。

 それだけで、自然と口角が上がる。


 「......ブレンダンさん」

 「俺を覚えてくれていて何よりです」


 16時半。ネブロンの町のパン屋の前で、彼を見かけたのは偶然だった。監視は休みのつもりで、クロックミティーヌへのソーダを買い付けに来ただけだったのだが、なんと僥倖。

 一歩踏み込んで近づくと、彼は少し驚いたように下がった。


 「ここのパン屋、よく来るんですか?」

 「......ええ。まあ」


 ああ、なんて無愛想。

 少し困った様子だが、振り払う様子もない。彼の手の中には大きなバッグと、パン屋の袋。往診の帰りだろうか。それに傘も持っているのだから、両手が塞がってしまっている。


 「そんなに持ったら大変じゃないですか?少し持ちますよ」

 「いえ、別に問題は」

 「いいからいいから」


 仕事のバッグは他人に触れさせたくはないだろう。

 彼からパン屋の袋を奪い取って、にこりと笑う。しかし、彼は気が抜けたように抵抗が薄い。疲労が嵩んでいるのだろう。顔立ちは整っているのに、これでこの町で生きているのだから、危なっかしくてしょうがない。

 

 「さ、いきましょう」

 「......すみません」


 返してくれない事を悟ったのか、困ったような顔はしつつも受け入れてしまった。駄目だろう、もし親切に見せかけたスリだったらどうする気だったのだろうか。


 (......弱っているな、本当に)

 

 外に出るときは流石に白衣は着ていないらしい。黒コートと中の暖かそうなニットが影のある雰囲気によく似合っている。だが、あのくたびれた白衣を着ているほうが彼らしい。

 あの、弱っているのに皮一枚で立っている彼を体現する装いが、一番好きだ。

 

 「......ご家族は、体調は大丈夫なのですか」

 「家族?」


 帰宅途中、不意にかけられた声に思わず返してしまう。そういえば、人間としてのブレンダンは「家族の体調を案じて医者のヴィクトルに頼った」という設定で会話していた。

 そんな事を言ったな、すっかり忘れていた。


 「あー。ええ、最近は元気ですよ」

 「......そうですか、それなら、よかった」


 それからまた、彼は口を噤んでしまった。

 石畳を歩く足音は2人分。ピチャ、ピチャ、と音を立て、はねた雨水がズボンの色を濃くしてくる。湿気と寒さは不愉快ではあるが、会話が続かず気まずそうに目を泳がせる彼を見ているだけで少し面白い。

 少し腰を折って覗き込むと、ビクリと肩を跳ねさせて私を見た。


 「ヴィクトル先生は、最近どうですか?」

 「えっ」

 「診療所に訪ねる人は絶えないと思いますが。先生自身のお体はどうかなって。だって、ずっと大変そうですから」


 実際、彼がいつ眠っているかなど分からない。

 人間というのは適度な休息が必要なはずだが、時々深夜まで明かりがついていることがある。目の下のクマも治る様子はなく、肌や髪も艷やかとは言い難い。唇も乾燥で皮が剥けている。

 

 「......まあ、そこそこ、ですね」

 「あはは、お医者様も身体が資本でしょう?ちゃんと食べてますか?」

 「食べてますよ、その......パンとか」

 「パンだけですか?」


 ほんの少しの沈黙。ヴィクトルは気まずそうに視線をそらした。

 

 「......紅茶、とか」

 「趣向品じゃないですか」


 仕事が忙しく、自身の世話は後回しになっているのだろう。少しでも余裕が出来るのなら、持ち直せるだろうか。

 私は、彼が完全に壊れて欲しいとは思わない。


 「栄養のあるもの食べてくださいよ」

 「......分かっています」

 「俺、貴方のことが心配なんです」

 「?」


 死んでしまったら、元も子もないのだ。受肉組成録を回収するのは簡単になる。だが、彼の脳内を引きずり出して読み解くチャンスが無くなってしまう。

 それは、嫌だ。


 「だって、もう知り合いでしょう?」

 「フレンドリーですね、ずいぶん」

 「そうですかね。先生があんまりにもぼんやりしてるからじゃないですか?気になるんですよ」


 ふふ、と自然に笑い声が出た。

 ヴィクトルは少し驚いたように目を見開いて私を見た。やはり、濁りのない美しい青色である。

 脳裏に浮かぶのは、王の無数の瞳。あの中にも、ヴィクトルに似た瞳はあった。

 

