引き裂かれた運命のはじまり 〜恭介の話〜
出会いは、まだ研究生の頃だった。
龍神神社のある山は、子供の頃から馴染みのある場所で、
俺はよくその山を歩いていた。
この山の一角には、絶滅危惧種に指定された植物が咲いている場所があり、
大学に通う前にはいつも神社に参拝し、その辺りを見回ってから登校するのが日課になっていた。
そんなある日、一匹の白い狐を見つけた。
罠に掛かっていて、足を怪我しているようだった。
俺が罠を外すと、狐はすぐに逃げ出そうとしたが、
傷ついた足を引きずるようにして歩いていた。
俺はその足を消毒し、ポケットに入っていたハンカチを包帯代わりに巻いてやった。
それ以来、その狐の姿を見かけることはなかったが、
なぜか山に入るたび、白い鳥が上から木の実を落としてくれたり、
ウサギが新しい在来植物の根を教えてくれたりするようになった。
だから俺も、傷ついた動物や植物を見かけると、手当てをするのが自然と習慣になっていった。
──三十歳で助教授になった頃のことだ。
崖の中腹で、珍しい植物を見つけた。
手を伸ばせば届きそうな場所にあったそれを摘もうとした瞬間、
足を滑らせ、崖下へと転落した。
「危ない!」
確かに、誰かの声が聞こえた。
目を覚ますと、そこは古びた山小屋の中だった。
あれほどの高さから落ちたというのに、体には擦り傷ひとつしかない。
ぼんやりとした記憶の中で、大きな鷲のようなものが自分の身体を掴んでいた気がした。
俺の顔を覗き込んでいたのは──
まるで日本画から抜け出したような、美しい女だった。
此処まで綺麗だと、かえって現実味がなく、興味も湧かないものだとその時は思った。
だが、この女は中々面白い女だった。
どうやら大龍神の一人娘らしく、周囲から大切にされているらしい。
俺は彼女を「姫さん」と呼び、
「元の世界に返せ」と我儘ばかりを言って困らせていた。
どうしても元の世界に戻れず、ある日、
俺は高い木に登って空を眺めていた。
すると下から悲鳴が上がり、覗き込むと──
あの姫さんが木に登ってきていた。
着物の裾を帯に入れ、裸足で木を登る姿に、
思わず息を呑んだ。
「やっと捕まえました! 恭介さん、あなたはいつもすぐに姿を消すのですから……」
そう言って見せた笑顔が、驚くほど眩しかった。
彼女は俺たち人間の世界の話を聞きたがった。
「なぜ人は信仰を忘れてしまったの?」
そんな難しい質問をしては、答えに困らせたかと思えば、
俺が釣りをしていると「私にも教えてください!」と無邪気に笑う。
そのたびにお付きの者に叱られていた。
破天荒な性格で、容姿と性格のアンバランスさに、
気づけば俺の目は彼女を追っていた。
だが、時々彼女が寝込むことに気づいた。
神聖な場に籠もると数日出てこなくなり、
その間は決して人が近づいてはならないと言われていた。
「恭介さん!」
いつも明るく駆け寄ってくる声が聞こえないだけで、
胸の奥がざわつく自分に気づいた。
春の日、桜が咲く山で俺は一人寝転び、青空を見上げていた。
風が頬を撫で、花びらが舞い落ちる中、
俺の顔を覗き込むように、彼女が現れた。
風に舞う花びらを背に、長い髪を押さえながら微笑む姿を、
俺は今でも忘れられない。
「タツ……」
その時、初めて彼女の名を呼んだ。
触れた頬は驚くほど冷たく、血の気を感じなかった。
「恭介さん? どうしたのですか?」
無邪気な瞳が、俺の心の奥にある“人間の欲”を見透かすようで怖かった。
そっと手を離し、言葉を絞り出した。
「お前……また倒れたんだって?
あまり無茶をするな」
すると彼女は、驚いたように目を見開き、
少しの沈黙のあとで微笑んだ。
「心配……してくれたのですか?」
作り物のように完璧な微笑みだった。
「なぁ……お前のその姿って、本物なのか?」
ある日、思わず尋ねてしまった。
タツは驚いたように俺を見つめ、
「この姿は嫌いですか?
人間の男は、美しい女を好むと聞きましたが……」
と不思議そうに首を傾げた。
「お前……それじゃまるで、俺に気に入られるためにその姿になっているみたいだぞ」
冗談めかして言った俺に、彼女は真剣な眼差しでこう返した。
「そうだと言ったら……迷惑ですか?」
その瞳が、逃げ場のないほど真っすぐで、
息をするのも忘れていた。
「え?」
「私は……恭介さんが好きです」
その瞬間、世界が静止したようだった。
俺は人間で、彼女は龍神。
交わるはずのない存在。
けれど、その境界が溶けていく音を、確かに聞いた気がした。




