龍神の里に雪が降る ― 最終章:最後の夜 ―
「あ……」
「あ……」
その夜、眠れぬまま水を飲みに出た空は、
同じく廊下を歩いていた恭介と鉢合わせた。
「眠れないのか?」
静かに問われ、空は小さく頷いた。
恭介はコップに水を注ぎ、無言で差し出す。
「……ありがとうございます」
その一言のあと、沈黙が流れた。
恭介が背を向けかけたとき、空が声を震わせて呼び止めた。
「あの……少しだけ、お時間をいただけませんか?」
不思議そうに眉を上げた恭介は、それでも頷いた。
「……こんな夜中に?」
「はい。朝になったら……きっと言えなくなるので」
静かな足音が並び、二人は屋敷の奥──空の部屋へと歩いた。
部屋の灯が、淡く二人の姿を照らしていた。
机の上に並べられていたのは、
白い狐の面と、子ども用の小さな浴衣。
そして、あの白いハンカチ。
「これを……お返ししなければと思って」
風呂敷に包み、空が差し出す。
恭介はしばしそれを見つめ、やがてハンカチだけを取り出した。
「これだけは……返してもらうよ」
低く呟き、背を向けた瞬間──
空の手が、恭介の背にそっと触れた。
次の瞬間、額が彼の背中に重なる。
「美咲さんに言われました。
“最後くらい、我儘を言いなさい”って」
「藤野君が……?」
空の声は小さく震えていた。
「私はずっと……あなたが好きでした。
初めて出会った日から、ずっと。
でも、それはあなたを苦しめるだけでした。
だから、謝らないでください。
風太のことも、私が救われていたんです。
だから――『ありがとう』は、私のほうです」
その瞬間、恭介は空の肩を掴み、静かに引き寄せた。
「あんた……こんな夜中に、男を部屋に呼んで。
そんなこと言ったら、どうなるか分かってるのか?」
低い声。
けれど、それは怒りではなく、押し殺した想いの滲む声だった。
空は微笑みながら首を横に振った。
「……分かっています」
唇が触れ合う。
そして、すべてが静かに崩れていった。
指先が触れ、髪が解かれ、
互いの鼓動が、夜の静けさに溶けていく。
ただ確かめ合うように、
何度も、何度も。
この夜が終われば、もう二度と交わることはない。
それを知っているからこそ、
二人は何も言わず、ただ抱きしめ合った。
恭介の指が、震える空の頬をなぞる。
「……空」
その名を呼ぶ声に、空は微笑み、涙をこぼした。
「恭介さん……愛しています」
彼の胸に顔を埋め、
消えていく運命の中で、最後の温もりを焼き付けた。




