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夜会(3)/ 暗闇の中で




 けれども、疑り深いアレクセイはすぐに手を伸ばさなかった。


 伯爵令嬢の手元の書類を見て、アレクセイが訊き返す。




「これは?」


「レオンハルト様とお姉様の離縁届と、私とレオンハルト様の婚姻届でございます」




 伯爵令嬢の言葉に一気にざわめきが広まった。




「おかしいね。レオンハルトは夫人──……君の姉と婚姻したばかりと記憶しているが?」


「はい。……ですが、姉は社交界での噂の通り、少々奔放な性格をしております。レオンハルト様もそれに悩まされていたそうで、先ほど話し合いをした結果、姉ではなく私との婚姻を望んでいただきました」


「ふぅん?」




 アレクセイの視線が向けられ、レオンハルトはそれを見返した。


 それから、アレクセイが書類を受け取る。


 伯爵令嬢が嬉しそうに微笑む。


 しかし、アレクセイが「おや」とわざとらしく驚いた表情をする。




「残念だけど、この書類は受け取れない」




 伯爵令嬢が「え?」と固まった。


 ほぼ同時に遠くで己の黒魔術が発動する感覚を覚え、レオンハルトはハッと顔を上げた。


 ……エリシアが私の名前を呼んだ……!


 瞬間、頭の中にエリシアの居場所と声が聞こえてくる。




【……もしかして、レオンハルト様なのですか……?】




 エリシアの声に歓喜と不安が同時に押し寄せる。




「【ああ、そうだ】」




 突然喋り出したレオンハルトに伯爵令嬢が訝しげな顔をする。


 レオンハルトはいまだ腕に張りついている不愉快な存在に気付き、腕を払った。


「きゃっ!?」と伯爵令嬢が数歩、後ろに下がった。


 意識を向こう・・・に向けたまま、レオンハルトは言う。




「妻が攫われた。誘拐犯とその女は共謀し、自分と婚姻しないと妻を害すると脅してきた。控え室に妻の侍女も捕まっている」


「なっ、何を言って……っ!?」


「なるほど」




 驚愕の表情を浮かべた伯爵令嬢と、納得した様子のアレクセイを視界の端に映しつつ、レオンハルトは向こう(・・・)に話しかける。




「【エリシア、今、行く】」




 一瞬だけレオンハルトは意識をこちらに戻した。


 その意図に気付いたアレクセイが口角を引き上げる。




「仕方ない、これらは任せるが……」




 レオンハルトは伯爵令嬢に視線を向けた。




「……簡単に殺すなよ」




 そうして、レオンハルトの足元に黒い影溜まりが生まれ、そこから二匹の狼が姿を現した。


 漆黒の毛並みに赤い瞳を持つ、鋭い顔付きの狼達に伯爵令嬢が「ヒッ」と後退る。


 その声を後ろで聞きながら、レオンハルトは己の操る影に沈んでいった。






* * * * *





 トプン、と粘性のある液体のような音が静まり返った夜会に微かに響く。


 レオンハルトは消えたものの、彼が生み出した狼が二匹、この場に残っている。


 ジリジリと狼達が伯爵令嬢ににじり寄っていく。




「な、何なのこれっ!? 来ないで!!」




 アルヴィス公爵家は代々、攻撃に特化した黒魔術の使い手であるが、レオンハルトはその中でも更に特殊な魔術を使用する。


 それがこの『影』だ。


 本来は相手を拘束するためのつたのようなものが出てくる魔術だが、レオンハルトは影と相性が良く、自在に影の形を変え、操ることができた。しかも影同士を繋げれば、影同士で短いやり取りを交わせる上に、彼だけならば影間での移動も可能だった。


 この能力は戦中、非常に役立った。


 情報収集も、伝令も、押されている箇所への応援も、レオンハルトのみで事足りてしまう。


 戦争で重要な『戦況の把握』と『情報伝達の速度』を影で行い、押し負けかけている場所があれば、レオンハルトが影を通して赴き、自身と生み出した複数の影の狼で敵兵を混乱に落とす。その間に味方が態勢を立て直し、巻き返す。


