夜会(2)
話し終え、王太子殿下が舞踏の間に戻っていく。
それを見送り、わたし達はまだバルコニーに残っていた。
「そういえば、以前君と関係があった男達に話しかけられるかと思ったが、誰も近寄って来ないな」
レオンハルト様の言葉に苦笑してしまう。
「レオンハルト様がそばにいる状況で話しかけるなんて、無謀なことはしないでしょう」
「まあ、それも当然か」
わざわざ公爵家を敵に回すようなことをするはずがない。
……あの男性達は全て、お金を集めるためだけに侍らせていた。
もう少し状況が落ち着いたら、謝罪をしたいと思う。
伯爵家に命じられてやっていたと言っても、相手からは言い訳にしか聞こえないだろうし、そんなことを聞かされても、もし自分が同じ立場だったとしたら不愉快だろう。
……それでも、わたしのしたことに変わりはないわ。
考えているとレオンハルト様に抱き締められる。
「君は私の妻だ。たとえ誰が何と言おうとも、それは変わらない」
「……わたしが『毒婦』でも、ですか?」
「エリシアは毒婦などではないと私は知っている」
頬に触れた手に、愛おしそうに撫でられる。
ドキドキと心臓が高鳴る。
……わたしは、レオンハルト様が好き。
結婚当初は冷たくされたけれど、シアとなったわたしに戸惑いながらも歩み寄ろうとしてくれた。
シアとして大切にしてくれた。わたしについて調べて、これまでの態度について謝ってくれた。
愛したいと言ってくれたことがとても嬉しかった。
まだ結婚して数ヶ月だけれど、それでも、わたしもレオンハルト様と共に過ごす中で惹かれた。
そっと、レオンハルト様に抱き着く。
静かな沈黙が心地良い。
「……さあ、名残惜しいが中に戻ろう」
「ええ……そうですね」
どちらからともなく体を離し、微笑み合い、舞踏の間に戻った。
中は明るく、煌びやかで、優雅に楽団の曲が流れている。
「レオンハルト様、少し化粧室に行ってもよろしいでしょうか?」
「一人で大丈夫か? 少し待て、侍女を呼ぼう」
レオンハルト様が近くの給仕に声をかける。
レオンハルト様と共に舞踏の間から出ると、廊下に使用人が数名控えていた。
侍女もすぐに来てくれたので、レオンハルトと別れ、侍女がそばに立った。
化粧室の場所を訊くとすぐにメイドが案内してくれる。
……伯爵家は話しかけてこなかったわね。
もしかしたらこれから近づいてくるかもしれないが、それでも、すぐに話しかけられなかったことにホッとした。強気でいく予定だけれど、正直、あまり顔を合わせたくない。
はあ……と小さく息を吐いているとメイドが立ち止まった。
それに思わずわたしも立ち止まった瞬間、後ろから鈍い音と悲鳴がした。
驚いて振り向こうとしたが、誰かに羽交い締めにされる。
「きゃ──……」
悲鳴を上げかけたものの、メイドがわたしの口元に布を当ててきた。
何らかの薬品の臭いがする。
とっさに呼吸を止めたものの、口も鼻も布に覆われており、暴れても後ろから羽交い締めにする腕は外れない。恐らく、これは男の手だ。それに気付くとゾッとした。
床には侍女が倒れている。
……だめ、これ以上は息が続かない……っ。
