龍神の里に雪が降る
最後の夕食を終え、それぞれが明日の帰路に思いを馳せていた。
美咲は空の部屋を訪れたが、姿が見えない。
外に出ると、縁側で夜空を見上げている空と恭介の姿があった。
「……ここに居たんだ」
恭介が静かに声を掛ける。
「恭介様」
驚いたように振り向く空に、恭介はゆっくりと歩み寄った。
空が座っていた縁側に並んで腰を下ろす。
「ここは……変わらないな」
恭介はぽつりと呟き、夜空を見上げた。
空は居心地悪そうに立ち上がろうとしたが、
恭介がそっと腕を掴む。
「最後なんだからさ。今日くらいは、少しだけ一緒に居てよ」
その言葉に、空は諦めたように微笑み、再び腰を下ろした。
二人は黙って夜空を見上げる。
「……ごめんな」
恭介がぽつりと漏らした。
「え?」
驚いて彼の横顔を見つめる空。
恭介は夜空を見たまま続けた。
「記憶が戻り始めてから、ずっと考えてた。
あいつにとって、俺ってなんだったんだろうって。
子どもがいれば……風太がいれば、もう俺は必要なかったのかな、って」
淡々と語る恭介から、空はそっと視線を外した。
「でもな……多分、本当のことは、まだ“消された記憶”の中にあるんだと思う」
恭介はゆっくりと空を見つめ、頬に触れる。
「空……君が本当は何者で、何を隠しているのか、俺には分からない。
それでも──君と出会えたことだけは、後悔していないんだ」
「恭介……さ……ん……」
涙で滲む視界の中で、空はその名を呼んだ。
恭介は一瞬驚き、それから小さく笑う。
「やっと、“様”が取れたな」
そして、そっと空を抱きしめた。
「風太を……あんなに良い子に育ててくれて、ありがとう。そして……君を悲しませてばかりで、本当にすまなかった」
恭介は静かに空の身体を離し、穏やかな声で言う。
「明日の朝は早いんだろう? 時間を取らせて悪かったな。……おやすみ」
そっと空の頭を撫でると、背を向けて歩き出した。
空の瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちる。
ありがとうなんて……言わないでほしかった。
ごめんなんて……謝ってほしかったわけじゃない。
ほんのひとときでも、共に過ごす時間が長ければ長いほど、別れはつらくなる。
──これは、罰なのだ。
空は目を閉じ、あの日を思い出す。
あの日。
恭介が覚えている“最後の記憶”は、空が与えた偽りの記憶だった。
本当は、恭介はタツ(空)を抱えて大龍神の神殿へと駆け込んでいたのだ。
「頼む! タツを……タツを助けてくれ!」
必死に頭を下げる恭介に、大龍神は冷たく言い放つ。
「誰のせいでタツが禁忌を犯したと思っている」
「罰なら俺が全部受ける……だから、彼女を助けてくれ!」
涙ながらに縋る恭介に、大龍神は目を細める。
「みっともないな。人間は──一人では何もできぬくせに、この世界を汚していく」
冷たい視線のまま、タツを恭介の腕から引き離した。
「では、お前に最後の機会を与えよう」
大龍神は低く告げる。
「二度とタツにも風太にも近づくな。それを守れるか?」
「……それで、タツが救われるなら」
「それだけでは生ぬるいな」
大龍神の声が響く。
「お前のこの里での記憶、すべて消させてもらう」
「なに……?」
恭介は息を呑んだ。
「二度と会わぬなら、記憶など不要だろう?」
拳を握り締める恭介。
胸に蘇る、穏やかで温かな日々。
それを奪われることこそが──罰。
大龍神はさらに言葉を重ねる。
「恭介よ。もし何かの拍子にすべてを思い出せば……タツは死ぬ」
「なっ……!」
「罪を犯した我らが死ぬと、どうなるか知っておるか?」
「……?」
「雪になるのだ」
「雪……?」
「そうだ。この里に、雪が降る。
温暖なこの地に、美しく、けれど積もることのない雪がな」
恭介は愕然とした。
「それは……遺体さえ触れられないということですか?」
「お前に、その命を背負う覚悟はあるか?」
大龍神の問いに、恭介は静かに頷く。
「それしか……救う道がないのなら」
「では、お前に“鍵”を与えよう。記憶を封じる鍵だ」
「鍵……?」
「お前の記憶を消したあと、偽りの記憶をいくつも張り巡らせる。
見つけられるか? 本当の記憶を。
そして──もし再びタツと出会うことがあれば、それはもうお前の知る彼女ではない」
冷たい笑みを浮かべる大龍神に、恭介はただ頷いた。
「タツよ。恭介の記憶の封印は、お前がやりなさい」
「え……?」
「お前なら、痛みをもって封じられる」
涙をこぼしながら、タツは頷いた。
「恭介さん……ごめんなさい」
恭介は片膝をつき、穏やかに微笑む。
「俺こそ……こんな形でしかお前を守れなくて、ごめんな」
「さあ、別れの記憶を与えよ」
大龍神の声。
空はそっと、恭介の額に自分の額を重ねた。
恭介さん。
私はね、生まれ変わったら──空になりたい。
あなたを守り、照らし続ける空に。
日溜りはあなたを包み、
そよ風はあなたの頬を撫でるでしょう。
夜空の月は、どんな暗闇の中でもあなたを照らし、
雨は優しく、あなたたち人間の飲み水となる。
忘れないで。
あなたと永遠に会えなくなっても、
あなたに触れられなくなっても──
私はどんな姿にでもなって、あなたを守り続けるから。
だから、あなたは笑っていて。
その優しくて温かな笑顔が、私は大好きでした。
恭介さん。
愛しています。
あなたを永遠に……。
額を離すと、恭介の身体がゆっくりと倒れた。
空はその身体を抱きしめ、髪にキスを落とす。
「さようなら。あなたは、ほかの誰かと新しい人生を送ってください」
白い光が恭介の身体を包み込む。
「記憶の削除は済んだか」
大龍神の声に、空は静かに頷いた。
「だからあれほど言ったのだ。人間に恋をしても、待つのは破局だ」
そう言いながらも、大龍神の瞳はどこか哀しげだった。
「では……恭介の身体を龍神神社へ運ぶぞ」
「待って!」
座敷童子が風太を抱えて駆けてくる。
「なんだ、座敷童子」
「お別れのお花を……あげたいの」
小さな手で、恭介の手に花を握らせた。
「……里の植物を人間界に持ち出すのは、禁忌だと教えたろう?」
大龍神が呆れたように言うと、座敷童子は涙を流しながら首を振る。
「だって……最後のお別れだから」
大龍神は小さく息を吐き、
「……分かった。私は何も見ていない。
それで良いな」
そう言ってタツの頭を撫でた。
「二人を救えぬ母を……恨んでおくれ」
大龍神が恭介の身体に手をかざす。
「さようなら、我が息子よ。
二度と会うことはないだろう」
その声と共に、
恭介の身体は光に溶け、静かに消えていった。




