ヴァンデール伯爵家(2)
* * * * *
「もう、何なのかしら! いきなり泣き出すなんて、本当にお姉様って嫌な人!」
馬車に揺られながら、ナタリアは苛立っていた。
公爵邸にいたあの女は確かに幼くなっており、ナタリアが初めて出会った時よりいくらか歳下くらいに感じられた。物静かなのは相変わらずのようだった。
だから、父と共に優しく甘い家族を演じた。
そうすれば、記憶のないあの女は家に帰りたがるだろうと思った。
だが予想に反し、あの女は突然悲鳴を上げ、泣き出した。
……記憶がなくてもやっぱりお姉様はお姉様なのね。
ナタリアを苛立たせる天才だ。
父も珍しく怒っているふうだった。
「公爵め、面会を許可しておきながら突然帰れなどと……我が家を雑に扱えば、貴族派が黙ってはいないと分からないほど愚かではあるまいに……」
その父の言葉にナタリアはアルヴィス公爵を思い出した。
闇のような、夜空のような、漆黒の髪にルビーみたいな赤い瞳をした、素敵な男性だった。
ナタリアとは一回り近く年齢は離れているものの、貴族間の結婚では親子ほど歳が離れているのは珍しくもないし、あれほど見目が良ければ年齢なんて気にすることではない。
公爵に想いを寄せているお友達を思い出し、少し納得する。
間近で見た公爵はナタリアですら見惚れるほどの美形だった。
王太子とは友人だというが、確かに二人が並んだ姿は誰もが溜め息を吐くほど美しいだろう。
今回、上手くいけばあの女を連れ戻すつもりだったのに。
そして再教育して、公爵家に戻りたくないと言わせ、また伯爵家で利用する予定だった。
……まさか、追い出されるなんて。
公爵はあの女を嫌っていたから、てっきり今は仕方なく関わっているのだと考えていたが、公爵のあの様子からするとそうではないのかもしれない。
「お父様、このままではお姉様を取り戻せませんわ」
「ああ、分かっている。……他の方法を考えよう」
どうにかしてあの女を伯爵家に戻し、代わりにナタリアが公爵夫人になる。
そうすれば、公爵家から伯爵家に金を流すことができるだろう。
「絶対に、お姉様を取り戻さないと……」
あの女がナタリアより上にいるなど、許せなかった。
* * * * *
シアが目を覚ますまで、レオンハルトは息子と共に調査書を読んだ。
読み進めれば、進めるほど、レオンハルトは罪悪感と己の愚かさに頭を抱えたくなった。
……調査が済むまで後少し待てば良かった。
この調査書を先に読んでいたら、ヴァンデール伯爵家の者とシアを会わせるなどという愚行は犯さなかっただろうし、シアが怯えて泣き叫ぶこともなかった。
伯爵と令嬢がいなくなるとシアは気絶した。
急いで医者に診せたが、泣き叫んだ疲労と心労からくるものだろうという結果だった。
……当然だ。
記憶を失っているといっても、全くないわけではなく、フルーツタルトの時のように何かのきっかけで思い出すということは十分にあり得た。
伯爵家の者に会えば、記憶が呼び覚まされる可能性は高い。
それなのにレオンハルトは己や公爵家のことばかり考えてしまった。
一番不安なのはシアなのに、シアの気持ちを、事情を、考えなかった。
「シア……」
息子が心配そうにベッドの縁に座り、シアの小さな手を握っている。
もう日が沈んだというのにシアは目覚めない。
「ユリウス、一度出よう」
「父上……ですが……」
「夜は私が様子を見にくる。……お前まで体調を崩せば、目覚めた時にシアが心配するぞ」
「……はい」
息子と共にシアの寝室を出て、ユリウスは肩を落として自室に戻っていった。
レオンハルトも書類を手に書斎に向かう。
王太子と共に戦場に立ったこともあるというのに、胸の内で罪悪感が消えない。
……エリシア……。
結婚する前は一度も顔を合わせなかった。
結婚式以外、公爵邸に戻ってからは意識して顔を合わせなかった。
朝食を共にしたのに視線を合わせることすらしなかった。
……私は本当に愚かだ。
公爵という立場にいながら、相手を見ようともせず、きちんと調査もせずに判断するなんて。
シアは記憶を失っており、だからこそ、シアこそが本来のエリシア・ヴァンデールなのではないかと思い至り、余計に己の行いに失望した。
明るく、人見知りもなく、元気で朗らかな子だ。
レオンハルト達を怖がらず、小さな手が躊躇いなく触れてくることが内心は嬉しかった。
もし、レオンハルトがきちんと正面からエリシアと向き合っていたら……表面的なものではなく、もっと深く調査をして人となりを知っていたら違っていたのだろうか。
そう思うと、罪悪感と申し訳なさとで胸が痛む。
