操り人形はもうやめる(1)
目を覚ましてすぐ、レオンハルト様とユリウスが寝室に来てくれた。
二人ともわたしのことをとても心配してくれて「体調は?」「顎は痛くないか?」と訊かれ、何のことかと思ったが、どうやらランドルフに顎を掴まれた件で痣になってしまったらしい。
手鏡で確認したら、しっかりと痣がついていたから驚いた。
けれどもレオンハルト様が教会に使いを出していたらしく、身支度を整えて応接室に行くと司祭様がいて、治癒魔術で痣は綺麗に治った。
……司祭様、ちょっと嬉しそうな様子だったわね。
一体どれほどの額の寄付金を積んで呼んだのか。
だが、あの痣は消してもらえてホッとした。
あれが残っていたら、いつまでも誘拐されたことが忘れられなかっただろう。
「エリシア?」
レオンハルト様に名前を呼ばれ、我に返る。
「大丈夫か?」
誘拐されてから数日が経ったけれど、レオンハルト様もユリウスも出かけずに屋敷にいる。
そうして、わたしの護衛も以前の倍になった。
屋敷の中でも常に護衛や侍女達がそばにいて、時にはレオンハルト様の黒魔術で生み出された狼がついていてくれることもあり、いつだって気を配ってくれる。
心配そうに赤い瞳に見つめられて微笑み返す。
「はい、何でもありません。レオンハルト様、実は心配性なのですね」
「君に関しては心配しすぎて損はないと学んだからな。……エリシアは普通の令嬢だ。私達のように、何かがあっても自らで敵を討ち倒せるわけではない」
「それはそうですが……」
「公爵家の中でも、外でも、君の警備は厳重にしないとな」
伸ばされた手がわたしの髪に触れ、レオンハルト様がキスをする。
「もうこれ以上、君を──……エリシアを傷付けさせはしない」
そうして、唇にもキスされる。
優しく、温かく、心地の良いキスにうっとりしてしまう。
「愛している、エリシア」
「私も、愛しています……レオンハルト様」
二人で抱き締め合っていると部屋の扉が叩かれた。
離れるとレオンハルト様は少し残念そうな顔をしたものの、扉に向かって「入れ」と声をかける。
すると、扉が開かれてユリウスが入ってきた。
「母上もいらっしゃるなら、後にしましょうか?」
わたしとレオンハルト様を見てそう言ったが、レオンハルト様が苦笑する。
「いや、いい。エリシアにも関係する話だろう?」
「ええ、まあ……」
「エリシアも聞く権利がある」
二人の間では話の内容が分かっているらしく、そんな会話を交わしている。
首を傾げていれば、向かいのソファーにユリウスが腰掛けた。
「任されていたランドルフ・レイウッドの件なのですが、自供が取れました」
ユリウスの話はこういう内容だった。
ランドルフはわたしに貢いでいた男性の一人で、男爵家の次男である。
裕福というほどではないが、男爵家の中ではそれなりに金のある家で、ランドルフはずっとわたしに金を貢いできた。最も多く貢げば、わたしと結婚できると本気で信じていたそうだ。
金を渡す度、高価な品を渡す度、わたしの愛情は深まっていると考えていた。
ところが、わたしがレオンハルト様と結婚してしまった。
それでもランドルフはわたしを諦めきれなかった。
どうすれば自分のものにできるか悩んでいたところに、ナタリアが声をかけてきたらしい。
『公爵とお姉様を離縁させてしまえば、あなたとお姉様は結婚できるわ』
そう、ナタリアはランドルフに囁いたそうだ。
わたしを誘拐し、人質にしてレオンハルト様に離縁届を書くように迫った。
「ナタリア・ヴァンデールの狙いは公爵夫人の座だったようだ」
ナタリアは自分との婚姻届も書けと言ったそうだ。
もし書かなければ、わたしを襲わせるというようなことも言っていたのだとか。
レオンハルト様はそれに従ったが、実は署名をわざと普段と違う書き方をしたそうだ。王太子殿下はそれにすぐに気付き、離縁届と婚姻届は握り潰されたようだ。
ランドルフはナタリアのほうが上手くいったと連絡がきたら、わたしを自分のものにするつもりだった。
だが、それよりも先にレオンハルト様がわたしの居場所を察知して、救出に来てくれた。
ランドルフとナタリアの企みはそういうわけで潰えたのだった。
「愚かなことですね」
「そうだな」
「もし父上が母上と離縁したとしても、他の誰かともう一度結婚するなんてありえません。もしもその伯爵令嬢が公爵夫人になれたとしても、すぐに病死しますよ」
「ああ、分かっているじゃないか」
ユリウスとレオンハルト様が笑って言う。
……病死って……。
レオンハルト様がわたしを抱き寄せ、額にキスされた。
「ともかく、エリシアほど愛おしい女性は他にいないさ」
「レオンハルト様……」
