脱出
髪が軽く巻き上げられ、薄暗い部屋の中、壁の高い位置にある細い小窓から差し込む月光に照らされて、目の前に『黒』が現れた。
漆黒の、大きな体の──……影の形から犬か狼のような生き物だと分かった。
不思議と恐怖は湧いてこない。
その漆黒の生き物の目は、わたしの望んでいた人と同じ色をしていたから。
漆黒の生き物がこちらに近づき、鼻先を寄せてくる。
どこか気遣うような仕草に、漆黒に、赤い瞳に、頭の中に浮かんだのは一人だけだった。
「……もしかして、レオンハルト様なのですか……?」
そっと小さな声で問えば、鼻先が押しつけられる。
【……ああ、そうだ】
短いけれど、くぐもっているけれど、確かにレオンハルト様の声だった。
「っ……!」
漆黒の生き物に抱き着いても体温は感じられないが、それでも酷く安心した。
涙がこぼれ、漆黒の生き物の毛並みを濡らしていく。
漆黒の生き物が気遣うように身を寄せてくる。
……たとえ姿が違っても、優しいところは変わらない。
ここから出たい。会いたい。公爵家に帰りたい。
「……レオンハルト様、助けて……っ」
何とか出た声に、漆黒の生き物が顔を寄せてくる。
【エリシア、今、行く】
その言葉のすぐ後に漆黒の生き物の姿が揺らぎ、力強い腕に抱き締められた。
わたしが望んでいた、大きな手に引き寄せられる。
わたしも躊躇いなく腕を回した。
「レオンハルト様……!」
「エリシア……!」
互いに強く抱き締め合う。少し息苦しいけれど、それすら愛おしい。
「すまなかった、エリシア……」
「いいえ、わたしこそ……」
少し体を離したレオンハルト様は驚いた表情をして、頬を染めると羽織っていたマントを脱いでわたしを包んだ。
両腕を回したせいでボロボロの布が落ちかけていたらしい。
それに気付くと途端に恥ずかしくてマントの前を握って体を隠す。
「ご、ごめんなさい……! 縄から抜け出すために、一度小さくなったので……」
「ああ、そういうことか。……怪我はないか?」
「ありませんが……あの、離縁届は──……」
「心配することはない。アレクセイが上手くやってくれる」
……王太子殿下が? どういうこと?
首を傾げているともう一度レオンハルト様に抱き締められた。
「君が無事で良かった……」
心の底から安堵した声に、わたしもまた涙があふれ出す。
しかし、ここでいつまでも泣いているわけにはいかない。
涙を拭い、顔を上げる。
「レオンハルト様、帰りたいです」
「ああ、帰ろう、エリシア。……私達の家に」
レオンハルト様がわたしの額にキスをする。
埃と砂とで汚れてしまっているのに、全く気にしていないようだ。
そのままレオンハルト様に抱き上げられ、とっさにその首に手を回してしまった。
「しっかり掴まっていろ」
レオンハルト様が何事かを呟くと、あの漆黒の生き物が三匹ほど出てくる。
そのせいで狭い部屋の中が尚更、狭く感じる。
「あ、あの、わたしを攫った犯人は……」
「その話は後でいい。この屋敷にいる者は全員、捕縛する」
レオンハルト様が漆黒の生き物達に「行け」と命じる。
すると、漆黒の生き物の一匹が扉に向かって突進した。
バキッと派手な音を立てて扉が砕け散り、廊下にいた見張りだろう体格の良い男達がギョッとした様子で振り返った。
「な、なんだっ!?」
「狼っ!? なんでこんなところに……!?」
と、慌てたが、漆黒の生き物──……狼達が男達に襲いかかる。
凄惨な光景になるかと思ったが、悲鳴のわりに流血していないことに驚いた。
目を丸くしている間に、レオンハルト様がわたしを抱えて廊下に出る。
すぐに「くそっ、誰だ!?」「女を逃すな!!」という声が響く。
足元の男達から、声のしたほうに狼達が飛びかかっていった。
悲鳴に体が竦むとレオンハルト様が「大丈夫だ」とわたしをギュッと抱き締めてくれる。
「狼達は私の黒魔術の一部だ。影だから物理的な傷はつけられないが、代わりに神経に作用する」
「えっと、つまり……?」
「あの狼達の攻撃を受けると怪我はしないが、激痛を感じる」
……それはそれでとても恐ろしいのでは……?