書斎に着き、とりあえず仕事に手を出してみたものの、上の空になってしまう。
あまりに酷かったのか侍従に「お嬢様のご様子でも確認してきてください」と追い払われた。
それに対して文句の一つも返せなかったので、レオンハルトは自身が相当落ち込んでいることに驚き、戸惑った。
この年齢になっても戸惑うことなどあるのかと更に困惑しつつ、シアの部屋の扉を叩いた。
侍女が「まだお休み中でございます」と言いながらレオンハルトを中に通す。
寝室に入れば、静かな寝息が聞こえてきた。
大きなベッドでシアが眠っている。
泣いたせいでその目元はまだ赤い。
「シア……」
深く眠っているようで、名前を呼んでも反応はない。
……早く目を覚ましてくれ。
謝らなければいけないことがありすぎる。
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しかしレオンハルト達の思いとは裏腹に、シアは二日経っても目覚めることがなかった。
医者も慌てていたが、心労が原因で目を覚さないのかもしれない、と言われ、レオンハルトは己の浅慮さに項垂れた。
あれほど泣き叫んでおり、シアにとっては死ぬほど恐ろしかっただろう。
ユリウスも気落ちしたままで、レオンハルトも何度も夜に様子を見に行って寝不足だった。
……眠りたいとも思わないし、こんな状態で眠れるはずもない。
仕事の合間にもシアの部屋に通ったが、目覚める様子はなかった。
「このまま目を覚さなかったら……」
同じく様子を見にきていた息子が不安そうに呟く。
それはレオンハルトも感じているものだった。
そっとシアの手を握る。小さくて、柔らかくて、か弱い手だ。
「シア」
名前を呼んでも反応はない。
「シア、目を覚ましてくれ」
小さな手に額を押し当てる。
これまで神などというものの存在など信じたこともなければ、信じたいとも思っていなかった。
だが、神という存在がいるのならば、どうかシアを目覚めさせてほしいと願う。
今度こそシアと──……本当のエリシア・ヴァンデールと話さなければ。
「……エリシア、目を覚ましてくれ」
全てはレオンハルトが間違っていた。
「君に謝りたいんだ……」
ぴくりと小さな手が動き、ハッと顔を上げる。
レオンハルトの様子に気付いた息子もシアを見つめる。
シアの閉じた瞼が僅かに震え、その向こうにあった緑の瞳がゆっくりと現れる。
ぼんやりとした様子の緑の瞳が宙を彷徨った。
「シア」
「シア……!」
レオンハルト達が覗き込めば、シアが小さく笑った。
「……はじめて、なまえをよんでくれましたね……」
その一言が全てを物語っていた。
……シア、君は……。
「記憶を取り戻したのか……?」
シアが瞬き、そして小さく頷いた。
「はい、こーしゃくさま。……わたしのなまえは、えりしあ・ゔぁんでーるです」
しかし、二日も眠っていたせいか、シアが咳き込んだ。
すぐにグラスに水を注いで渡せば、小さな手がグラスを持って水を飲む。
よほど喉が渇いていたようでシアは一息で中身を飲み干した。
「もう一杯飲むか?」
「いいえ、だいじょうぶです。……ありがとうございます」
落ち着いたその様子はシアとは違う。
……本当にエリシアの記憶が戻ったのか。
「……ごめいわくをおかけしてしまい、もうしわけありませんでした」
目を伏せ、そう呟かれる。
「いや……何もかも、私が悪かった。すまなかった、エリシア。君のことをきちんと知ろうともせず、噂だけを鵜呑みにして、無礼を働いた」
頭を下げれば、驚いた気配がした。
「おかおをあげてください……! あのうわさをしっていれば、とうぜんだったとおもいます」
「だが……」
「わたしも、こーしゃくさまとのけっこんをりようしようとしていました。けっこんして、こーしゃくていにくれば、いえにかえらなくてすむので……」
俯き、小さく震える体に触れて良いものか躊躇った。
けれども、そっとその背中に触れる。
「それこそ当然だろう。……君について調査した。ずっと、君が伯爵家でどのような扱いを受けてきたのかも、何故毒婦になっていたのかも、もう知っている」
パッと顔が上げられ、緑の瞳と目が合った。
できるだけ優しく、小さな頭に触れる。
「今までつらかったな」
息子が小さな手に触れる。
「僕達は味方だよ」
それにくしゃりと顔を歪ませ、緑の瞳から涙があふれていく。
あの泣き叫ぶようなものとは違う、声を押し殺して泣く姿に胸が痛む。
……フルーツタルトの時もそうだったが。
この姿こそがきっと、抑圧されて生きてきたエリシア・ヴァンデールそのものなのだろう。