照れてしまうわたしにレオンハルト様がおかしそうに笑う。
ユリウスが少し呆れた顔をしていた。
「それで、父上のほう……ヴァンデール伯爵家はいかがでしたか?」
チラリとレオンハルト様がこちらを見たので頷き返せば、視線がユリウスに戻る。
「ランドルフ・レイウッドから聞き出した情報とそれほど差異はない。ナタリア・ヴァンデールはヴァンデール伯爵から計画を聞き、ランドルフ・レイウッドに協力者のふりをして近づいたが、実際はナタリア・ヴァンデールを公爵夫人に据えてエリシアを取り戻そうと考えていたようだ」
「……まさか、今更になって母上が惜しくなったと?」
「そのようだ。公爵家に嫁いだのに金を送って寄越さないエリシアに腹を立てていたらしい。それならば、ナタリア・ヴァンデールを公爵夫人に据え直し、また男達に金を貢がせるためにエリシアを戻したかったそうだ」
……やっぱり、わたしは伯爵家にとってはただの道具なのね……。
目を伏せれば、レオンハルト様に手を握られる。
大丈夫だと微笑み、その手をわたしも握り返す。
「父達はどうしておりますか?」
「王城の地下牢に入れられている」
「まあ、地下牢に? 貴族牢ではなく?」
「アレクセイを怒らせたからな。私でも、あいつだけは怒らせたくない。……君に会わせろと毎日騒いでいるそうだ。何を考えているのか分からないが、アレクセイからの手紙によると『君が自分達を許して、減刑を願い出れば釈放される』と思っているようだ」
それに思わず黙ってしまう。
「だが、君が彼らを許したとしても、王家は許さない。王国の剣たる公爵家の者を傷付け、脅し、王族に提出する書類を偽造した。王家が認めた婚姻を崩そうとしたことも、反意と取られても仕方がない」
「そう、ですよね……」
わたしがどうこうしたとしても、何かが変わるわけではない。
悲しい気持ちがある反面、どこかホッとしていた。
わたしの言動にもし彼らの命運がかかっていたとしたらと思うと苦しかったが、そうではないと分かって──……薄情かもしれないが安堵した。もう、関わりたくなかった。
「ですが、罪に問われるとなれば伯爵家の存続も危ぶまれるでしょう……私は罪人の娘となりますし、王家派と貴族派の婚姻も無意味になってしまうのでは……?」
ヴァンデール伯爵家は元々『貴族派の有力家だったから』アルヴィス公爵家との婚姻の話が出た。
しかし、家が潰れるか、爵位が下がるが──……そうでなくても社交界での影響力は失うだろう。
レオンハルト様とわたしの婚姻を継続する理由がなくなってしまう。
「心配せずとも、君と私の婚姻はこのままだ。まだ公にはしていないが、フェネオン侯爵家が君を養女として受け入れると言ってくれている」
「フェネオン侯爵家が……?」
「ああ、私は君と別れたくない。だから貴族派の最有力家であるフェネオン侯爵家に事情を全て説明して『エリシアを侯爵籍に入れてもらえないか』と打診をしたら、侯爵夫妻は快く受け入れてくれた」
レオンハルト様の顔をつい、まじまじと見つめてしまう。
……こんな、わたしに都合の良いことってあるのかしら……?
たとえヴァンデール伯爵家出身だとしても、まだ伯爵家の罪状は裁判前なので確定していない。
現状でフェネオン侯爵家に籍を移せば、わたしは侯爵家の者となる上に『王家派と貴族派の婚姻』という王家の意向も問題なく叶えられる。
お茶会に招いてくれたフェネオン侯爵夫人の穏やかな姿を思い出し、視界が滲む。
毒婦として過ごしていた時に何度も迷惑をかけてしまったというのに、それでも、手を差し伸べてくれる侯爵夫人と侯爵家の優しさと懐の広さに、言葉にできないほどの感謝の気持ちがあふれてくる。
「実はバルフェット侯爵家からも養子縁組の打診はあったんだが、あそこは王家派だからな」
「どうしてバルフェット侯爵家から打診が……?」
「令嬢が君に呪いをかけた件を気にしているのだろう」
レオンハルト様の言葉に、なるほど、と思う。
「まあ、それについては『貸し』にしておこう。いつか、何かあった時に返して貰えばいい」
愉快そうにレオンハルト様が口角を引き上げる。
その悪そうな笑みにユリウスが小さく笑った。
「バルフェット侯爵家は苦労しそうですね」
「何、大したことはないさ。もしもエリシアと私の婚姻について王家派でとやかく言う者がいれば、バルフェット侯爵家の協力のもと、説得するというだけの話だ」
……王家派貴族の二大勢力に睨まれたらひとたまりもないわね。
けれども、とても心強い味方だと思う。
わたしも小さく笑えば、レオンハルト様に問われる。
「エリシア、フェネオン侯爵家の養女になる件は進めてもいいか?」
それにわたしは頷いた。
「はい、お願いいたします」