吸い込んでしまった薬品のせいか、ぐらりと視界が揺れる。
酷い眠気に襲われ、体から力が抜けていった。
「……やっと会えたな、エリシア」
聞こえた声はどこか覚えがある。
朦朧とする意識の中で、それだけは何とか分かった。
* * * * *
「ご機嫌よう、アルヴィス公爵様」
舞踏の間でエリシアを待っていたレオンハルトは声をかけられ、振り向いた。
そうして、そこにいた人物に眉根を寄せた。
「何の用だ」
柔らかな金髪に同色の瞳をした伯爵令嬢──……ナタリア・ヴァンデールが悲しそうな顔をする。
「まあ……そのように冷たくなさらないでくださいませ。お姉様と結婚された公爵様と私は義理とはいえ、家族ではございませんか」
「私はそうは思っていない。エリシアを娶ったが、それだけだ」
ヴァンデール伯爵家の行いを知ってから、彼らを軽蔑していた。
エリシアに対する己の態度も許されるものではないが、伯爵家はそれよりも酷かった。
「悲しいですわ……だから、先日もあのような意地の悪いことをしたのですか?」
「意地の悪いこと?」
「宝飾品店に入ろうとしたら、入れてくださらなかったではありませんか……お姉様からどのような話を聞いていらっしゃるか分かりませんが、昔から、お姉様は異母妹の私のことが気に入らなかったのでしょう。……私はただ、お母様に贈るための宝飾品を見たかっただけなのに……」
ナタリア・ヴァンデールが悲しげに目を伏せ、体を震わせると周囲から非難の眼差しが向けられる。
……くだらない。
きっと、こうしてナタリア・ヴァンデールは周囲の気を引いて人気を集めてきたのだろう。
姉を利用し、自分の評判を上げさせ、エリシアの評判を落とす。
何とも卑劣なやり方だ。
レオンハルトはわざとらしく溜め息を吐いた。
「あの日、宝飾店は完全予約制だった。それ以外の客は受けないと言っているのに、話を聞こうとしなかったのはヴァンデール伯爵令嬢ではないか。たまたま私達を見かけ、公爵夫人の妹という立場を使って無理やり己の意見を押し通そうとしていたから私は止めただけだ」
「っ、で、でも、公爵様がお許しくだされば入れました!」
「確かに私が言えば店側は受け入れただろう。だが、あの日でなければいけない理由はなかったはずだ。あの日、店の者に伝えて翌日にもう一度行けば済むだろう」
たまたま居合わせたからといって、便宜を図るほどの仲でもない。
しかし、伯爵令嬢は顔を上げると扇子で顔を隠した。
そうして、レオンハルトに聞こえるほどの小さな声で囁いた。
「私にそのような態度を取ってよろしいのかしら? ……お姉様、なかなか戻ってきませんわね?」
伯爵令嬢の言葉にハッとした。
確かに、化粧室に行くと言って別れてからだいぶ時間が経っている。
「ああ……」と伯爵令嬢がふらつき、レオンハルトに倒れかかってくる。
反射的にその肩を掴めば、また囁かれた。
「詳しい話は休憩室で……」
内心、今すぐにでも伯爵令嬢を突き飛ばしたかった。
だが、エリシアが戻ってこないということは何かがあったのだ。
そうしてこの伯爵令嬢はそれに関わっていて、エリシアに何か起こったのか知っている。
……クソッ……!
