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いぬがみっ!!

掲載日:2025/12/30

 飲み会を抜けて夜風に当たっていると、強い視線を感じた。

「月が綺麗ね」

 振り向くとそこに女が立っていた。俺は酔っていた事もあり、それが誰だか思い出せずにいると「ねぇ、そんな棄てられた犬みたいな顔をしないでよ」と言ってその女は笑った。

 その瞬間の笑顔に俺は惹かれた。彼女は美しい。俺はその美しさに平伏すだろうと直感した。彼女は美しい。


******


 きっとそれは四角い月の様だろう。

 月はいつだってそうだ。

 まるで暗い天井の蓋が外されて丸い穴から光が差してくるような光景なんだ。

「これで最後だね」

 ぼくの声が聞こえたかはわからないけれど、ぼくはずっと君のそばにいる。

 ぼくはきみの神になる。


******


「ねぇ、早くしてよ」

 ぼくは慌てて洗濯物を畳み終えると、ソファに腰掛ける彼女の背後に回る。汗ばんだ首筋に張り付いた後毛を眺めながら、オットマンチェアに伸びた白い足も盗み見た。

 扇風機がぬるい空気を掻き混ぜる。風呂上がりの彼女からはメンソール系入浴剤の香りがしている。ぼくは彼女に吐息がかからない様に気をつけながら親指にちからを込めて肩を揉みほぐし始めた。白く滑らかな皮膚の下で凝り固まっていた筋肉が解れていくのが分かる。


 肩を揉み、首を揉み、足元に回ってオットマンに置かれた足の裏を揉む。ここ最近の生活や食事を思い出しながら押す位置を調節して、彼女の表情を見ながら力を加減する。

 足の指の間や爪に鼻を寄せたい誘惑に駆られる。額に張り付いた前髪がやはり汗で薄く光る。彼女はうたた寝をしている様に見える。舐めとりたい、と思う気持ちをどうにか抑えて優しく声をかける。

「眠るなら布団にしなよ」

 生返事で立ち上がり、布団に向かう彼女の後ろ姿を見送ってからぼくは洗い物をして、軽くシャワーを浴びた。

 何度も入口を気にしながら、彼女が入っていた風呂の残り湯をそっと掬い、ひと口飲み込んだ。先ほど舐めた箸よりも良かった。


 ぼくは自身の陰茎を握りしめてどうにか眠りに落ちていった。


******


 彼女は美しい。彼女の肉体は美しい。彼女の貌は美しい。彼女の髪は美しい。彼女の匂いは美しい。彼女の声は美しい。彼女の吐息は美しい。彼女の性器は美しい。彼女の体液は美しい。

 彼女は美しい。

 彼女から出たものは全て美しい。彼女が触れたものは美しい。

 彼女と過ごすにつれてまたひとつ彼女の美しさを識り、またひとつその美しさに平伏す。

「棄てられた犬みたいな顔をしないで」

 彼女は笑う。

 彼女は美しい。


******


 その晩、彼女は久しぶりにぼくが彼女自身に触れる事を赦した。風呂を浴びる前の彼女は濃厚な匂いを放っていたが、同時に別の匂いもさせていた。

 ぼくが彼女の中に入った時に明確に分かった。そうだ、彼女はぼくだけのものではない。それを知らしめる為に今夜はぼくに触れる事を赦したのだ。それも、わざと風呂に入らずに。


 ぼくが彼女の美しさにひれ伏す度に彼女の精神は美しさを鈍麻させていく。

 彼女の髪に白いものが混ざるのも、肌に艶や張りが無くなる事すら美しいと思えるけれど、彼女の精神だけは美しさを保てない。ぼくにはどうしようもない。


 ……どうしようもない?本当に?

 彼女を殺してホトケにしたところで彼女の劣化は防げても新しい美しさを識る事はできない。腐敗していく彼女はもしかしたら美しいだろうけれど、それ以降に本来なら彼女が自然と齎したであろう美しさに悦びを見出すことができない。

 ならばぼくが彼女の神になればいい。彼女を守護し、精神の劣化を防げば彼女の美しさにより磨きがかかる。


******


 ぼくは首を上に向けて暗い天井を見つめていた。

 こうして一週間ほどになる。身体は動かない。目の前に置かれた食事は既に腐り始めている。カップの水は乾き切りグラスに不気味な模様を残していた。

 首を回して彼女の下着を眺める。洗われていないそれは饐えた匂いを発していたが、ぼくはなんとか大きく呼吸をしてその空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 暗い天井は一定のリズムで軋んでいる。聴いた事もない彼女の声が響く。

 体力も気力も限界に近いが、だからこそぼくは激しく怒張していた。僅ばかりの微睡みにも彼女の声が響きぼくを苛んだ。

 だがそれももう終わりだ。

 彼女の美しさはまたひとつ進化する。

 ぼくが彼女を美しくする。ぼくはその為に彼女の神になる。

 情事が済み、姿の見えない男が廊下を歩いて部屋を出て行く音が聞こえた。彼女がぼくの携帯に電話をかける。

 だが当然ぼくは応えられない。首から下が土に埋まっているからだ。

 だがそろそろ自動送信設定をしていたメールが彼女に届く頃だろう。

 タイミングは丁度よかった。運がぼくの味方をしている。つまり彼女の美しさの味方をしているのだ。

 彼女が慌てて室内を駆け回る音が聞こえた。

 そろそろだろう。

 悦びに興奮したぼくの首にピアノ線が食い込む。いくつもの滑車を通して暗い天井に伸びた鈍く光る銀色のピアノ線は、あたかもぼくが彼女に向けた蜘蛛の糸だと思った。

 あぁ、もうすぐだ。

 彼女が天井を開けようとする音が聴こえた。

 きっとそれは四角い月の様だろう。

 月はいつだってそうだ。

 まるで暗い天井の蓋が外されて丸い穴から光が差してくるような光景なのだ。あぁ、光が射す。恍惚の時がくる。ぼくこそが彼女の神になるんだ。ここにあるどんな頭部よりもぼくこそが彼女の神になって使役される。永遠に、彼女が死ぬまで。

「これで最後だね」 首だけになったぼくの声が聞こえたかはわからないけれど、ぼくはずっと君のそばにいるよ。ぼくは君の……。

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