小さくて、か弱くて、心は傷だらけで、それでも声をあげて泣くことすら許されなかった。
泣いている様子からはそんな姿が容易に想像できる。
「わ、わたし……わたしは……っ」
声を震わせて泣く小さな体を抱き締める。
「本当にすまなかった。……私は君を追い詰めてしまった」
「い、いいえ……! いいんですっ……きっと、こーしゃくさまにはあいてにされないって、わたしもわかっていました。……ちちにはこーしゃくけでも『いままでどおりにふるまえ』といわれていましたから」
「そうか。……だが、私もユリウスも、もう君を──……エリシアを拒絶しない」
息子も頷き、それを見たエリシアが泣き笑いを浮かべる。
小さな手がレオンハルトの服を掴む。
「わたしのことは『しあ』でいいです」
「ああ、分かった、シア」
「改めてよろしくね、シア」
シアが笑って頷く。その頬を涙が一筋、こぼれ落ちた。
しかし、それが苦痛による涙ではないと分かる。
「ありがとうございます、こーしゃくさま、ゆりうす」
その涙は、今まで見てきたどの涙よりも美しかった。
* * * * *
目を覚ました時に公爵とユリウスがいて驚いた。
微かな意識の中で、公爵がわたしの名前を呼ぶ声がした。
それは『シア』ではなく『エリシア』とわたしを呼んだ。
だから、目を覚まさなくちゃいけないと思った。
寝起きのぼんやりとした頭で、思わず公爵に声をかけてしまったが、結果的には正解であった。
翌日、公爵がティータイムに来て改めて教えてくれたが、彼は『エリシア・ヴァンデール』について改めて調査を行ったらしい。
これまでの社交界の噂でも、伯爵家の話でもなく、エリシア・ヴァンデールという人間の情報を深く調査し、伯爵家の内情も知り、そうして父と妹を追い返してくれたようだ。
「調査結果が分かってから、伯爵家と会うかどうか決めれば良かった……」
公爵はそのことをとても悔やんでいる様子で、わたしはそれが嬉しかった。
伯爵家では誰もわたしの気持ちなど気にしないし、わたしがつらい目に遭えば夫人も妹も喜んだ。
「今後はヴァンデール伯爵家を招くことはない。もし君が外出するとしても、護衛の騎士達を付け、近づかせないようにする。……その、君の調査書については、王太子殿下とも共有してもいいだろうか?」
「はい、かまいません」
「すまない」
王太子と公爵は友人関係なので、毒婦と結婚することになって王太子は気を揉んでいただろう。
それに、伯爵家の本性を知っておいて損はないはずだ。
「こーしゃくさまはきのうから、あやまってばかりですね」
「……ああ、そうかもしれないな」
公爵が困ったように微笑んだ。
その表情が切なげで、ドキリと少し鼓動が跳ねる。
それに気付かないふりをして、わたしは笑った。
「もうあやまるのはやめてください。わたしはいま、こうしておだやかにすごせています」
何より、原作小説では公爵とエリシアは不仲で有名だった。
だが、今の公爵となら不仲になることはないだろう。
ユリウスとも仲良くやれているので、このままであれば殺されることもない……はずだ。
「それに、あやまるときのこーしゃくさまはくるしそうで、そんなこーしゃくさまをみるのはわたしもつらいです。くらいかおより、えがおでいてほしいです。……そのほうが、みんなしあわせですから」
ニコリと意識して笑えば、公爵が驚いた様子で目を丸くした。
そうして、フッと柔らかく微笑んだ。
「そうだな……シア、君がそう言うなら、もうこれ以上の謝罪はやめよう」
「はい、もうしゃざいはじゅーぶんいただきました」
穏やかな空気が流れ、部屋の扉が叩かれる。
「どうぞ」と声をかければユリウスが扉から顔を覗かせた。
「シア……っと、父上もいらしたのですね」
ユリウスが入ってくると侍女がテーブルに椅子を追加する。
その椅子を少し移動させ、わたしの横にユリウスが座った。
「ユリウス」
何故か咎めるように公爵がユリウスの名前を呼んだが、ユリウスは素知らぬ顔で出されたティーカップに口をつける。
「シアがエリシア・ヴァンデールなら、僕とシアは義理の母と子です。親子で仲良くしても不思議はないでしょう?」
「それを言うならば、私達は夫婦だが?」
「まだ名前すら呼んでもらえていないではありませんか」
よく分からないけれど、そっくりな二つの顔が同じような表情を浮かべている。
それがおかしくてわたしは笑ってしまった。
「こーしゃくさまも、ゆりうすも、なかよしですね」
わたしの言葉に二人が微妙そうな顔をするから、余計におかしくて笑いが止まらなかった。