怒りを抑え、レオンハルトは伯爵令嬢を支えた。
「……顔色が悪いな」
「……少し休めば、良くなりますので……申し訳ありません。休憩室まで、支えていただけませんか……?」
「ああ」
内心で苛立ちを抱えながら、レオンハルトは伯爵令嬢を支え、王城の使用人に声をかけて休憩室を借りた。
休憩室の扉は少し開けたままにして、レオンハルトと伯爵令嬢が二人きりにならないように王城の使用人のメイドもついてくる。
けれども、メイドは部屋に入ると扉をしっかりと閉めた。
驚いて振り向けば、伯爵令嬢がレオンハルトから離れる。
「私に協力してくださっている方ですから、ご心配なく」
「買収したか……」
「まあ、そのような言い方は好ましくありませんわ」
伯爵令嬢が小さく笑いながらソファーに座る。
部屋の隅に見覚えのある侍女が縄で縛られた状態でぐったりと倒れている。エリシアについているはずの侍女だった。
視線で促され、レオンハルトもソファーに座った。
実は、エリシアには黒魔術をかけている。
本来ならば監視や偵察用の魔術だが、レオンハルトと一定距離以上離れた状態でエリシアがレオンハルトの名前を呼ぶと発動するのが条件のため、彼女がレオンハルトを呼ばない限り、居場所は分からない。
……エリシア、私の名前を呼んでくれ……。
そうすれば居場所も分かる上に、すぐに彼女の手助けもできるというのに。
目の前の伯爵令嬢は口元を扇子で隠すのをやめ、楽しげに笑みを浮かべている。
「エリシアに何をした」
「あら、長い付き合いになるのですから、そのような怖い顔をなさらないで」
レオンハルトが眉根を寄せていると、部屋の扉が叩かれる。
そうしてヴァンデール伯爵夫妻が入ってきた。
「ナタリア、どうだ?」
「予定通りですわ、お父様」
伯爵が満足そうに頷き、テーブルの上に何かを置いた。
書類が数枚、それにペンとインクまである。
どうぞ、と促されて一枚を手に取れば、それは離縁届だった。
そこにはエリシアの名前だけが記入されている。
もう一枚は婚姻届で、片方には目の前にいる伯爵令嬢の名前が、そしてもう片方の欄は空白だ。
「まさか……」
顔を上げれば、伯爵がニヤリと笑った。
下卑たその笑みにレオンハルトは嫌悪感を覚えた。
「ご想像の通り。公爵、エリシアと離縁し、ナタリアと結婚してください」
「断る。……エリシアと離縁する理由がない」
「まあ……ふふっ、お姉様がどうなってもよろしいのかしら?」
伯爵令嬢の言葉にレオンハルトは拳を握り締めた。
今この瞬間に伯爵令嬢を捕縛することはできるが、エリシアがどのような状況なのかが分からなければ対処しようがない。
少なくとも、エリシアを攫った者と伯爵令嬢は別の人物であるのは確実だ。
ここで伯爵令嬢を捕縛するのは簡単だが、それが共謀者に気付かれた時点で攫われたエリシアに危害が加えられる可能性が高い。
……せめてエリシアが私の名前を呼んでくれさえすれば。
もしかしたら、声すら出せない状態なのかもしれない。
そんなエリシアの状況を想像するだけでも、怒りと苛立ちが湧き上がってくる。
長年対立している隣国との先の戦争に、レオンハルトはアレクセイと共に参加していた。
結果は我が国優勢で終わったものの、国境沿いはいまだ小競り合いが続いている。
……ここが戦場ならば何の躊躇いもなく捻り潰せるというのに。
だから社交界は嫌いだとレオンハルトは思う。
死線を潜り抜けたことも、戦地で同胞を喪ったこともない者達が、安全で煌びやかな世界でくだらない謀略を巡らせ、足を引っ張り合い、時には国政を乱す。
多くの同胞達が散り、傷付き、守っている祖国を腐らせていく。
目の前の伯爵令嬢など、レオンハルトの黒魔術で一閃すれば簡単に無力化できる。
それができないのは公爵という立場と、王家との盟約を遵守せよという刷り込みのせいか。
「どうなさいますか? アルヴィス公爵様」
立ち上がった伯爵令嬢がゆっくりとテーブルを回り、レオンハルトに近づく。
その細い手が伸びてレオンハルトの頬に触れた。
