思惑
* * * * *
「やった……! 本当に成功したのね……!」
暗い地下室の中、女の嬉しそうな声が響く。
室内にはいくつもの小さな鳥籠が転がっているが、中身は全て空である。
しかし、女の足元には数えきれないほどの鳥の羽根が散らばっていた。
その更に下に、赤黒い何かで描かれた円形の図があり、禍々しい赤紫色の光がそこから滲む。
だが女には、その光は自分を祝福してくれる神々しいものに感じられた。
「ああ、今日はなんて素晴らしい日なのかしら……!」
これまでの鬱屈とした気分が消え、心が軽い。
女には長年、慕い続けた男がいた。
美しく、強く、孤高の存在でありながら、国の剣として生きるその男を愛していた。
初めて出席した社交界で一目見た時から、ほんの瞬きの間に視線が重なった瞬間から、女は男に心奪われ、運命を感じ、自分の夫となるべき人だと思った。
周囲の者達は男を『恐ろしい』と言うけれど、その恐ろしさこそが男の美点である。
誰にも微笑まず、誰にも視線を向けず、誰も寄せつけず、王家にのみ忠誠を誓う。
そんな男が女にだけは、きっと微笑みかけてくれる。
そんな未来が想像できて、女は胸がいっぱいになった。
「……ああ、レオンハルト様……」
男の名前を呼ぶだけで、甘美な恋に酔いしれる。
あの黒い髪は触れるとどのような感触なのだろうか。
あの赤い瞳が自分だけに和らぐと、どのような表情を見せるのか。
女が社交界に出る前に、既に一度結婚をしてしまっていたが、前妻はもうこの世にいない。
息子を産んですぐに死んだという。その息子は男にそっくりらしい。
「あなたそっくりの子なら、きっと、私は愛してあげられますわ……」
愛しい男とそれにそっくりな義理の息子がいて、女は愛される。
そう思っていた。それこそが正しい未来なのだと信じていた。
それなのに、突然、男は別の女と再婚してしまった。
聞くところによるとその結婚は政略で、男は再婚相手を毛嫌いしているそうだ。
……あなたにとっても邪魔な女ですものね。
どうやって再婚相手を男から引き離そうか悩んでいた時、親切なお友達と出会い、素晴らしい方法を教えてもらった。
確実に男から再婚相手を引き離せる。
どうあっても婚姻状態を続けることができなくなる。
絶対に男は再婚相手と離縁するだろう。
そうすれば女はようやく、男と添い遂げられる。
ずっと、ずっと、社交界に羽ばたいた四年前のあの夜から、望んでいた未来が手に入る。
愛おしい男と並び、人々から敬われ、幸せな生活を送ることができる。
「……ああ、待っていて、レオンハルト様……」
想像するだけでドキドキと鼓動が高鳴り、足取りが軽やかになる。
……これを維持するためには手間がかかるけれど……。
これからの輝かしい未来のためならば、多少の面倒も惜しくはなかった。
もうすぐ社交界の時期がくる。
愛する男と今度こそ、夜会で続けて二度──……いや、三度踊るのだ。
一度のダンスは知り合い、二度のダンスは恋人や婚約者、三度のダンスは夫婦の証。
「……ふふっ、哀れな女ね」
男と結婚したというのに、社交の場で一度も共に踊ることなく離縁するなんて。
しかし、それは仕方がない。
男と再婚相手が結婚したこと自体がそもそもの間違いだったのだ。
間違いは正さなければならず、女こそが、女だけが、心から男を愛し、愛されるのだから。
女は鼻歌を歌いながら地下室の階段を軽やかに上がっていく。
その足元から落ちた鳥の羽根が、虚しく床に舞い散っていく。
地下室には、おぞましい赤紫色の光とおびただしい鳥の羽根が残されていた。
* * * * *
返ってきた手紙を読み、親切なお友達は愉快そうに口角を引き上げた。
予想通りの文面と現状、そしてあまりに思い通りに事が進むので、楽しくて仕方がない。
「うふふ……」
手紙で口元を隠しながらもつい笑い声が漏れてしまう。
「お嬢様、とても嬉しそうですね。何か良いことがございましたか?」
使用人の言葉に、親切なお友達は頷いた。
「ええ、お友達がずっと悩みを抱えていたの。相談にも乗っていて……それが解決したって!」
「お嬢様の助言とお優しさがきっと、その方を良い方向に導いてくださったのでしょう」
「そうかしら? ……そうだと嬉しいわ」
もう一度、ふふ、と笑い声を漏らし、親切なお友達は立ち上がった。
「なんだかお父様とお母様のお顔が見たくなってしまったわ。……お茶の用意をしてくれたのに、ごめんなさい」
使用人が柔らかく微笑んで「お気になさらないでください」と言う。
それに親切なお友達もニコリと微笑んだ。
「お茶とお菓子は侍女のみんなで片付けてくれるかしら?」
「はい、かしこまりました」
「私はお父様とお母様に会いに行ってくるから、あなたは少し休んでいて」
「お心遣いをありがとうございます、お嬢様」
