解呪
バルフェット侯爵令嬢の捕縛から数日後。
公爵家専属の魔術師達と公爵、ユリウスがわたしの部屋に集まった。
侯爵邸にあった黒魔術の本と術式を解析し、わたしにかけられた呪いを解く方法が分かったらしい。
今日は解呪するために集まっているのだけれど、少し不安だった。
……本当に解呪できるのかな。
それに、もし解呪できたとしても、エリシア・ヴァンデールは受け入れてもらえるのだろうか。
今の『わたし』は受け入れられているが、元に戻った時にどうなるか。
そう思うと、いっそこのままのほうがいいのではという気持ちもある。
公爵の膝の上に乗せられた状態で考えていると、大きな手に頭を撫でられた。
「元に戻れるというのに、不安そうだな」
声をかけられ、ハッと顔を上げれば全員がわたしを見ていた。
「すこし、ふあんです……もどれるかどうかというしんぱいではなく、その、もとにもどったあとも、わたしはこーしゃくけでうけいれていただけるかどうか……」
「そんなことを気にしていたのか? 私もユリウスも、君を拒絶するつもりはない」
「シアがシアの見た目じゃなくなったとしても、中身は同じだって僕達は分かってるよ」
公爵とユリウスの言葉に「はい……」と頷き返す。
二人の言葉を信じていないわけではないが、今までのエリシアの記憶や感情がモヤモヤと胸の中で渦巻いている。家族にすら愛されなかった自分がここにいてもいいのだろうか、という気持ちだ。
……子供の姿のままなら原作通りにならないし。
しかし、本当にこのままでいいとはわたしも思っていない。
わたしが子供の姿でいることは、公爵家にとっては汚点である。
「どうしてもシアが元の姿に戻りたくないというなら、このままで過ごすこともできる。元に戻る方法は分かっているのだから、今すぐ無理に戻る必要はない」
「ですが、それではこーしゃくけにごめいわくが……」
「迷惑かどうか決めるのは私達だ。他の者がどう思うかなど気にする意味はない」
そっと、また頭を撫でられる。
「だが、私は本来の姿の君と──……エリシアと、もう一度会いたいと思っている。今更だが、夫婦として、結婚生活をやり直す機会を与えてくれるのであれば、今度こそ君を信じると約束する」
見上げれば、赤い瞳が優しく見つめてくる。
横にいたユリウスもわたしの手を握った。
「僕も、シアと家族になりたいって思うよ。……すぐに『母上』と呼ぶのは難しいかもしれないけど、でも、いつかは呼べる日がくるから」
「むりしなくていいよ。よびかたはかたちのひとつで、ゆりうすがわたしを『ははうえ』ってよばなくても、わたしをかぞくだとおもってくれるなら、わたしたちはかぞくだよ」
「うん」
「私も君を家族だと思っている」
二人の言葉を信じたい。
その気持ちが前世のわたしのものなのか、エリシアのものなのかは分からないけれど、でも、きっと大切なのは『今のわたしがどうしたいか』だろう。
顔を上げて、二人に笑いかける。
「わたし、もとのすがたにもどります」
二人が頷き、公爵が魔術師に声をかける。
すると、魔術師達が大きな布を持ってきて、そこに術式を描いていく。
円形の図を基準に複雑な術式が描かれていくが、内容は分からない。
「奥様は今のうちにドレスを脱いで、大きな布かローブに着替えていただけますか? こちらの術式は体にのみ作用するもので、今の装いでは体が元に戻った際に破けてしまいますので」
「わかりました」
声をかけてくれたのは、最初に話をした魔術師のエイナだった。
公爵が立ち上がり、わたしを侍女に渡した。
侍女と共に寝室に移動してドレスや下着などを脱ぎ、大きなバスローブに着替え、更に上からもっと大きな布を巻かれた。これなら姿が戻ったとしても肌はあまり見えないだろう。
布の塊のようになっているわたしを侍女が抱き上げて元の部屋に戻る。
丁度術式を描き終えたらしい。とても複雑な術式が描かれた布を魔術師達が囲む。
「奥様、術式の上に立っていただけますか?」
エイナの言葉に公爵が立ち上がり、侍女からわたしを受け取ると布のそばに行き、そっと術式の上に下ろす。
下手に動いて布に描かれた文字を崩してしまわないよう、気を付ける。
……シアとして過ごすのもこれで最後なのね……。
そう思うと、この小さな体が愛おしく感じられた。
この体のおかげで、呪いのおかげで、わたしは公爵とユリウスと仲良くなれた。
バルフェット侯爵令嬢は嫌がらせのつもりだったのだろうけれど、結果的には彼女の望みとは正反対の方向に事態は転がった。
もしもわたしが毒婦エリシア・ヴァンデールのままであったなら、結婚祝いを自分で開けようとはしなかっただろう。きっと使用人に任せて、内容だけ確認してお礼の手紙を書いたはずだ。
そういう意味では、現代のわたしの記憶を取り戻した時点で原作とは違っていた。