 (まあ、人間の顔に王ほど沢山持っていたら、奇妙か)


 一瞬挟まった思考に、指でポリポリと頬を掻く。

 あれはあれで別ベクトルの美しさはあるから、比べるのは不敬だ。


 「──えーっと」


 はて、何を喋っていたんだったか。

 ああそうだ。

 

 「だから、ちゃんと食べてくださいね。お願いしますよ?」


 一拍程度。じっと私をみていたが、ヴィクトルはほんの僅かに口角を緩めた。それが子供への慈悲なのか、言葉が詰まった私への呆れなのかは分からない。


 「......変な子ですね」

 

 それでも、敵意や疑いはない。初めて見る表情が嬉しく感じるのは、彼を観察する者として進歩を感じた結果なのか、別の何かなのかは分からない。


 (いやに短く感じたな)


 町から20分。そこそこな距離であるのに、ふと目の前を見れば診療所がそこにある。パンに気をつけながら庇の下で傘を畳んでいると、カチャ、と冷たい金属音が聞こえた。

 見れば、鍵を片手に扉を空けてしまっているヴィクトル。

 もう、終わりか。


 「ありがとうございました、こんな場所まで」


 パンの袋を渡せば、丁寧にお礼を言われた。背後はやはりパーテーションで見えないが、部屋の中は暗く冷たい。やはり、一人で暮らしていることは間違いなさそうだ。


 (......さすがに、入りたいと言ったら不自然か)


 仕方がない。ここでお別れだろう。

 彼の視線が私から外れる動作が、やけにゆっくりと見え。


 ガシッ。


 「え?」


 青い目が、驚いて私を見る。

 私が今怪異の体なら、簡単に折れてしまうだろう。


 「また、会いましょう、先生」


 微笑むと、彼は眉を寄せた。

 どうしたのだろう。


 「......あの、痛いです」

 「あっ」


 彼に言われて、ようやく力が入ってしまっていることに気づいた。手を離すと、己の腕を擦ってヴィクトルは困惑したように私から目をそらした。

 しまった。せっかく彼が警戒を解いていたのに。


 「......また、体調が悪くなったら、お伝えください」


 私の返事を待たず、パタン、と扉が完全に閉じた。


 (......罵倒なりなんなり、すればいいものを)

 

 瞬間的に雨音が耳に届き、冷たい湿気た空気が肌をなぞる。傘を開いて道に出れば、ボトボトと重い音が傘に落ちた。

 靴が泥濘を踏もうと、服の裾が濡れ身体が凍えようと、何も気にならない。


 ヴィクトル・ラヴェニ。

 次にお前と会うときは、お前のすべてを白日のもとに晒そう。


 (待っていたまえ、きっとすぐさ)


 唇を指でなぞると、歪に口角が上がっていた。


 ──1965年12月22日 20時


 「じゃーん、見なさいトルバラン!出来たのよ!」

 「本当か、クロックミティーヌ」


 帰ってきた途端、得意げに胸を張る彼女にソーダを渡す。

 ブレンダンの身体を脱いでベッドに横たえ、自分は端で座ればようやく彼女の話を聞く体勢になる。


 「神経毒をメインにした精鋭部隊よ!」


 彼女の頭に乗っている数匹の蜘蛛たちが、嬉しそうに跳ねていた。ドクイトグモは本来、1ヶ月から2ヶ月程度のスパンで世代交代をする。彼女は直接毒の濃度を変えられないかわりに、スパンを速めることが出来た。

 

 (地味な能力だが、短い世代交代をする彼らなら強力な武器になる)


 彼女が一匹だけ私に渡してくるので、大人しく手を差し出してみる。蜘蛛は戸惑った様子だったが、私の黒い手袋の上に乗るとうろうろと歩き回っていた。やはり、女王以外には不安を感じるのだろう。

 臆病な性格のドクイトグモらしい。


 「安心しなさいね、ちゃんとでっかいネズミを噛ませて実験はしてるから!一匹ですぐに動かなくなっちゃったわ!」

 「ああ、素晴らしい」

 「ふふーん!とーぜんよ。私の家族はすごいんだから!」


 私が提案したのは簡単なものだ。

 ウィリアムの失敗から、神経毒を強化した蜘蛛を量産すること。少数が気づかれないように背後から刺せば、正面から雪崩のように襲う場合と比べ、逃げられる心配がない。


 「あとはこの子たちを増やしていくだけね、でも人間ぐらいになると痺れるだけだと思うわ」

 「それでいい。ひと噛みで仕留めなくても問題ない」

 「ええ、分かってる。でも時間がネズミより掛かるでしょうね、貴方の言う理想には、まだまだ改良が足らないわ」

 

