操り人形はもうやめる(2)
「エリシア……! ああ、やっと来たか……!」
父の安堵した声に唇を噛み締める。
今まで虐げてきたわたしが助けてくれると、どうしてこの人は信じて疑わないのだろう。
殴り、蹴り、罵倒し、利用して、エリシア・ヴァンデールという一人の人生を好き勝手にしたというのに、欠片も悪いと思っていないことが分かった。
「エリシア、さあ、私達をここから出すようアルヴィス公爵と王太子殿下に伝えるんだ! 上手くいけば、お前と公爵との婚姻を認めてやろう! 我が家に支援をするならこれまでのことも許してやる!」
……この人は何を言っているのだろう。
鉄格子を握り、顔を近づけて怒鳴る父は、以前ほど怖くなかった。
牢の中にいる上にレオンハルト様もそばにいてくれるから、安心感があるのかもしれない。
そうだとしても、なんだか父がとても小さく感じられた。
……ああ、そうね……。
殴られて、蹴られて、罵倒される時はいつも、わたしは床に跪かされていた。
見下ろされて、父や伯爵夫人、ナタリアはとても大きく感じられた。
でも、こうして同じ高さで立ってみると父はそれほど大きくなかった。
「お姉様のせいでこんなところに入れられたのよ! 早く出して、謝って!!」
と、隣の牢からナタリアが甲高い声で叫ぶ。
叫ばれると胸が苦しくて息が詰まりそうになるけれど、でも、震える手を握り締めた。
「お父様──……いいえ、ヴァンデール伯爵、伯爵令嬢」
ドクドクと心臓が嫌な鼓動を鳴らす。
手足が冷えて、緊張で口の中が渇く。
ふわりと、握り締めた拳に大きな手が触れ、横にレオンハルト様が立った。
それに背中を押されるように口を開いた。
「わたしはもう、あなた達の言いなりにはなりません」
わたしの言葉に父──……伯爵とナタリアが眦をつり上げた。
「何を馬鹿なことを言っている!? お前は私の娘で、伯爵家の所有物だ!!」
「そうよ! 私達に逆らうなんてどうかしているわ!!」
「エリシア、今すぐ私達を釈放するよう公爵に言え!!」
「私達をここから出さなければどうなるか分かっているの!?」
二人の叫びに、胸の中で悲しみが湧き上がってくる。
これまでにされたことへの謝罪も反省もなく、それどころか本当にわたしを『道具』としてしか見ていないのだと、再確認させられた。
この失望と悲しみの気持ちはエリシア・ヴァンデールのものだ。
虐げられても血の繋がりを信じて、家族に愛されたくて、でも愛されなかったエリシアの嘆きだ。
「伯爵も伯爵令嬢も、そして伯爵夫人も罪人として裁判にかけられるでしょう」
「そうなればお姉様だって公爵夫人ではいられないわ! 罪人の娘が公爵と結婚したままでいられると思っているの!? きっと誰もが『公爵夫人なんて相応しくない』とお姉様を非難するわ!!」
「残念だが、エリシアは昨日フェネオン侯爵家に籍を移した。もうヴァンデール伯爵家ではない」
「なっ……」
レオンハルト様の言葉にナタリアが絶句する。
わたしが伯爵家から出たのが予想外だという顔だった。
「っ、は、伯爵家を……私達を見捨てるのっ!?」
そんな言葉にわたしも驚いてしまった。
思わず「……どうして」と呟けば、父とナタリアがわたしを見る。
「どうして、わたしがあなた達を助けると思うんですか……?」
そうと信じている二人の思考が理解できない。分からない。
目の前にいる人達は本当に同じ人間なのかと疑ってしまう。
言葉は通じるのに会話が交わせられない。あちらとこちらで話が通じない。
伯爵は押し黙ったけれど、ナタリアが鼻で笑い、言った。
「そんなの当たり前じゃない。お姉様は伯爵家の家畜なの。私達のために生きて、利用されて、それ以外に価値なんてあるわけないじゃない! いいから、さっさとここから出して!!」
それにぐらりと体がよろめいた。
「エリシア!」とわたしの名前を呼ぶレオンハルト様の声が遠く感じる。
……かちく……家畜って、なに……? わたしは、エリシアは……。
あまりに衝撃的すぎて涙すら出なかった。
呆然とするわたしをレオンハルト様が支えてくれる。
