春の風が吹く日に
「ふ~た~ば教授!」
研究室のドアを開け、美咲が顔を出す。
恭介は、いつものように書類とパソコンに埋もれながら、ゆっくりと振り向いた。
──あれから、二年が経った。
空が消えたあの日、
彼女の最後の力で開かれた人間界への扉を通り、
恭介たちは元の世界へと戻ってきた。
「風が吹いたら、オイラはいつだってお前らのそばにいる。
たとえお前らに、オイラの姿が見えなくても」
そう言って笑った風太の声を、今でも覚えている。
そして扉が閉じる瞬間──
「ありがとう、父ちゃん」
それが、恭介が聞いた“父”としての最初で最後の言葉になった。
人間界に戻ってからの恭介は、
以前よりさらに研究に没頭するようになった。
まるで、全てを忘れ去ろうとするかのように。
美咲と修治は大学を卒業し、
修治は父親の会社へ、美咲は出版社へ就職した。
それでも美咲は時々、恭介の様子を見に来ていた。
放っておくと、この人は命まで削ってしまいそうで――。
「藤野君。いい加減、その呼び方はやめてくれないか?」
呆れたように振り向いた恭介に、美咲は舌を出して笑った。
「え~? だって、教授の方がしっくり来るじゃないですか」
「……まったく」
そう言って、恭介は苦笑を返す。
美咲は彼の顔を見てふと微笑んだ。
「お! 今日はちゃんと髭も剃って、髪型も整ってますね!」
「仕方ないだろう。婚約祝いの食事会なんだから」
「そうでしたね。人生に一度の晴れ舞台ですもん!」
恭介はスーツのジャケットを羽織り、
少し照れくさそうにネクタイを締め直す。
その姿に美咲は思わず見惚れていた。
タクシーの窓から、春の風がやわらかく吹き込む。
彼女の左手の薬指で、小さなダイヤの指輪が光っていた。
ホテルに着くと、恭介は少し顔をしかめた。
「随分と豪華なことだな」
「まぁまぁ。みんなもう中にいますよ」
美咲に促され、恭介は渋々ロビーへ足を運んだ。
「教授!」
中に入ると、修治が声を掛けてきた。
「お忙しいのにすみません」
「長い片想いが実ってよかったな」
恭介は柔らかく笑って修治の肩を叩く。
「内輪だけの会なので、スイートルームを押さえたんです」
「はぁ? スイート? 宴会場でいいだろうに……」
恭介が呆れたように言うと、二人は顔を見合わせて笑った。
「時間を気にせず、ゆっくり話したいんですよ」
「……そんなもんかね」
部屋の前に着くと、美咲が恭介のネクタイを直した。
「教授、ほら曲がってます!」
「俺は招待客なんだから、お前らがちゃんとしてれば──」
その時だった。
「恭介!」
背後から、懐かしい声が響いた。
恭介が振り向くと、
七五三のような小さなスーツを着た少年が、
まっすぐに駆け寄ってきた。
「久しぶりだな、恭介!」
笑顔のまま、少年は恭介に抱きついた。
「オイラ、大龍神様に人間にしてもらったんだ!」
その顔は──風太だった。
「風太……?お前、どうして……」
言葉を失う恭介の前に、
「風太! 勝手に走っちゃダメでしょう!」
と、柔らかな声が響く。
手を引かれて歩いてくるのは、
座敷童子、そして──
あの日、雪と共に消えたはずの最愛の人。
恭介は息を呑んだ。
信じられないものを見るように、ゆっくりと彼女へと歩み寄る。
空は微笑みながら、ほんの少しだけ首を傾げた。
「お久しぶりです……恭介さん」
その一言で、全ての時間が止まったようだった。
恭介は視線を美咲と修治に向ける。
二人は静かに頷くと、優しく笑った。
「……取りあえず、中に入りましょう」
美咲の言葉に、恭介はゆっくりと頷いた。