深々と頭を下げる使用人を残して親切なお友達は自室を後にした。
廊下を歩く足取りは軽く、今、人生で最も気分が良かった。
通りがかりの使用人達に「いつもお疲れ様」「ありがとう」と声をかければ、好意的な眼差しが向けられる。昔から、誰もがそうだった。それが当たり前だった。
父がいるであろう書斎に着き、扉を叩く。
中から声がして入れば、予想通り父がいた。
「お父様、あのお友達から手紙が届きましたわ」
書斎机の上にそれを置けば、父が読み、愉快そうに笑う。
「そうか、よくやった。さすが私の娘だ」
父に褒められ、当然だと思う。
今回声をかけたお友達は爵位は上だが、恋に狂って頭の中が空っぽであった。
適当に話を聞いて、親身になっているふりをして誘導すれば、驚くほど簡単にこちらの計画通りに動いてくれた。
……馬鹿な人ね。
公爵と結婚して、公爵夫人になりたいというわりには頭が軽い。
あんな短絡的な思考の持ち主が公爵夫人などになれるわけがないのに。
「これで、じきにアレは返されるだろう」
父の言葉に頬に手を当てた。
「まあ、お可哀想……」
「しかし、貴族派の最有力者であるフェネオン侯爵家に娘がいない以上、我が家からもう一度出すことになる。……アレを嫁がせろと言われた時は困ったものだが、ある意味、良い方向に転がったな」
それには何も言わず、困ったように微笑んでおく。
……ずっと、ずっと大嫌いだったわ。
父と前妻の間に生まれた長女。美しく、性格も良く、物静かで淑女らしい貴族の令嬢。
片や、自分は父と男爵令嬢の間に生まれた愛人の子。
今は父と母が結婚したことで伯爵家の一員になれたが、昔からあの女が大嫌いだった。
自分にはないものばかり持っていて、それなのにいつも自信のなさそうな姿が苛立たしかった。
父は前妻との間に生まれたあの女を愛しておらず、しかし、美しく成長したものをただ嫁がせるだけでは勿体ないと、美貌を使って男達を誑かしてお金を貢がせた。
最初はあの女も嫌がっていたけれど、ちょっと殴れば従順になった。
ついでに悪女のように振る舞わせて社交界での評判を下げさせ、こちらの評判を上げることに成功した。
……みんなから愛されて、称賛されるべきは私よ。
だが、あの女はアルヴィス公爵と結婚した。
王家の都合ではあったけれど、伯爵家の令嬢で良いなら、自分でも良かったはずだ。
父は「これでお前に家を継がせられる」と喜んであの女を手放したものの、すぐに惜しくなったようで「やはり公爵夫人はお前のほうが似合っている」と言ってくれた。
だから、父の計画に乗って愚かなお友達に近づいた。
『私はずっとレオンハルト様を愛しているのに……! 私が、私だけがあの方を愛せるのに……!』
『私もそう思いますわ。アルヴィス公爵も嫌いな相手と無理やり結婚させられて、お可哀想ですわね』
そうやってお友達の言葉に頷き続けるだけで、信頼を得た。
『良い方法があります』
『方法……?』
『はい、あなたは大切なお友達だから特別ですわ──……』
お友達はこちらの計画に気づかず、あっさりと黒魔術を使った。
調査をされれば、きっとお友達が犯人だと知れて捕縛されるだろう。
だが、全ては彼女が一人で行なったことだ。
非合法な黒魔術の本を売る店に行ったのも、本を買ったのも、小動物の命を代償に黒魔術であの女を呪ったことも。嫉妬に狂った彼女が勝手に暴走してやったことである。
たとえこちらの名前を出されたとしても証拠はない。
手紙にも書いていないし、教える時は人払いもした。
何より、こちらには『姉を呪わせる理由がない』と言える。
……あの女をお姉様と呼ぶのは不愉快だけれど。
姉を呪わせ、使った後のお友達は公爵家が処分するだろう。
そうして、今度は自分が公爵夫人という立場を得ればいい。
あの女はこの家に戻ってきて、男達を誑かし続け、適当な頃合いで最も金を持っていそうな男と結婚させればいいらしい。後継ぎさえ生まれれば、もうあの女は用済みだ。
甘やかしてくれる両親、愛してくれる使用人達がいるこの伯爵家も捨てがたいが、それでも『公爵夫人』という立場はそれらとは比べるべくもなく、輝かしいものである。
……公爵夫人になれば、もっと社交界で輝ける。
王家の剣と名高いアルヴィス公爵家に嫁入りすれば王家との繋がりも得られる。
可愛げのないあの女よりも、自分のほうが公爵と良い関係を築けるだろう。
「公爵家に手紙を送った。一度、アレの無事を確認したいという名目で行く予定だが、公爵との顔合わせも兼ねてお前も来なさい」
あの女と公爵の結婚式には参列したものの、公爵は元より誰にも関心を向けないため、挨拶すらできなかった。
しかし、いずれ公爵の横に立ち、公爵夫人となる。
上手く公爵の心に入り込めれば、あの公爵が自分に跪くかもしれない。
……ああ、なんて楽しいのかしら!