エリシアに触れられた時は幸福に包まれるというのに、伯爵令嬢に触れられると、嫌悪感と共にまるで己が汚されていくような不快感を覚えた。
「私と結婚すれば、お姉様の居場所も、誰が攫ったのかもお教えいたしますわ。……ああ、でも早くご決断されたほうがよろしいかと。攫った人間はお姉様にとっても執着していたから、あまりゆっくりなさっていると花が散らされてしまうかも」
「……」
「そんな目で睨まないでくださいな。これから、私はあなた様の妻になるのですから」
うふふ、と愉快そうに笑う伯爵令嬢にレオンハルトは拳を開いた。
今はこの伯爵令嬢の言葉に従うしかない。
レオンハルトは感じる不快感に耐え、ペンを手に取った。
それを見た伯爵令嬢が嬉しそうにニッコリと微笑む。
離縁届と婚姻届の両方に署名すれば、伯爵がそれらを確認し、満足そうに頷いた。
「さすが公爵、英断ですな」
「……署名は済ませた」
「あら、まだお教えできませんわ。これから舞踏の間に戻り、皆の前で、私と共に王太子殿下にこの書類を提出いたしましょう」
「そうだな、ナタリアと公爵の結婚が周知されなくては意味がない」
……なかなかに腹黒い奴らだ。
伯爵令嬢が離縁届と婚姻届を持ち、レオンハルトに立ち上がるよう促した。
たとえ書類を書いて出したとしても、王家が受理しなければいい。
もしくは未提出扱いにすればどうとでもなる。
しかし、王家主催の夜会という貴族達のほとんどが集まる場で提出し、王族がそれを受け取れば、よほどのことがない限りは受理されてしまう。
しかもこの伯爵令嬢はヴァンデール家の者だ。
王家は『王家派と貴族派の有力家同士の婚姻』を望んでいるものの、結婚相手までは指定していない。
エリシアが長女だったからレオンハルトと結婚しただけで、アルヴィス公爵家とヴァンデール伯爵家との婚姻による繋がりという意味では、エリシアであっても、この伯爵令嬢であっても同じだと言える。
レオンハルトは無言でソファーから立ち上がった。
「お父様、公爵様と一緒に提出してきますわ」
レオンハルトの腕に伯爵令嬢が絡むように、伯爵令嬢が抱き着いてくる。
「ふふっ、これで公爵夫人になれるわ。……私があの家畜より下なんてありえないのよ」
家畜という言葉が誰を示すか理解し、レオンハルトは一瞬、目の前が真っ赤に染まった。
……家畜……? 家畜だと?
そして伯爵家でエリシアがどういう立ち位置だったのか、本当の意味で理解した。
握り締めた掌がズキリと痛んだが、構う余裕はない。
少しでも気を抜けば、自分でもこの伯爵令嬢に何をするか分からなかった。
そんなレオンハルトの感情に気付かないように伯爵令嬢が微笑んだ。
「さあ、公爵……いいえ、レオンハルト様、まいりましょう?」
促され、レオンハルトは機械的に足を動かした。
あふれそうになるほどの怒りとは裏腹に、頭は酷く冷静だった。
伯爵令嬢をつけたまま、レオンハルトは廊下を歩く。
その間に密かに黒魔術で影を公爵邸に飛ばし、息子と繋ぎを取る。
【エリシア、誘拐、出撃準備】
影での伝言は短いものしか伝えられないが、息子ならば理解するだろう。
腕に張りつく伯爵令嬢に吐き気を感じながらも舞踏の間に戻る。
その様子に気付いた周囲の貴族達がざわめき、レオンハルト達に道を譲っていく。
多くの視線が集中する中、レオンハルトは目的の人物の背中を見つけ、呼んだ。
「アレクセイ」
振り返ったアレクセイが僅かに目を見開き、しかし次の瞬間にはいつもの微笑みを浮かべた。
「やあ、レオンハルト。君と公爵夫人のダンスについて話していたところだったんだが──……そちらのご令嬢は?」
レオンハルトは黙った。
冗談でも、脅されていたとしても、この伯爵令嬢と結婚するという言葉を口に出したくなかった。
伯爵令嬢がふわりと微笑み、優雅にアレクセイに礼を執る。
「王太子殿下にご挨拶申し上げます。ヴァンデール伯爵家の次女、ナタリア・ヴァンデールでございます。実は、殿下にお渡ししたいものがございまして……」
「へえ? 君が私に?」
「はい。どうぞ、こちらをご覧くださいませ」
伯爵令嬢が離縁届と婚姻届を差し出した。