そして、何故レオンハルト様達が恐れられているのか理解した。
怪我はないのに痛みを感じるという状況は、きっと受けた側は理解ができず、痛みと恐怖だけが刻みつけられる。あの狼達も近くで見たらなかなかに迫力があり、あれに噛まれたり引っ掻かれたりするだけでも相当なトラウマになりそうだ。
不安そうに赤い瞳に見つめられ、レオンハルト様に身を寄せる。
「あの狼はレオンハルト様の一部だから、怖くなかったんですね」
優しく寄せられた鼻先の気遣う仕草は控えめで。
だから、最初から怖いという気持ちはなかった。
レオンハルト様が嬉しそうにわたしの額にまたキスをした。
そして、狼達に戦闘を任せ、レオンハルト様はわたしを抱えて廊下を進む。
どこかの──……恐らくレイウッド男爵家の屋敷の一角なのだろう。
警備の者達にしてはどこか人相の悪い男達が次から次へと現れるものの、狼達の前では成す術もなく倒されていく。
狼達は黒魔術の一部というだけあって実体がないのか、剣で切り裂かれても槍で突かれても、全く動揺した様子がなく、動きも止まらない。攻撃が通用していないらしい。
「なっ、ア、アルヴィス公爵!? 何故ここに……!?」
その声にハッと体が強張る。
レオンハルト様が振り向き、低く唸った。
「なるほど、ランドルフ・レイウッドか」
レオンハルト様に名前を言い当てられ、ランドルフが眉根を寄せた。
「エリシアをどこに連れていく気だ!!」
「どこも何も、私の妻を連れ帰って何が悪い」
「妻だと? 離縁したくせにエリシアを手放さないつもりか!!」
激昂するランドルフにレオンハルト様が鬱陶しそうに目を細める。
「全て計画を知った上での共謀か。……やれ」
レオンハルト様が雑に顎で示すと、狼がランドルフに襲いかかった。
「何を……っ、ひぃっ、やめっ!?」
ランドルフは狼に押し倒され、腕に噛みつかれて悲鳴を上げる。
他の狼達まで戻ってきて、ランドルフの足をそれぞれが噛み、身動きできないようにしている。
レオンハルト様は不愉快そうな表情のまま、背を向けた。
「……お前達、好きに遊べ」
それに狼達が嬉しそうにアォーンと遠吠えで返事をした。
廊下を進み、屋敷の玄関まで向かえば外から扉が勢いよく開かれた。
そこには公爵家の騎士達を連れたユリウスが立っていた。
「エリシア!! 父上!!」
ユリウスが慌てて駆け寄ってくる。
騎士達も屋敷の中に入り、男爵家の使用人や警備の者達を捕縛していった。
レオンハルト様がユリウスに「馬車で」と短く言えば、ユリウスも何かに気付いた様子で頷いた。
建物の外に出るとレオンハルト様が騎士の一人に声をかけ、騎士団長に指揮を任せてから、停められた馬車に三人で乗り込む。
ユリウスが扉とカーテンを閉め、座席に下されたわたしに抱き着いた。
「エリシア……!! 無事で良かった……!!」
ギュウギュウと抱き着かれて少し痛いが、それくらい心配してくれたのだと思うと嬉しい。
「ユリウス、心配をかけてごめんなさい」
「エリシアが謝ることじゃない! 悪いのは誘拐犯だ!」
「その通りだ。今頃は王城でもヴァンデール伯爵家が全員捕まっているだろう」
レオンハルト様の言葉に「やっぱり……」と呟きが漏れた。
分かっていても、落ち込んでしまう。
……本当に伯爵家にとってエリシアは道具だったのね……。
何をしてもいいと、どんな扱いをしても構わないと、そう思われていた。
悲しくて、悔しくて、つらくて、苦しくて、涙がこぼれ落ちる。
けれども、両手に温もりを感じた。
顔を上げれば、レオンハルト様とユリウスが心配そうに眉尻を下げてわたしを見つめている。
「エリシア、気にすることはない。君はもう、伯爵家の人間ではないのだから」
「そうだよ、エリシアは公爵家の人間なんだから」
二人の言葉が優しくて、温かくて、別の意味で涙が流れる。
「ありがとう、ございます……」
二人の手を握り返し、笑う。
伯爵家にエリシアの居場所はなかったけれど、もう違う。
レオンハルト様とユリウスがいて、公爵家にわたしの居場所がある。
……エリシア、あなたの苦しみは無駄ではなかったわ。
人生の苦楽の割合は同じだと、現代で、誰かが言っていた。
エリシアの人生が苦しい時間ばかりだったなら、きっと、これからは幸せな時間が沢山訪れる。
時にはまたつらいこともあるだろう。悲しいこともあるだろう。
それでも、きっと家族がいてくれたら頑張れる。
愛しい人がそばにいてくれるなら、また立ち上がれる。
