幸せ / 陰
「エリシア」
わたしを呼ぶ公爵──……レオンハルト様の声に甘さが含まれていると気付いてしまった。
……いいえ、本当はずっと前から分かっていたわ。
エリシアに戻ってから、レオンハルト様の視線が熱心に追いかけてきていたことも。
わたしと目が合うと赤い瞳が嬉しそうに細められるのも。
その様子が少し、人懐っこい大型犬のようで可愛らしいことも。
分かっていたのに、踏み出す勇気がなかった。
でも、レオンハルト様のほうから歩み寄ってくれた。
伸ばされた手に抱き締められる。
「おはようございます、レオンハルト様」
「ああ、おはよう」
ちゅ、と額にレオンハルト様がキスしてくる。
先日出掛けてから、こういう触れ合いが増えて少し気恥ずかしいが、でもとても嬉しい。
エリシア・ヴァンデールの記憶には家族や友人に愛された記憶がなく、いつも金を貢がせるための男達を侍らせていたが、彼らはエリシアにとって愛おしいと思う相手ではなかった。
むしろ、男達から離れたいとずっと思っていた。
レオンハルト様の後ろから、ユリウスも近づいてくる。
「おはよう、エリシア」
少し羨ましそうにしているので、わたしは腕を広げた。
すると、ユリウスがおずおずと近づいてきてわたしに抱き着いた。
後ろからレオンハルトに抱き締められ、前にはユリウスがいて、幸せサンドである。
「おはよう、ユリウス」
そうして、朝食を摂る。
「王家から招待状が届いた。一週間後……まあ、いつも通り、王家主催の夜会が行われるそうだ」
「社交期の始まりですね」
実はフェネオン公爵夫人のお茶会以降、どこのお茶会にも行っていない。
元の姿に戻ったが、王家主催の夜会に出てから社交は考えるということになっている。
レオンハルト様とユリウスが『伯爵家の者と顔を合わせるとつらいだろう』と招待を全て断ってくれており、正直に言えば、わたしもこの間ナタリアと会って、自分が思った以上に伯爵家に対してトラウマを持っていることに驚いた。
……今はわたしでも、体や記憶はエリシアだからなのね。
本能的にヴァンデール伯爵家の人間を恐ろしいと思ってしまう。
けれども、いつまでも恐れているばかりではいけない。
心配そうに見つめてくる、よく似た二つの顔に微笑み返す。
「王家主催の夜会、楽しみですわ」
わたしが社交界に出るのに前向きだと分かったのか、二人はもう反対しなかった。
「それに、最初と最後の夜会はレオンハルト様と揃いの装いで行けますもの」
「ああ、私も揃いの装いで行けるのが楽しみだ」
「……僕も早く成人したいです」
ユリウスが少し拗ねたような顔をする。
「ユリウスが社交界に出る時は、全員で装いを揃えましょうか」
……まあ、さすがに十六歳になる頃にはそんなことしないかもしれないけれど。
でも、ユリウスが表情を明るくして顔を上げた。
「本当に? 社交界に出たら、僕とも踊ってくれる?」
「ええ、もちろん。ユリウスと一緒に踊れる日がくるのが楽しみです」
そこまで話をして、ふとレオンハルト様がわたしを見た。
「夜会に出る前にダンスの練習時間を取ろう」
……そういえば、レオンハルト様と踊ったことはなかったわね。
「ありがとうございます」
「いや、気が利かなくてすまなかった。君もしばらく社交から離れていたし、お互い、練習する時間が必要だろう。……私も踊ることはほとんどなかったからな」
「では、久しぶり同士で失敗しても安心ですね」
「君に足を踏まれても大丈夫なくらいには鍛えているさ」
「まあ」
レオンハルト様とユリウス、そしてわたしで笑う。
結婚式で記憶が戻った時はどうなることかと思ったけれど、こんなに穏やかな日々を過ごせるようになるなんて、あの時のわたしは考えもしなかった。
……レオンハルト様も、ユリウスも、生きているわ。
原作小説に近い世界だが、絶対にそうであるというわけではない。
この世界の人々はみんな生きていて、それぞれに意思がある。
だからこそ、こうして変わることができた。
「エリシア」
レオンハルト様がわたしを見て微笑む。
……どうして、この人達は周りから怯えられるのだろう。
こんなに優しくて、穏やかで、情の厚い人達なのに。
「君と公の場で三度続けて踊れる栄誉を、楽しみにしている」