 短期間でこれだけ大きな変化を遂げたのだ。 彼女特製ドクイトグモは、充分効力を発揮してくれるだろう。


 (とくに、人間相手には効果が高いはずだ)


 高く結われた黒い髪が脳裏をよぎる。

 鈴のような凛とした声。

 白いスーツドレスとハイヒールの不快な音。


 別に、すべて善意でクロックミティーヌに提案した訳ではないのだ。私の目的は一つだけ。

 ただ彼女を、動けなくさえすればいい。


 「一つ提案がある」

 「なにかしら?」


 クロックミティーヌは純粋な赤い目で、小首をかしげて私を見る。


 「この改良蜘蛛を貸してはくれないだろうか」

 「あら、どうしてかしら?」

 「以前、君にヴィレナの事を話したと思う。近々......出来れば明日、彼女を襲撃する」


 驚いたように、彼女は目を丸くさせ、パチパチと瞬きをした。可愛らしい仕草だ。


 「まあ、いきなりね?」

 「ああ。もし成功したら、ブレンダンの身体を食べてもらって構わない」


 彼女の視線が、自然とベッドに横たわるブレンダンに行く。ウィリアムと同じような肉体を持つ彼は、多少防腐処理はしているものの、問題なく食べられるだろう。

 これで、次の獲物が掛かる少しの間は持つはずだ。


 「それと、ヴィレナの肉体の一部を分けよう。それでどうだ」

 「......どこをくれるっていうの?」

 「血液」


 血液は肉体に残っていると自然と腐ってしまう。内臓機能は怪異の私が入るので問題ないが、とにかく匂いの元となるアレをどう処理するかを考えていた。

 彼女たちが処理してくれるのであれば、一番いいのだが。

 

 「......血液、あまり好物ではないけど」

 

 彼女が考えている中、蜘蛛たちは気が早いのかブレンダンの肉体にワラワラと群がっていた。噛む様子はなく、ただ食べれる餌かどうかを判別しているようだ。

 多少鮮度は悪いだろうが、一人の人間という観点から言えば不足はないはずだ。


 「お前たち、どう?」


 声を掛けられた蜘蛛たちは、一斉にぴょんぴょん飛び跳ねる。合格らしい。


 「そう、お前たちがそう言うなら」


 彼女は私に向き直り、はぁ、と軽くため息をついた。

 

 「一晩だけよ」

 「ああ、助かる」

 「人間での効能も報告しなさい。私たちに取って大事なことなんだから」

 「理解している、力を尽くそう」

 「ちゃんと大事にしなさいね」

 「勿論だとも」


 手のひらに乗る蜘蛛は、ぴょんぴょんと跳んで私にアピールしている。彼女はその蜘蛛を潰さないように優しく撫でて、ふっと微笑んだ。


 「いってらっしゃい、エリザベス。いい子にするのよ」


 なんか、無駄に仰々しい名前がついてきたな。


 ──1965年12月23日 22時30分


 『ヴィレナ・フランは個人的にシトラスの匂いを好んでいる』


 シュヴァルツの情報だ。クローゼットをわずかに空けて覗けば、ほのかに香るのは間違いなくシトラスの香り。部屋の空気は冷たく澄み渡り、湿気た酸素を吸い込むたびに肺を凍らせる。

 闇が支配する部屋の中で、雨音がしとしとなっていた。


 突然、バタン!と大きな音が鳴り、部屋が開かれる。

 見えるのは廊下から漏れる光と、人影。

 

 「ふざけないで頂戴!!!」


 ヒステリックに叫ぶ声は、乱暴に扉を閉めた。廊下側から「お嬢様お待ちください」と動揺した使用人たちの声が聞こえてくるが、お構いなしで乱暴に扉が閉められる。


 (......ご乱心、だな)


