記憶と命の境で
「はぁ? 明後日には元の世界へ帰れる?」
夕食の時間、皆が集まった席で恭介が声を上げた。
「はい。ですので、いつでも帰れるように荷物をまとめておいてください」
空はそう言い残し、ゆっくりと部屋を出て行った。
「ねぇ……最近の空さん、様子がおかしくない?」
美咲がぽつりと呟く。
「確かに。顔色が悪いし、俺たちと一緒にいる時間も減ったよな」
修治の言葉を、恭介は無言のまま聞いていた。
食事を終えて廊下を歩いていると──
ガタン。
物音がして、慌てて駆けつけると、空が倒れていた。
「空さん!? どうしたんですか!」
血の気のない顔。
抱き上げると、空が朦朧とした意識の中で目を開けた。
「……大丈夫です。ひとりで、歩けます」
そう言って微笑み、ゆっくりと意識を失っていく。
恭介の胸に、不穏な予感が走った。
──自分の記憶が戻るほどに、空の体が弱っていく。
まるで、その二つが繋がっているかのように。
空を部屋に運び、布団へ寝かせた時、恭介は懐かしいものを見つけた。
それはまだ、タツと出会う前──
森で植物の調査をしていた頃の記憶。
一匹の白い狐が罠にかかり、足を怪我していた。
近づくと威嚇されたが、恭介は罠を外し、薬を塗り、
舐めないようにと、自分のハンカチを包帯代わりに巻いてやった。
その時、祖母の言葉を思い出した。
『この山にいる真っ白い動物は神様の化身だから、決して傷つけてはいけないよ』
恭介は、眠る空の顔を見つめて呟く。
「……あの時の狐は、きみだったのか」
植物を好きになったのも、祖母の影響だった。
祖母は野草を摘み、龍神神社を大切にしていた。
『恭介、人も動物も草も木も虫も……みんな生きているんだよ。
だから、大切にしてあげないとね』
優しく頭を撫でてくれたあの日。
その祖母の教えを、ずっと胸に刻んでいた。
そんな思い出に沈んでいると、空が目を覚ました。
「恭介……さん?」
「目を覚ましたか?」
声をかけると、空は驚いたように起き上がった。
「あっ、急に起き上がると──」
恭介が言い終わるより早く、空の体が崩れる。
慌てて抱きとめる恭介。
「アホ! 倒れた奴が急に起き上がるな!」
思わず怒鳴ると、空がかすかに微笑んだ。
「すみません……私、倒れたんですか?」
空はそう言い、恭介の腕からそっと離れる。
「空、きみはまだ何かを隠しているんじゃないのか?
お前の体の異変は、俺の記憶と関係があるんじゃないのか?」
恭介が肩を掴むと、空は視線を逸らし、
小さく笑ってつぶやいた。
「随分と想像力が豊かなんですね。
恭介様は教授より、小説家の方が向いていらっしゃるんじゃないですか?」
そう言って、恭介の手を払いのける。
「空!」
「じゃあ──私が、あなたの記憶が完全に戻ったら死ぬと言えば、満足ですか!?」
空の言葉に、恭介は息を飲んだ。
「あなたは何がしたいんですか?
どうして、そっとしておいてくれないのですか!?
あなたが愛しているのはタツ様で、私のことなんて、記憶の片隅にもないくせに!」
その瞳には、怒りと哀しみが混ざっていた。
「もう……放っておいてください。
どうして私に構うんですか……?
もう記憶が戻ったなら、私のことなんてどうでもいいじゃないですか……」
絞り出すような声。
その場に残った静寂が、痛いほどに胸に刺さった。
恭介は俯き、唇を噛んだ。




