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忘れられた名

『……大丈夫ですか?』


 目を開けると、目の前におそろしく美しい女性が、心配そうに顔を覗き込んでいた。

 恭介は思わず身体を起こそうとしたが、彼女がすぐに制した。


『まだ、起きてはダメです。崖から転落したようです』


 優しい声に、恭介は頭を押さえる。

 見渡すと、そこは古びた山小屋のようだった。


 女性は品のある着物姿で、彼女の背後には数人の従者らしき人物が控えている。

 まるで昔話の姫のようだ──そう思いながら、恭介は儚げに微笑むその顔を見つめた。


 美しすぎるせいか、不思議と“人間”という感じがしない。


「……ありがとうございます。助けてくださったんですね」


 恭介がそう頭を下げると、彼女は静かに首を振った。


『そんなお礼など……。それより、お腹は空いていませんか?』


 その言葉に、従者が器にお粥を盛って差し出した。


「あ……ありがとうございます」


『お口に合うか分かりませんが……』

 彼女はそう言って、花が咲くように微笑んだ。


 ──これが、恭介と“彼女”の最初の出会いだった。


 当時の恭介は、大学で植物の研究をしていた。

 龍神神社のある山には、古来種が今も息づく場所があり、彼はそこに通い詰めていた。


 外来種に覆われ、絶滅寸前だった在来植物。

 それを守りたい──その一心で、恭介は研究室に籠り、寝る間も惜しんで山に入っていた。


 そしてあの日。

 珍しい在来種を見つけ、夢中で手を伸ばした瞬間──崖下に転落した。


 彼女たちによれば、数日間も意識がなかったらしい。


 恭介はすぐにでも大学へ戻らなければと焦り、

 止める彼女たちを振り払い、山小屋を飛び出した。


 しかし、外へ出た瞬間、言葉を失った。


 ──そこには、電線も、電信柱も、何もない。

 ただ一面に、風に揺れる緑の世界が広がっていた。


「……此処は、どこだ……?」


 呆然と呟く恭介に、彼女は困ったように微笑んだ。


『此処は──龍神の里です』


「龍神の里? バカバカしい。そんなもの、あるわけないだろ!」


 恭介はそう叫ぶと、彼女に頭を下げて言った。

「助けていただいて、本当にありがとうございます。

 でも俺には、やらなきゃならないことがある。

また落ち着いたら挨拶に来ます」


 そう言い残し、山道を駆け出した。

(山なら知っている。必ず出られるはずだ)


 そう信じて歩き続けたが、

 ──しかし、どれほど歩いても知っている道には出なかった。


「嘘だろ……」


 呆然と立ち尽くす恭介の背後から、静かな声が響く。


『……気が済みましたか?』


 振り向くと、あの女性が立っていた。

 その顔はどこか悲しげだった。


「龍神の里って……本当なんですか?」


『はい。今は訳あって、すぐには“元の世界”へ戻す扉を開けられません。

 けれど必ず、元の世界へお返しします。

 それまでは、どうか身体を癒してください』


 そう言って微笑むその顔は、どこか儚く──まるで夢の中の存在のようだった。


 再び山小屋へ戻され、布団に横たえられた恭介は、気まずさを紛らわせるように口を開いた。


「……あ、そうだ。名乗ってませんでしたね。

 俺の名前は、双葉恭介です」


 彼がそう言うと、女性は柔らかく笑い、口を開いた。


『恭介さん……? 私は――●●と申します』


 その名を告げた瞬間、周囲の従者たちがざわめいた。


『●●様! 人間などに名前を明かしてはなりません!』


 叱るような声が飛ぶ。


 その時、恭介は気づいた。


(……あれ? 彼女の名前が……思い出せない……)


 確かに聞いたはずなのに。

 彼女は“大龍神”の愛娘で、次代の龍神になる存在──

 そう、誰かが言っていた。


 だが、記憶の中でその“名”だけが、

 まるで水に溶けるように、消えてしまっていた。


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