 ヴィレナ・フランの声だ。診療所にいた時とは違う、震えるような八つ当たりの声。暗くなった部屋に、彼女が苛立ちながら花を模したランプをつけた。


 「ああ、もう、どうして......!」


 鏡台の前に座った彼女。クローゼットの隙間からは、後ろ姿しか見えない。高く結われていた髪は解かれ、苛立ったようにブラシで自ら整える。手つきは乱暴そのものだったが、段々と力が無くなっていった。


 「......」


 彼女が、机のうえの何かを見て動きを止めた。

 残念ながら、ここからは視認ができない。しなやかな指はそれを一度撫で、くしゃりと握られた。

 ただの、青色布切れの様に見えるが。

 

 「......なによ、あんななよっとした顔して。ふん」

 

 握られた布切れは手放さず、苛立ちが籠もったような声色で呟いていた。暫く、彼女は俯いたまま動くことはなかった。外の雨音が静かに響き、彼女の部屋の窓を濡らすだけ。


 「......知ってるのよ、この家が何をしているのかも。何も教えてはしれないけど。お父様だって、あの馬鹿だって、私にバレていないと思って」


 (はて、何のことだ)


 ヴィレナの家のことなど、私にはわからない。ただ、彼女が何を独白しているのはか少し気になった。注意深く聞こうとして、身を少し乗り出して聞き耳を立てる。


 ──カランッ


 (!!!)


 ビクッと身体が跳ねる。

 体がクローゼットのハンガーにあたり音が鳴った。これは、まずい。すぐに身を引いて彼女の様子をうかがう。


 「......?」


 こっちを、見ている。

 彼女の黒い瞳が、疑惑の色をにじませてクローゼットを見ていた。静かに椅子から立ち上がり、ゆっくり、ゆっくりこちらへ近づいてくる。


 ヴィレナの、鋭く美しい容姿が間近に迫る。

 その白皙の指が、クローゼットの扉に掛けられた。


 ぎぃぃ。


 「............」


 双眼はクローゼットの中を簡単に見渡した。服のすき間を少し空け、覗き、確認していく。

 一度。

 二度。

 視線がクローゼットの中を揺れる。


 「......気の所為、かしら」


 指が簡単に洋服をかき分け、細部まで確認を終える。しかし、何も見つからなかったようで軽く顔をしかめた。

 パタン、と扉が閉じられる。

 彼女が遠のいていく気配がし、暫くじっとしていた。


 (私は闇に隠れられるが、エリザは大丈夫そうか?)


 暗闇の隙間から覗いてみれば、改造蜘蛛は衣類のポッケから顔を出して周囲を確認していた。気丈な子だ。


 カチッ。


 暫くあと。ふとクローゼットの外の明かりが消えた。布ズレの音がして、聞き耳を立てていると聞こえ始めたのは緩やかな寝息。


 (問題なさそうだな)

 

 音を立てないよう、ゆっくりとクローゼットから出る。絨毯の引かれた床は、素晴らしいほど音を隠してくれた。

 ベッドに近づけば、そこにいるのは彼女本人。寝顔すら美しく、黒い髪は白のシーツに泳いでいる。健康的な白い肌にほんのり薔薇色に色づいた頬。

 目元は、少し濡れているか。


 (......泣いたのだろうか、何故?)


 まあいい。彼女の都合など、私にとっては関係ない。


 「エリザ、行ってきなさい。君のお披露目会だ」


 手の甲に乗っている蜘蛛に声をかければ、喜ぶようにぴょんと跳ねた。エリザベスは賢いようで、私の手にクモ糸を括り音を立てないようにスルスルとゆっくりと降下していき、着地する。


 4対の脚を器用に動かし、ヴィレナの首元へと移動していく。黒い髪が絡む陶磁器のような白く美しい首筋に、その毒牙が立てられた。


 「っ......」

 

 一瞬、ヴィレナの眉間が潜められる。

 しかし直ぐに寝息はもとに戻り、規則正しい呼吸を取り戻した。エリザベスは少しの間噛み続け、毒を注入したあと素早く差し出した手の甲へと登ってくる。


 「は、はぁ......はぁ......!」

 

 数分後彼女はまた眉をひそめ、呼吸は浅く乱れ苦しそうにシーツに爪を立て、必死に藻掻く。僅かに開いた目は、何かを探すように揺れていた。


 「っ、っ......り、べ」


 声を出されるとまずい。机の上に置いてあった安物の青いハンカチを、声を漏らさぬように口に詰める。少しの間、彼女は抵抗しようと私の腕を掴んだが、力が全く入っていないようだ。毒は充分効いている。