伯爵の「ナタリア!」という鋭い制止の声に、しかし、ナタリアは口を噤まなかった。
「あなたを『お姉様』と呼ぶのも嫌だったわよ!! 伯爵家の家畜のくせに、お父様から愛されてもいないくせに、美しいってだけで男達が集まってきて、さぞや気分が良かったでしょうね!? 本当に嫌なら家を追い出されても抵抗すれば良かったのよ!! そうしないってことは、少なからずお姉様だって楽しんでいたんでしょうっ!?」
言葉が出ない。喉が詰まり、息が苦しい。
暴力で、言葉で、わたしを支配してきたのは彼らなのに。
他に生きる術を知らない貴族の令嬢が、家を飛び出して生きていけるわけがない。
そのような考えすら起こせないほどエリシアは追い詰められ、孤独になっていた。
……それは、わたしだって一度は思ったわ。
エリシアは家を飛び出し、修道院に逃げ込むという手もあっただろう。
だが、絶対に伯爵家はエリシアを探し出し、金を集めさせるために連れ戻すだろう。
その時にどのような折檻が待ち受けているか、想像するだけでエリシアは心が折れてしまった。
エリシアは自尊心も、人としての誇りも、何もかもを砕かれていた。
前世の記憶を取り戻していなければ、エリシアはいつまでも伯爵家の命令に従っていただろう。
命令に従順で、怯えて、公爵家でも誰にも本音を言えずに『毒婦・エリシア』として過ごし──……そしていつか、義理の息子に殺される。そんな運命はあまりにも酷すぎる。
「黙れ」
静かで、低い、唸るような声にハッと我に返る。
顔を上げれば、わたしを抱き締めたレオンハルト様がナタリアを睨んでいた。
「エリシアは家畜でも、ましてや伯爵家の所有物でもない。彼女はアルヴィス公爵家の一員で、私の妻であり、伯爵家にもう籍はない。……これまでも、これからも、彼女は彼女自身のものだ」
レオンハルト様の力強い声に体の震えが小さくなっていく。
「もう一度エリシアを『家畜』と呼ぶならば、この国から『ヴァンデール伯爵家』を消してやる」
静かな怒りと威圧感、そしていつの間にかそばに漆黒の狼達が現れていた。
狼達を見たナタリアと伯爵が「ひぃっ!?」と悲鳴を上げて鉄格子から身を離す。
レオンハルト様の本気の怒りを感じ取り、わたしは嬉しいと感じてしまった。
……この人はわたしを大切に思ってくれている。
わたしがレオンハルト様を大切に思うように。愛しく思うように。
だからもう、わたしも立ち上がらなければいけない。
「……ありがとうございます、レオンハルト様」
しっかりと立ち、伯爵とナタリアと向かい合う。
「わたしはもうあなた達の言いなりにはならないし、わたしはあなた達の都合の良い人間なんかじゃないわ」
きっと、ヒロイン・リリエットならば彼らを許したかもしれない。
でもわたしはヒロインではないし、これまでの記憶を忘れることも、許すこともできない。
「これまで育ててやった恩を忘れたのか!?」
「その代わり、わたしはあなた達の命令に従ってきました。恩があるとしても、もう返したはずです」
「お姉様、家族を捨てるなんてやっぱり冷たい女ね……!!」
ナタリアに睨まれ、わたしは少し呆れてしまった。
「わたしはあなたにとって家畜なのでしょう? 家族でないなら、助ける理由もないと言えるわ。……困った時だけ家族扱いしないで」
それにわたしにはもう家族がいる。
レオンハルト様とユリウスという、素晴らしい家族が。わたしを心配し、大切に思ってくれる人達がいる。
目の前の伯爵家とは違う、優しい人達だ。
しっかりと二人を見て、言う。
「さようなら、伯爵、伯爵令嬢」
今だけは『毒婦エリシア・ヴァンデール』の力を借りよう。
毒婦エリシアが原作小説で、苦言を呈した令嬢達に言い放った言葉を思い出す。
「『わたしの人生にあなた達は要らないわ』」
これからは『エリシア・ヴァンデール』ではなく『エリシア・アルヴィス』として生きていく。
だからこそ、これが毒婦の最後の言葉であった。
* * * * *
伯爵とナタリアに別れを告げて公爵邸に帰ると、ユリウスが出迎えてくれた。