ドキリと高鳴る鼓動のまま、わたしは笑顔で頷き返した。
この二人のそばなら、わたしも……エリシアも幸せになれるだろう。
* * * * *
「エリシアが可愛すぎる……」
そう呟けば、書斎に来ていたユリウスが呆れた顔をする。
「何を今更……シアもエリシアも可愛いのは、分かりきっていることではありませんか」
レオンハルトは「そうだな……」と言って、小さく息を吐いた。
共に夫婦としてやり直していこうと話し、決めてから、エリシアは少し変わった。
レオンハルトに甘え、愛情を隠すことなく伝えてくれるのだ。
それは決して悪い方向の変化ではなく、むしろ、レオンハルトからすれば良いと断言できる。
食事はできる限り共に摂るようになり、ティータイムも時々でもいいから一緒に過ごしたくて、レオンハルトは以前よりも集中して仕事をこなすようになった。
ユリウスも時間を作るために授業に集中しているそうなので、似た者同士かもしれない。
部屋の扉が叩かれ、レオンハルトが「入れ」と声をかける。
控えめに開かれた扉から、エリシアが顔を覗かせた。
「レオンハルト様……あら、ユリウスもいたのね。ごめんなさい、お邪魔でしたか?」
それにユリウスが振り返った。
「いや、僕はもう用事は済んだから部屋に戻るよ。次の授業もあるし」
「そう?」
「うん、ティータイムの時にエリシアの部屋に行ってもいい?」
「ええ、楽しみにしています」
ユリウスがエリシアに小さく手を振り、レオンハルトに気を遣ったのか部屋を出て行った。
ついでに侍従に声をかけて下がらせる。
「エリシア、どうかしたか?」
あまり仕事中は来ることがないので珍しい。
エリシアが目を伏せ、少し言いにくそうに呟いた。
「そ、その、レオンハルト様の顔が見たくなって……」
……やはりエリシアは可愛い人だ。
仕事中に来たことが悪いと思っているようで「ごめんなさい」とエリシアが言う。
レオンハルトは立ち上がるとエリシアに歩み寄り、抱き締めた。
「謝ることはない。……私も、少し休憩しようと思っていたところだ」
そう言えば、エリシアの表情が明るくなる。
休憩をするために二人でソファーに座った。
エリシアの頬に触れれば、すり、と嬉しそうにレオンハルトの手に頬擦りをしてきた。
そうして、レオンハルトに抱き着いてくる。
「今日は甘えただな?」
レオンハルトもしっかりと腰に手を回して抱き寄せる。
「そういう気分なんです……いけませんか?」
「いや、そういう君も可愛らしくていい」
エリシアの額に口付ければ、緑の瞳がくすぐったそうに細められる。
「レオンハルト様が愛情を示してくださる分、わたしも同じように示そうと思います」
エリシアがレオンハルトの手を取り、手の甲に口付けられる。
このどこかむず痒いような、ふわふわとした気持ちを人は『幸せ』というのだろう。
いつになくべったりとくっついてくるエリシアに、レオンハルトは微笑んだ。
* * * * *
「エリシア……ああ、くそっ……どうしてなんだ……!」
ブツブツと呟く男を前に、ナタリアは同情するような顔をしてみせる。
父と話し合って次の手を打つことにしたが、そのためとはいえ、こんな頭のおかしい男と会わなければいけない自分こそが最も可哀想だとナタリアは内心で溜め息を吐いた。
男は見た目こそ悪くはないし、家も金はあるけれど、下位貴族だった。
いくら裕福だったとしても、それだけを理由に父がこの男とあの女の結婚を認めるはずがない。
あの女を使い、多くの男達に金を貢がせ、もう何年かしたらそのうちの一人の資産家に嫁がせる予定だった。資産家は非常に裕福で『毒婦エリシア・ヴァンデールという風変わりな女』を気に入っていた。
しかし、あの女とアルヴィス公爵の結婚が決まってしまった。
王家が決めた婚姻で、公爵家ならより金があるだろうと父は考えた。
貴族派の中で発言力を持つためには何かと金が必要で、家の力を維持するためにあの女を使って男達に貢がせていたのだが、もうあの女は役に立たない。
あの女が元に戻ったと聞いて、公爵家に何度も面会の手紙を出したものの、全て断られた。
段々と伯爵家の財政は苦しくなりつつあるそうだ。
……何としてもお姉様を伯爵家に戻して、私が公爵夫人にならないと。
そうすればきっと全てが上手くいく。