「……レオンハルト様、愛しています……」
わたしの言葉にレオンハルト様が嬉しそうに微笑んだ。
「私も、君を愛している」
そっとレオンハルト様の手が頬に触れた。
ランドルフに触れられた時のような不快感も、嫌悪感もなかった。
目を閉じれば唇に柔らかな感触が触れて、幸せな気持ちで胸がいっぱいになる。
名残惜しそうにレオンハルト様の唇が離れ、照れた表情で微笑み返される。
わたしも微笑み、レオンハルト様の頬に手を伸ばした。
「ごほん!」
ユリウスがわざとらしい咳払い──……というより、言葉で遮った。
「父上……っ、は、母上も、僕の前でそういうのは少し控えてください」
その言葉に驚き、思わずユリウスを見た。
「は、母と……そう呼んでくれるの?」
思わず言葉遣いも忘れて訊けば、ユリウスが視線を逸らし、照れた顔で頷いた。
「エリシアは父上の妻で、公爵夫人なんだから、僕の母上でしょう」
「ユリウス……!」
「わっ!?」
嬉しくてユリウスをギュッと抱き締める。
「ありがとう、ユリウス……! 認めてくれて、ありがとう……!」
また涙がこぼれ、ユリウスが「母上は泣き虫だなあ」と小さく笑う。
それにレオンハルト様も「そうだな」と微笑んだ。
わたしの幸せは確かに、ここにあった。
* * * * *
「父上、その……は、母上はいかがでしたか?」
まだエリシアを母と呼ぶのに慣れない様子で、息子が近づいてくる。
エリシアは入浴後、医者に診察させたが大きな怪我はなく──ただし、顎を強く掴まれたのか少し痣があった──、疲れただろうからとレオンハルトはエリシアが眠るまでそばについて見守っていた。
「大丈夫だ。今は眠っている。……だが、顎に痣ができてしまっていた」
「顎……誰かが母上の顔を掴んだということですか?」
「ああ、そうだ。……痣ができるほど強い力で、無理やりな」
レオンハルトと息子は黙った。共に怒りが湧き上がっているのを感じる。
「レイウッド男爵家の者は使用人も含めて全員、捕縛してあります」
「使用人はどうでもいいが──……ユリウス、丁度良い機会だ。お前もそろそろ尋問の練習をするといい。今回、エリシアを攫った男をお前に任せよう」
「本当ですか?」
「アレクセイから許可は得ている。だが、壊すなよ。最終的には法に則った処罰を受けさせなければならない」
「分かりました」
息子の表情が少しばかり明るくなる。
エリシアが攫われたと影で伝えた後、息子の戸惑う気配と返事を影から感じていた。
レオンハルトと同様に息子もまた、エリシアを心配していたのだろう。
……母と認めるほど、ユリウスにとってエリシアの存在は大きくなった。
ユリウスもまた、レオンハルトと同様に攻撃に特化した黒魔術の才能を持っている。
まだレオンハルトほどではないが、それでも、並みの魔術師相手ならば負けない程度には強い。
最近は影の扱いにも慣れてきたそうなので、良い機会だった。
……それに、獲物を私だけが独占すればユリウスは不満だろう。
誘拐の実行犯であるランドルフ・レイウッドを与えておけば、少しは苛立ちも落ち着くはずだ。
「レイウッド男爵家のランドルフが誘拐の実行犯だ。丁重にもてなしてやれ」
「はい、もちろんです、父上」
と、頷き、息子は足取り軽く離れていった。
恐らくすぐにでもランドルフ・レイウッドと遊んでくるつもりなのだろう。
息子は訓練をしたことがあっても、本物の人間相手に尋問をするのは初めてである。
……ユリウスの性格上、恐れることはないと思うが。
レオンハルトに容姿も性格も似ているし、これまでの訓練でも問題はなかったので、今回も上手くやるだろう。それに不満はある程度発散させたほうがいい。
レオンハルトもこれから、王城に戻る予定だ。
既に捕縛されているだろうヴァンデール伯爵家。こちらはレオンハルトの獲物だ。
今、エリシアは疲れてよく眠っている。
少なくとも、明日の朝まで起きることはないだろう。
影を使い、侍従に王城へ出かける旨を伝える。
察しの良い侍従なら、それだけで理解するだろう。
一度だけ振り返り、エリシアの寝室の扉を見やる。
「……エリシア、もう心配は要らない」
これまでエリシアを苦しめてきた伯爵家も、これで終わりだ。
レオンハルトは正面に顔を戻し、今度こそ王城に向かうために歩き出したのだった。
* * * * *
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