 戦場でこれほど頼もしい味方は他にいないだろう。


 だからこそ、アレクセイは理解した。


 公爵家という立場を与え、王家に絶対の忠誠を誓わせる理由を。


 ……それにしても、愚かなことだ。




「この書類に書かれているレオンハルトの署名は偽造されたものだ」




 伯爵令嬢は訳が分からないという顔をする。




「レオンハルトの筆跡によく似ているが、違う」


「そ、そんな、ありえない……っ」


「まさか、ヴァンデール伯爵家が王族をたばかろうとするとは残念だ」




 アレクセイは手の中にある書類をもう一度、見下ろした。


 そこには確かに『レオンハルト・アルヴィス』と書かれているが、普段のレオンハルトが使う署名とは僅かに異なっていた。ほんの僅かな違いだが、頻繁に手紙のやり取りをしてレオンハルトの署名を見慣れたアレクセイには即座にその違いが分かった。


 ……まさか、本人が署名の偽装を装うとはね。


 他人が誰かの署名を偽装するということはあっても、本人が署名を偽装するとは面白い。


 狼達が低く唸り、アレクセイに催促する。




「ああ、そうだった。……レオンハルト、やっていいよ」




 その瞬間、二匹の狼が伯爵令嬢に襲いかかる。


 漆黒の狼達が伯爵令嬢を押し倒し、甲高い悲鳴を上げる令嬢の腕や足に噛みついた。




「いやぁああああああっ!? 痛いっ、痛いぃいいっ!!」




 だが、狼達が噛みついても伯爵令嬢の体から血が流れることはない。


 ……本当に、何度見ても恐ろしいね。


 狼達は『影』であり、服や肌を傷付けることはないが、噛みつかれると激痛を感じるのだ。


 狼達に噛まれ、踏まれ、伯爵令嬢が床を転げ回り、悲鳴を上げる。


 先の戦争で最も恐れられた、レオンハルトの黒魔術。


 身体的な傷はないのに激痛を感じ、狼達に際限なく襲われ続ける。


 敵軍の兵の中には精神を病んでしまった者も少なくない。


 貴族達を掻き分け、男と女が慌てた様子で出てくる。ヴァンデール伯爵夫妻であった。


 狼達に襲われる娘を見ながらも、恐ろしいのか近づくこともできないようだった。




「で、殿下っ、どうかあの狼をお鎮めください……!!」


「娘が殿下を謀るなど、な、何かの間違いでございます……!!」




 こちらに駆け寄り、膝をついて懇願するヴァンデール伯爵夫妻にアレクセイは困り顔をした。




「そう言われても、あれはレオンハルト──……アルヴィス公爵の魔術で、僕にはどうしようもない。命令しようにも当のアルヴィス公爵がここにいないからね」




 本当はあの狼を通してこちらの状況をレオンハルトも知覚しているはずだが、それをヴァンデール伯爵夫妻に教える必要はない。


 狼達に襲われる娘とアレクセイを交互に見る伯爵夫妻、悲鳴を上げて転がり回る伯爵令嬢。


 ……レオンハルトの怒りは買いたくないし。


 アレクセイはとりあえず他の者が狼達に近づかないように囲むよう、そして王城から誰一人として出さないように、騎士達に命じたのだった。






* * * * *






 何かが鼻をくすぐる感覚にクシャミが出た。


 それで目を覚まして、自分が床に倒れていることに気が付いた。


 ……う、埃っぽい……。


 もう一度クシャミをしながら起き上がろうとしたものの、体が縛られている。


 それを見て、やっと意識を失う前のことを思い出した。


 王城のメイドが誰かと協力して、わたしを攫ったのだ。


 わたしを攫おうとした人物の顔は見ていないが、声を覚えている。


 その人物はわたしが以前、付き合って貢がせていた男性の一人である。


 ……恨みなら十分に買っているわ。


 散々金を積ませておいて他の男性と結婚したのだから、恨まれるのは当然だろう。


 何とか起き上がり、辺りを見回すと薄暗く狭い部屋の中にいた。