「お姉様はあの通りの方だから、きっと公爵家のお金に目が眩んだのね」
「私だってエリシアに多額の投資をしてきた! 今のエリシアがいるのは私のおかげだ! それなのにアルヴィス公爵が横取りしたんだ!! 何が『王家が決めた婚姻』だ!! きっと公爵が美しいエリシアを手に入れるために、王家の手を借りたんだ!!」
男がテーブルに拳を振り下ろす。
ダンッとテーブルが揺れ、ティーカップから紅茶が僅かにこぼれる。
……いくらお金があっても、こんな無作法な男と結婚なんて誰もしたがらないわ。
「ああ、そうだ、エリシアにさえ会えば……! 彼女はきっと俺を選んでくれるはずなんだ……!!」
「ええ、そうでしょう。お姉様は公爵のことは何とも思っていませんから。あなたのように心から愛している方でなければ、お姉様を正すことなどできませんわ」
もちろん、そんなのは嘘だ。
もしこれが成功したとして、お姉様と公爵が離縁することになったとしても、伯爵家はこの男との結婚を許すことはない。事前の予定通り、資産家にあの女を売り渡すだけである。
……愚かな人ばっかりね。
恋に溺れ、周りが見えず、他人から与えられるものを深く考えずに受け入れる。
だから簡単に利用できる。
「しかし、公爵家に面会の打診を入れても断られるのは目に見えている……!」
苛立った様子の男にナタリアは微笑んだ。
「そう焦る必要はありませんわ」
「何?」
「これから社交期に入りますでしょう? 始まりと終わりの夜会は王家主催。怪我や病気などでなければ基本的に全員が参加しなければいけないもの。そこでなら、お姉様にもお会いできるのではありませんか?」
男がパッと顔を上げる。
「そうか! 確かに、夜会なら顔を合わせることができる……!」
嬉しそうにまた何事かをブツブツと呟く男の声を聞き流し、ナタリアは紅茶を飲む。
この間、宝飾店で見たあの女は一段と美しくなっていた。
以前の毒婦らしい派手で下品な装いをやめ、淑女らしい装いをしていたあの女が公爵にエスコートをされている姿を見た時、妬ましいと思ってしまった。
見目の良い公爵、美しい公爵邸、最高級品のドレスや宝飾品、公爵夫人という立場。
ナタリアが欲しいと思っているもの全てをあの女は持っている。
伯爵家では利用されるばかりの家畜のような女だったくせに。
「せっかくですから、夜会から抜け出してしまえば良いのです。お姉様なら、あなたの誘いを断るなんてないとは思いますが……」
「なんとしても連れ出すさ……! エリシアの夫となるのはこの私なんだ……! 幸い、公爵とは白い結婚のはず……私と既成事実をつくってしまえば、エリシアも公爵家を諦めるはずだ……!!」
男の言葉にナタリアは扇子で口元を隠し、ニヤリと笑う。
貴族の女性の純潔性はとても大事なものである。
結婚前に純潔を失った令嬢は貴族達から敬遠される。
公爵とあの女は白い結婚で、きっとまだだろう。
もしそうでなかったとしても、目の前の男に襲われたあの女を公爵がずっと手元に置いておくはずがない。公爵は失望してあの女を手放すに決まっている。
「お姉様を正しい道に戻してあげられるのは、あなただけですわ」
この男に襲われるあの女を想像するだけで笑いが込み上げてくる。
あの女に公爵夫人などという立場は似合わないし、不釣り合いだ。
……だから、私がもらってあげる。
代わりに姉は伯爵家に戻り、また家のために金を集めればいい。
……そう、たとえ公爵が我が家のことを知っていたとしても、何とかなる。
王家派のアルヴィス公爵家と貴族派のヴァンデール伯爵家の婚姻は、王家が望んでいるもの。
それなら、姉が失脚すれば次に順番が回ってくるのはナタリアである。
公爵に愛されなかったとしても、公爵夫人になれば社交界での地位は確固たるものとなる。
「そうだ、そうすれば……ああ、エリシア……早く君に会いたい」
男のどこか恍惚とした表情に、ナタリアは吐き気がした。
あの女の周りにいたのは金を貢がせるための道具に過ぎない男達であるけれど、その男達はあの女が公爵と結婚した後もずっと諦められずにいるようだった。
……家畜のくせに、男を誑し込むことだけは上手かったようね。
あの女に執着しているこの男が気持ち悪かった。
* * * * *