「分かった。……それと、ヴァンデール伯爵家と面会することも可能だが……」
「会いに行きます」
わたしが即答したからか、レオンハルト様がちょっと驚いた顔をする。
「罪を犯したことは事実ですから、父達の減刑を願うつもりはありません。……これまでのことを考えれば、わたしも、もう家族の情というものは消えてしまいました」
良いように使われ、道具扱いされ、誘拐された挙句に男に襲わせようとした。
……あまりに酷すぎるわ。
貴族の令嬢は両親に従うのが当然だとしても、限度がある。
「本当は関わりたくないという気持ちも強いですが、それでも、このままではいけないんです」
今のままでは彼らの中の『エリシア・ヴァンデールは道具』という認識は消えない。
どんなに会うのが嫌でも、つらくても、苦しくても──……怖くても、行かなければ。
「行って、父達に『わたしはもうあなた達の命令には従わない』と伝えなければ」
……なんだか、変な話よね。
現代の記憶を取り戻して、女性向け小説の中に転生していると気付いて。
義理の息子に殺されたくないと思って。
小さくなったのを利用して、でも、幼くなったわたしにユリウスもレオンハルト様も優しくて。
公爵家で過ごす日々があまりに楽しくて、幸せで、穏やかで、途中から原作のことなんて気にならなくなるくらい、ここでの生活は心地が良かった。
……多分、わたしはもうユリウスに殺されることはない。
ユリウスとも、レオンハルト様とも、良好な関係を築けている。
たとえユリウスがヒロイン・リリエットと親しくなったとしても、わたしは手を出すことはない。
「これからはアルヴィス公爵家の一員として、生きたいから……前に進みたいんです」
まっすぐにレオンハルト様を見れば、優しく赤い瞳が細められる。
嬉しそうに、幸せそうにレオンハルト様が微笑んだ。
「君は私の妻で、公爵家の一員だ」
「はい」
「そしてユリウスの母親でもある」
「はい」
レオンハルト様が繋がっているわたしの手にキスをした。
「伯爵家との面会、私も共に行こう」
それはレオンハルト様なりの気遣いなのだろう。
それが嬉しくて、わたしも微笑んだ。
「ありがとうございます、レオンハルト様」
* * * * *
そして数日後、わたしとレオンハルト様は王城に向かった。
父達との面会は王太子殿下が許可してくださったという。
馬車が王城に着くと騎士が待っており、その案内で地下に下りていく。
地下に進んでいくと段々と空気がじっとりと湿り、日が差さず、暗くなっていく。
騎士がランタンを持って足元を照らしてくれているが、歩きにくい。
「エリシア、手を」
見かねたのかレオンハルト様が先導してくれた。
窓もない地下牢の、鉄格子の扉を抜けて歩いていくと声が聞こえてくる。
反響して聞き取りにくいけれど、若い女性の──……ナタリアの声だと分かった瞬間、足が止まった。
その声の後に男性の声もして、そちらは父だと気が付いた。
まだ声しか聞こえないのに体が緊張と恐怖で強張る。
……怖がっていてはダメ。決別するって決めたのだから。
顔を上げれば心配そうに見つめてくるレオンハルト様と目が合った。
……わたしの新しい家族。大切な、愛おしい人。
この人がそばにいてくれるなら、怖いことなんてきっとありはしない。
レオンハルト様に頷き返し、足を踏み出す。
いつまでも気弱で従順なエリシアでいては、またレオンハルト様やユリウスに迷惑をかけてしまうし、公爵夫人として生きていくなら『毒婦のエリシア』くらい堂々としていなければ。
地下牢の前に辿り着けば、父とナタリアの「エリシア!」「お姉様!?」という声が重なった。
「……お久しぶりです、お父様、ナタリア」
伯爵夫人がいるであろう牢は静かなものだった。
王太子殿下からレオンハルト様に送られてきた手紙によると、地下牢という環境と連日の取り調べ、貴族裁判にかけられるという決定を聞いて、伯爵夫人は魂が抜けたように大人しくなってしまったそうだ。
……もしかしたら、わたしが思うより弱い人だったのかもしれない。
それに伯爵と男爵夫人の娘より、伯爵家同士の娘であったわたしのほうが家を継ぐ血筋として相応しいと分かっていたからこそ、何とかわたしを格下にしてナタリアの立場を守りたかったという可能性もある。
わたしの母の生家はあまり裕福ではなく、政略結婚によりヴァンデール伯爵家の支援を期待していたのに、母が死んでしまったことで支援も打ち切られてわたしのことなど気にする余裕もなかったのだろう。
思えば、母の実家からは手紙ひとつ届いたことがなかった。
だからこそ以前のエリシアは逃げ道がなく、伯爵家にいるしかなかった。