 倉庫代わりに使われているらしく、埃っぽく、空気もよどんでいる。


 攫われてからどれくらい経ったのかは知らないが、きっとレオンハルト様やユリウスに心配をかけてしまっていることだろう。


 それに倒れていた侍女のことが心配だった。


 ……酷い怪我をしていないといいのだけれど……。


 改めて周りを確認してみるが、近くには大きな古い木箱がいくつも置かれているだけだ。


 せめて縄を何とかしないと。木箱の角に縄を擦りつけると、中身が空だったのかズズズ……ッと木箱が動く。


 その音に反応して扉の外から人の話し声のようなものが微かに聞こえた。


 思わず体が硬直したが、扉が開かれることはなかった。


 それにホッと小さく息を吐く。


 ……ここはどこかしら……?


 王城の中にこのように埃っぽい場所があるとは考えにくいので、恐らく運び出されたのだろう。


 床に転がっていたせいで体の右半分は埃っぽいし、砂っぽいしで最悪である。


 せっかくレオンハルト様と揃えたドレスなのに汚れてしまった。


 もう一度溜め息を吐いていると、部屋の外に足音が近づく。


 それから、ガチャリと扉が開けられた。


 ランタンを手に持った貴族風の男が入ってくる。


 少し癖のある銀髪に紫の瞳をしたその男性──……ランドルフ・レイウッドが小さく笑った。




「手荒な真似をして悪いな、エリシア」




 親しげに名前を呼ばれ、わたしは黙った。


 ランドルフは貢がせていた男性達の中でも、特にエリシアに傾倒しており、常に他の男性と競い合うように金品を贈ってきた。恐らく、多く貢げば結婚できると思っていたのだろう。


 しかし、父は最初からランドルフにわたしを嫁がせるつもりはなかった。


 ランドルフは男爵家だが、さほど裕福ではないため、お金を欲しがっている父は相手にもしない。


 きっとランドルフは必死になってエリシアに金を貢いだ。


 自分こそが結婚できると信じていた。


 だが、エリシアはあっさりアルヴィス公爵と結婚した。




「なあ、エリシア。公爵と結婚するなんて酷いじゃないか……」




 ランドルフがゆっくりと近づいてくる。




「俺はこんなにも君を愛して、尽くして、そばにいたのに。……ああ、でも、結婚は王家の意向でしたんだったよな。それじゃあエリシアでは断れないか……」




 そばに来たランドルフが屈み、顔を覗き込んでくる。


 睨みつければ嬉しそうにランドルフが口角を引き上げた。




「ああ……! エリシア、そうだ! 君はそうでなくちゃ! 気高く、傲慢で、誰のものにもならない! 棘のある美しい薔薇、簡単には手折れない花、社交界の毒婦とは君のことだ!」




 伸びてきた手がわたしの頬に触れようとしたので顔を背ける。


 ……レオンハルト様以外に触られたくない。


 瞬間、ガッと顎を掴まれ、無理やり顔を正面に戻される。


 痛みと不快感とで眉根を寄せ、ランドルフを見れば、恍惚の表情を浮かべていた。




「そんな君を、やっと手に入れることができる……!」


「……あなたはこんなことをする人じゃなかったわ。一体、誰が……」




 そこまで言いかけて、ハッとする。


 わたしを公爵夫人の座から引きずり下ろしたいと思っている人間は多いだろう。


 だが、エリシア・ヴァンデールの交友関係を正確に把握しているのは伯爵家だけだ。




「──……まさか、ヴァンデール伯爵家が……?」




 わたしの言葉にランドルフが頷いた。




「そうさ。君の妹は話の分かる、良い子だな。俺こそが君に相応しいと、君を取り戻すために協力すると申し出てくれたのさ。公爵と君の結婚は正しくない。正すためには、美しくはないが武力が必要なこともある」




 まるで歌うようにランドルフが言う。


 それに頭を殴られたような衝撃を受けた。


 ……伯爵家はそこまでして、わたしに金を稼がせたいの……?