自分の未来が明るく、華やかなものであると確信を持てるこの喜び。
両親に愛され、使用人達に愛され、社交界では人気者。
酷い姉に虐げられながらも、それでも姉を心配する心優しい妹という立場はとても居心地が良い。
「はい、お父様」
一礼し、父の書斎を出る。
今日は気分が良いので、このまま少し庭を散策しよう。
それから、明日は商人を呼んで宝飾品を購入しなければ。
「公爵夫人となる人間が、みすぼらしいと困るもの」
世界の全てが輝いて、色鮮やかに見える。
この世界は自分に味方をしており、何もかもが自分のために動いているようだ。
あの女の存在は嫌いだし、鬱陶しいし、不愉快だけれど、でも、そのおかげで伯爵家は財政が潤って、ドレスも宝飾品も、屋敷を飾る絵画や調度品も購入できる。
……伯爵家のために生きることは許してあげるわ。
死ぬまで、あの女は使い潰せばいい。
「ふふ、あははっ」
あの女は今、幼い子供の姿になってしまっているらしい。
黒魔術を使い慣れない者が呪いをかけたからか、記憶まで失っているのだとか。
想像するだけでおかしくて、愉快で、笑いが込み上げてくる。
たとえ呪いが解けなくなったとしても、父ならばあの女を多額の金と引き換えに好色家へ売るだろう。
元に戻ったとしても、気付いた時には公爵家から離縁され、ここに返されている。
……絶望するかしら? それとも怒るかしら?
あの女の顔が苦しみに歪む顔が見られるなら、どちらでもいい。
初めて伯爵家に来た時、完璧なカーテシーで挨拶をされた時に感じたものを今でも覚えている。
嫉妬、羨望、驚愕──……そして強い劣等感。
あの女は昔から美しく、愛らしく、淑女らしく、貴族の男達からの人気が高かった。
それまでずっと、自分こそが世界一だと信じて疑わなかったのに、その常識を破壊された。
あの日感じた劣等感に、永遠に苛まれている。
……私のほうがあなたより、ずっとずっと、素晴らしい人間なのよ。
そのためなら何だってしてみせる。
やっと社交界に『毒婦エリシア・ヴァンデール』の名が広まった。
あの女は誰からも本当の意味では愛されず、社交界では噂され、伯爵家に利用されながらみじめに生きていく。それがお似合いで、そうでなければ自分が納得できない。
「……それにしても、楽しみね」
幼くなったあの女はどんなだろうか。
記憶も失くしているのなら、淑女らしくないかもしれない。
きっと公爵家では扱いに困り、嫌われていることだろう。
公爵家は絶対にあの女に黒魔術をかけた犯人を探し出すはずだ。
もう利用価値のないお友達とは縁を切らないと。
「そうだわ、他のお友達に相談しておかないと……」
あのお友達にしつこく話を聞いてほしいと言われて困っている。
話は聞くものの、頻繁に手紙を送られて、公爵に対してあまりに不敬な想いを寄せており、姉が嫁いだ身としてはどうすればいいのか悩んでいる。
そういう話をすれば、お喋りな小鳥達は喜んで広めてくれる。
あとは自分は被害者であり、姉の件とは無関係だと言えばいい。
実際に自分は何もしていないのだから。
「捕まるはずがないもの」
ふふ、とナタリア・ヴァンデールはその可愛らしい顔に笑みを浮かべた。
……ああ、公爵家に行くのがとっても楽しみ!
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