 生理的な涙が溢れ、彼女の黒い目が私に向けられた。ようやく、私を視認できたようだ。


 「......!?」


 驚いたように目を見開くが、もう遅い。噛みつこうとする犬歯は、シュヴァルツほど尖っていない。

 そのうち体中に毒が回りきったのか、それとも酸素不足に陥ったのか、虚ろな表情で目の焦点が段々と合わなくなる。

 

 「......終わったか」


 首筋で脈を測るが、酷く脈が弱いだけで死んではいないようだ。充分である。ここで死なれてしまっては、後処理が面倒だ。


 「さあ、彼女のところに持ち帰──」


 ゴンッ!


 「ッ゙!!」


 重い衝撃が頭に響く。あまりの痛みに鋭い耳鳴りが聴覚を穿ち、思わず抑えつけた。見れば、彼女が手の中に十字架をつかんだ握り拳が、脱力しシーツへ落下する所だった。

 一瞬視線は鋭く私を睨みつけたが、すぐに圧は霧散してしまう。


 (......殴られたのか、あれで)


 ヴィレナ・フランはどれだけの固い意志で私を殴りつけたのだろうか。最後の抵抗と言わんばかりの力で。


 (やはり、人間は、何をするか分からない)


 彼女の顔の輪郭を、ゆっくりとなでる。あの医者ばかりに気を取られていたが、彼女も素晴らしい人間だったのだろう。

 殺すのが、少しだけ惜しい。


 (ん?)

 

 蜘蛛の神経毒が妙なふうに作用したのか、口元がヒクヒクと痙攣していた。


 「......う、え」


 疑問に思いハンカチを外すと、釣られてか彼女の口から吐瀉物が漏れる。元々食事を取っていなかったのか、殆ど内容物は無かったがこれは誤算だ。世代交代のスピードを速めた副作用だろうか。


 (それか、彼女が毒の分量を間違えたか?)


 疑問には残るが、それ以上は特別な反応を起こさず問題はなさそうだ。口元をハンカチで拭い、シーツを払って姫抱きをすると、ずっしりと重さが腕のなかに残る。黒く癖のある長髪はさらりと流れ落ち、艷やかに煌めいた。

 持ち上げれば、体が重力に従い、腕のなかでだらんと垂れた。


 「さあ、悪い子はブギーマンが攫ってやろう」


 彼女の唇が僅かに動いた気がするが、声にならずそのまま暗闇へと消えていく。


 ああ、これでようやく、目的が達成できる。


 ──1965年12月24日 午前1時


 「どうかな」

 

 一つターンをしてみれば、黒いドレスはふわりと浮き上がる。ヴィレナの洋服は明るい色が多かったから、探すのに苦労した。雑にクローゼットの洋服を持ってきた甲斐があったというものだ。

 胸元にはヴィレナのキャッツアイのエメラルドブローチがキラリと輝いている。


 「それがヴィレナって人?」

 「そうだ」


 割れた鏡で確認すれば、あの日ヴィクトルと話していた女性が目にはいる。黒い髪に黒い目。血を抜いたせいで青白い顔。

 血を小分けに抜く作業は骨が折れたが、彼女が無数の空瓶を綺麗に保存してくれていたのが役に立った。密封された瓶を一つ空けて、彼女はご満悦で血を飲んでいる。


 「その人、いいものを食べてるのかしら、血がおいしいわ!」

 「そうか、それならいい」


 彼女にとってはちょっと美味しい栄養剤のようなものなのだろうか。固まらないようにクエン酸などを少し入れておいたが、酸っぱそうな顔もしないので黙っておこう。

 もしかしたら馬鹿舌なのかもしれないし。


 「君に習ったカーテシーもこの通りだよ」


 礼儀正しく膝を折って少しスカートを摘んでみれば、クロックミティーヌは満足そうに頷いた。確かヴィレナは聞いた時、ヴィクトルには敬語だった筈だから、口調もそれでいいか。