「おかえりなさい、母上、父上」
柔らかく抱き着いてくるユリウスを、わたしも抱き締め返す。
「ただいま戻りました」
「ああ、戻った」
ユリウスが心配そうに見上げてくる。
「母上、大丈夫だった? 嫌な思いをしたでしょ?」
「ええ、少し……でも、行って良かったです」
「そうなんだ」
わたしが微笑むとユリウスが安心したような顔をする。
ユリウスにも心配をかけてしまっていたのだろう。
伯爵達と会うと決めてから気を張っていたのだが、ユリウスは気付いていたのかもしれない。
それでも、全てが終わるまで静かに見守ってくれていたと思うと、ユリウスやレオンハルト様の気遣いがとても嬉しくて、幸せで、得難いものだと改めて感じた。
「ユリウス、ありがとうございます」
感謝の気持ちを込めてギュッと抱き締めれば、ユリウスが笑みを浮かべた。
「どういたしまして」
わたしより歳下だが、ユリウスのほうが大人っぽい。
……原作でもクールで大人っぽかったものね。
そばにいたレオンハルト様がユリウスに言う。
「心配しなくても、毅然とした態度で伯爵達に別れを告げたエリシアは堂々としていて、とても美しかった。普段の控えめで淑やかなエリシアもいいが、気の強いエリシアもなかなかに悪くない」
「そうなんですか? 僕も見たかったです」
残念そうにユリウスが言い、レオンハルト様が小さく笑った。
「妻の色々な姿を見られるのは、夫である私の特権だな」
レオンハルト様がわたしを後ろから抱き締めるので、また幸せサンドになった。
「息子の特権はないのですか?」
「お前は時々シアと遊んでいるじゃないか。エリシアは私の前では、あまりシアになってくれない」
「え、そうなんですか? ……母上、どうして?」
キョトンとした顔のユリウスに見上げられる。
……あら、可愛い。
ジッと見つめられ、わたしは少し困った。
理由を言わないといけない雰囲気で、レオンハルト様も聞きたそうにしている。
他人からみれば大した理由ではないかもしれないが、わたしにとっては大切な理由で、でも本人を前にして言うのはなんだか恥ずかしい。
「エリシア、私にも教えてくれないか?」
と、レオンハルト様が眉尻を下げて、しょんぼりした顔をする。
初めてみるその表情は可愛くて、わざとやっているのだと分かるけれど、勝てなかった。
「……その、シアの姿だと、レオンハルト様は子供扱いするでしょう?」
それが悪いこととは思わないけれど、不満を感じてしまう。
レオンハルト様とユリウスが目を瞬かせた。
二人と視線を合わせるのが恥ずかしくて、目を逸らす。
「わたしはレオンハルト様とは夫婦でいたいので、子供扱いは嫌です……」
恥ずかしくて手で顔を覆うと、レオンハルト様がわたしのこめかみにキスをした。
「エリシアは本当に可愛らしいな」
振り向けば、唇が重なった。
触れるだけのキスだが、何度しても照れてしまう。
「いいか、ユリウス。妻にはこういう可愛らしい人を選びなさい」
「はい、分かりました」
「もうっ、レオンハルト様、ユリウス……! からかわないでください……!」
顔が熱くなるのに、気恥ずかしいのに、嫌ではなくて。
胸が温かくて、心地良くて、優しい気持ちになれる。
レオンハルト様の横がわたしの居場所であり、ここで生きていく。
……原作の毒婦はもういないわ。
「レオンハルト様、ユリウス」
二人の手を取り、ギュッと握る。
「愛しています!」
わたしの言葉に二人が笑顔で手を握り返してくれる。
「ああ、私も愛している」
「僕も母上を愛してるよ」
三人で手を繋ぎ、公爵邸に歩き出す。
毒婦令嬢と呼ばれて、結婚式の最中に記憶を取り戻した時はどうなることかと思った。
でも、こうしてレオンハルト様とユリウスと家族になることができた。
そう思うと記憶を取り戻したことも、黒魔術にかかったことも、悪いことではない。
ヴァンデール伯爵家にも、原作にも、従わない。
……わたしの意思でこれからは歩いていく。
もう二度と、誰かの命令に従うだけの弱いわたしには戻らないと決めたから。




