王子様を信じた少女
恭介は追い払うのも面倒になり、短く言い捨てた。
「勝手にしろ」
そのまま背を向ける教授の背中を見送りながら、美咲は近くの切り株に腰を下ろす。
秋風が吹き抜け、木々の葉がさらさらと鳴る。
ノートを膝に広げて何かを書きつけている恭介の横顔は、まるで別の世界にいるようだった。
──最初に出会った日のことを、美咲は思い出す。
それは、入学式の日。
新しいキャンパスに胸を躍らせ、講堂を探して広い構内を歩き回っていたとき。
「何をしている?」
背中越しに声をかけられて振り返ると、そこにはスーツ姿の男性が立っていた。
清潔な白シャツに整った顔立ち、切れ長の目。
思わず息を呑むほどの美貌だった。
(すっごいイケメン……!)
「新入生だろう? 講堂は向こうだ」
それだけ言うと、男は美咲を置いて歩き出す。
「ちょ、ちょっと待ってください! “あっち”だけじゃわからないですよ!」
慌てて腕にしがみつくと、男は露骨に眉をひそめた。
「はぁ?」
冷たい視線に美咲は一瞬たじろぐ。
「私……ひどい方向音痴なんです」
しゅんと俯くと、男はため息を吐き
「ついて来い」
とだけ言って歩き出した。
少し怖いけれど、どこか頼もしい背中。
ヒールの靴で慣れない道を急ぎながら、美咲は必死にその背を追った。
足首に痛みが走る。靴擦れだった。
それでも止まるわけにはいかない──そう思ったそのとき、
「お前、足……どうした?」
振り返った男が、眉をひそめる。
「靴擦れ、したみたいで……」
苦笑いで答えた瞬間、彼はためらいもなく美咲に歩み寄った。
そして──ふわり、と抱き上げた。
「きゃっ!」
「うるさい。足が痛いんだろう?
講堂の医務室まで運ぶ。じっとしてろ」
突然の“お姫様抱っこ”に、美咲の頭が真っ白になる。
胸の鼓動だけがやけに大きく響いた。
(もしかして……この人が、私の王子様かもしれない)
子どものころから信じていた「運命の赤い糸」。
ピンチのときに現れる“物語の王子様”。
周りには呆れられても、美咲は本気で信じていた。
医務室に着くと、男は名前も告げずに去っていった。
その背中を見送ったとき、美咲の中で何かが弾けた。
(絶対、もう一度会う)
翌日、保健室で名前を聞き出した。
──双葉恭介。生物学部の教授。
それから美咲の猛アタックの日々が始まった。
文学部の自分には授業を受けることもできない。
それでも、こっそり教室に顔を出し、ノートを取り、恭介の言葉を一つでも多く聞こうとした。
「顔はいいけど変わり者」と噂される教授を追いかける美咲を、友人たちは心配した。
けれど、美咲は笑って言い切った。
「双葉教授以外とは、絶対に付き合いません!」
──そう言って四年。
卒業を控えた今でも、彼女の気持ちは変わらない。
山で黙々と植物を調べる恭介の横顔を見つめながら、美咲はため息をついた。
(せめて、一緒に写真だけでも撮れたら……)
そっとスマホを取り出し、構える。
夢中でメモを取る横顔を、カシャリ。
もう一度、今度は自分の笑顔と一緒に──。
そのとき、恭介の鋭い視線が動いた。
カメラの電子音が、静かな森に響き渡る。