 「貴方はすぐ足を開いて座るし、足音も大きいんだから気をつけなさいね!」

 「......善処する」


 元は男なのだから仕方がないだろう。という言い訳は通じない。なにせ、私はこれからヴィクトル・ラヴェニの妻として生きるのだから。


 「うん、味覚も問題なく切れているな」


 試験管の中に入った銀の液体を飲み干すが、特に味はしない。そして呼吸をしても廃虚のかび臭さも感じない。快適である。


 「何かしら、それ」

 「水銀だよ」

 「ブレンダンの時には飲んでいなかったわ」

 「ああ、長期間の運用を想定してなかったからな」

 「?何か関係あるかしら?」


 彼女が不思議そうに小首を傾げた。

 そうか、彼女には受肉の危険性を伝えていなかったな。


 「死体を長期間着続けると、私達は受肉する」

 「じゅにく?」

 「死体から出れなくなる」

 

 殻になった試験管を摘んで振る。

 彼女の赤い目は、素直に動きを追った。


 「出れなくなると、どうなるの?」

 「死ぬ」

 「今すぐ脱ぎなさいトルバラン!!!」


 端的すぎただろうか。

 騒ぐ彼女をなだめ、説明を続ける。

 

 「我々ブギーマンは物理的に殺せない、それはわかるな」

 「人間みたいに死なないわね」

 「そうだ、だが受肉すると......端的に言えば肉体が死ねば中身も死ぬようになる」

 「メリットないじゃない!」

 「人間に化けるなら身嗜みは整えねばなるまい」

 「命がけすぎるわよ!」

 「そこまで長居するつもりはない、保険もある」

 

 ヴィクトルの行いを探り出し、受肉組成録を回収する。実質タイムリミットはあるが、一々肉体を脱ぐ手間がないのは良いことだ。


 「保険って、その飲んだ銀色のやつ?」

 「水銀だな」

 「意味あるの?」

 「ある。当然、副作用もあるが」

 「副作用?」

 「君が知る必要はない」

 「な、なによそれっ」


 ベッドに座り、心配そうにする彼女に向かって目線を合わせるためにしゃがみ込む。軽く微笑んでやれば、少しだけ緊張が解れたようだ。表情というやつは本当に便利だ。

 

 「満足すればすぐにでも帰ってくる」

 「ふん、その満足が長そうね」

 「耳が痛いな」


 口調には棘があるが、振りほどこうとはしない。

 彼女なりに思う所はあるのだろう。


 「......でも、エリザベスは連れていきなさい」

 「ん、いいのか?」

 「貴方時々ぼーっとしてるから!仕方なくよ!ほら手を出しなさい」


 言われる通りにすれば、手の甲に蜘蛛がぴょんと乗ってくる。正直あまり区別はついてないが、私と一緒にヴィレナを襲った蜘蛛だろう。


 「早くその子を私に返しにきなさい、じゃないと許さないわ!」

 「......善処しよう」


 この蜘蛛、何処に潜んでいて貰おうか。髪でいいかと頭の上に乗せてやる。

 しばらく、廃墟には帰れない。軽く部屋を見回せば、2ヶ月いたこの場所も中々に居心地が良かった気がする。


 「じゃあ、いってくる」

 「ええ、さっさと帰ってくるのよ!」


 彼女の声を背に、クローゼットの闇に飛び込んでヴィレナの部屋を目指し、歩く。シトラスの匂いは辿れないが、一度歩いた道だ。

 絶対に、迷いはしない。


 ──1965年12月24日 午前9時


 長雨の続くネブロンの町。

 町から20分程度歩いた場所にある診療所。


 コン、コン。


 黒いレースの手袋を嵌めたまま、見慣れた扉を叩く。

 診療所が開く時間は午前10時。当然知っている。しかし、この時間にはとっくに彼が起きているのも、把握済みだ。


 早足で近づく音が聞こえてくる。


 ガチャリ、とドアが開いた。


 「いっ........」


 彼は少し頭痛がしているようだ、一瞬こめかみ手を当て目を瞑ったが、頭を振って目線を上げる。


 「失礼。少し頭痛が。それで一体どうし──」


 ぱち、と影のある美しい青と目線が絡み合う。

 その目を覗き込みたくて、少し腰を折って顔を近づけた。


 「ごきげんよう、ヴィクトル・ラヴェニ」


 はく、はく、と彼の口が動き、顔が段々と青ざめていく。あまりの驚きに、声が出ないようだ。


 「私と、結婚してくださらない?」

 

 ヴィクトル・ラヴェニ。

 受肉組成録の現所有者の人間。

 

 お前の輝きを、一滴残らず啜らせておくれ。

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