「今頃、公爵は離縁届を出して、君の妹との婚姻届を出しているだろう」


「どういうこと……?」


「君が公爵夫人のままでは俺と結婚できないからさ! だが、アルヴィス公爵家とヴァンデール伯爵家の婚姻は王家ののぞみ。しかし明確に名前が挙げられていたわけではない。それならば君の妹、ナタリア嬢でもいいというわけだ」




 わたしの顎から手を離し、ランドルフが立ち上がる。




「離縁届が提出されれば、君を俺のものにできる。ああ、人生で最高に素晴らしい夜になりそうだ!」




 ははははっ、と笑ってランドルフが扉に向かって歩いていく。


 その背中を呆然と見つめることしかできなかった。


 ……わたしとレオンハルト様が離縁するなんて、ありえない……。


 けれども、振り返ったランドルフがニヤリと口角を引き上げる。




「ナタリア嬢からも『花を散らすよう』頼まれているからな」




 その言葉の意味を即座に理解してゾッとする。


 震えるわたしにウインクをして、ランドルフは部屋から出ていった。


 無情にも閉まった扉からガチャンと鍵をかける音が響く。


 ……離縁届……いいえ、ナタリアとレオンハルト様の婚姻こそ、ありえないわ……。


 わたし達は確かに、互いを想い合っているはずなのだから。


 そしてレオンハルト様はヴァンデール伯爵家の者を嫌っている。


 だから、そんなことはありえない。


 ありえないと分かっているのに、視界が滲む。


 震える体を抱き締めても、ここは寒くて、怖くて……伯爵家での日々を思い出してしまう。


 暴力も、罵声も、冷たい視線も、相手にされないことも、全てがつらかった。


 それよりもつらいことがこれから待ち受けているのだろうか。


 ……ここから逃げなくちゃ。


 まずはこの縄をどうにかしないといけない。


 だが、ここには刃物になりそうなものは見当たらない。


 せめてもう少し緩く縛られていたらまだ動けるのだろうが──……。


 ……待って……そうよ、わたしならあれができるじゃない!


 縄を切ることはできないけれど、縄抜けだけならきっとできる。


 ……お願い、小さくなって……!


 目を閉じて強く念じれば、何かに体が包まれる感覚がして、拘束感が消える。


 そっと目を開けると望んだ通りに小さな体になっていた。


 慌てて縄から抜け出したが、ドレスは縄と絡まっていて回収できそうにない。


 木箱にかけられていた埃っぽいボロボロの布をとりあえず体に巻きつけ、元に戻るよう念じた。


 すぐに体が大人に戻ったものの、ドレスは一人で着られるものではないから、脱出するとしてもここに残していくことになるだろう。レオンハルト様と揃いの衣装なのでとても悔しい。


 そっと扉に近づいてみたが、外から人の話し声がする。


 恐らく見張りがいるのだろう。


 ……窓も高すぎて届かないわね……。


 他に出られそうな場所もなく、脱出は難しそうだ。


 目を閉じれば、レオンハルト様のあの大きな手の感触も、名前を呼んでくれる声も、優しい赤い瞳も簡単に瞼の裏に浮かぶ。今すぐ抱き締めてほしい。低い声で名前を呼んでほしい。あの瞳に見つめられたい。


 もう怖い思いをするのも、痛い思いをするのも嫌だ。


 ……レオンハルト様と離れ離れになりたくない……!




「……レオンハルト、様……っ」




 瞬間、ふわりと一陣の風が吹いた。


 


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小さくなって縄抜けとはグッドアイデアですね! しかし、元に戻っちゃダメだよ〜と思ってしまった。 公爵が来た時にドレス着てない大人のシアを見たら…。あらぬ誤解を産んでしまいそう。
どうするのかなと思っていたら署名のセルフ偽造はちょっと笑ってしまいました。アリなんだそれ……! ちまたの貴族達はアッちょっと署名失敗したな大丈夫か?!とか今日は署名の調子悪いな……とかならないのか気に…
うーん(^^;レオンハルトは名前を呼べばレオンハルトに伝わるとシアに教えてなかったんですね。じゃあ偶然呼ばなかったらそのままバッドエンドになってたかも(ゾッ
2025/06/09 21:13 退会済み
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