「それでは、解呪を開始します」
魔術師達が詠唱を行う。
声を揃えて詠唱する魔術師達に囲まれるのは少し怖い。
……なんだか、体が熱い……。
痛みにも、熱さにも似た感覚が全身に広がっていく。
その瞬間、覚えのある暗闇に包まれた。
* * * * *
術式の上にいたシアが黒い霧のようなものに包まれる。
それが段々と大きくなっていくのを、レオンハルトは息子と共に見守った。
どこか既視感を覚える、この緊張とも言える感覚を初めて経験したのはいつだったか。
……ああ、そうだ。
昔、庭にあった柑橘類の木にいた蝶の蛹を見つけた時だ。
早朝の剣の鍛錬を終えた後に見つけたそれは、既に羽化しかけており、しかしまだ飛ぶことはできず、己が入っていた殻に掴まってゆっくりと翅を広げていた。その翅がとても美しかったのでよく覚えている。
あまりの美しさにしばらく見入っていたのだが、朝食の時間に間に合わなくなるからと侍従に急かされてその場を後にした。
あの時の感覚に似ているのだ。
黒い霧が大きくなり、やがて膨らむのをやめると縮こまるように一瞬僅かに小さくなり、そして黒い霧が空気に溶けて消えていく。
霧の下から、燃えるように鮮やかな赤が現れた。
目を閉じていても美しい顔立ちだと分かる。
長い睫毛、スッと通った鼻筋、紅を引いていなくても血色のある形の良い唇。
布の塊に包まれているが、顔から下に伸びる首はほっそりとしていた。
睫毛が震え、ゆっくりと瞼が持ち上げられれば、ここ最近で見慣れた緑色の瞳と視線が絡み合った。
化粧をしていなくても華やかな顔立ちの美しい女性がそこいる。
シアが成長すれば、確かに、このようになるだろうという容姿だった。
緑の目が何度か瞬き、布の間から手を出して、自分の手の大きさを確かめている。
そうして顔を上げたシアだった存在──……エリシアが、照れたように微笑んだ。
「公爵様、ユリウス……」
落ち着いた艶のある女性の声は耳に慣れないものだが、レオンハルトは歩み寄った。
エリシアのそばに膝をつき、そっと、その頬に手を伸ばす。
触れた頬は柔らかいけれど、子供特有のもちもちとした感触ではなく、しっとりと艶のある滑らかな触り心地だった。頬の形も、背丈も、声も、全く違う。
違うが、レオンハルトをまっすぐに見つめる瞳は変わらなかった。
恐れのない、純粋な光を宿した緑の瞳にレオンハルトが映っている。
「わたし、元の姿に戻っていますか?」
「……ああ」
社交界で見かけていた毒々しい姿ではない。
化粧と派手な装いで飾り立てていた毒婦エリシア・ヴァンデールとは違う。
華やかだが、もっと透明感があり、自然な美しさを持っていた。
触れているレオンハルトの手に、己の手を重ねて頬擦りをする姿はシアと同じだった。
「エリシア」
レオンハルトが名前を呼べば、嬉しそうに緑の瞳が細められる。
「はい。……また、わたしの名前を呼んでくださいましたね」
「ああ……私に、向き合う機会を与えてくれて、ありがとう」
そう伝えれば、エリシアが嬉しそうに微笑んだ。
「わたしも、公爵様やユリウスと向き合いたかったのです」
その微笑みにレオンハルトの鼓動がドキリと早鐘を打つ。
美しく、優しく、純粋な、少女のような表情だった。
「……その、エリシア……?」
息子の躊躇うような声にエリシアが顔を向け、ニコリと笑う。
「はい、ユリウス」
エリシアが返事をすると息子の表情が明るくなる。
エリシアの中に『シア』の記憶がしっかりと残っていると分かったのだろう。
二人が互いに嬉しそうに微笑み合う姿は、血の繋がりはなくても家族の情が感じられた。
魔術師がそっとエリシアに近づいた。
「奥様、元に戻ったか確認をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「ええ、お願いします」
魔術師が解析魔術でエリシアの体を検査する。
しばしの沈黙の後、魔術師が眉根を寄せて顔を上げた。
「奥様の体年齢は元に戻っております。……しかし、黒魔術は完全に除去できていないようです」
「どういうことだ? まさか、また突然幼い体に戻ってしまうのか?」
「いいえ、突然戻ることはないと思われますが……」
魔術師がエリシアに顔を向ける。
「奥様、心の中で『子供の姿になりたい』と強く念じてみてください」
それにエリシアが目を閉じる。
するとその体がまた黒い霧に包まれ、小さくなっていく。
……まさか……。
霧が晴れると『エリシア』は『シア』に縮んでいた。
シアが己の手を見て、驚いた様子で「えっ!?」と声を上げた。
「奥様、もう一度、今度は『元に戻りたい』と念じてください」
シアがギュッと目を瞑り、また黒い霧に包まれる。
それは先ほどと同じく大きくなり、一瞬縮こまった後、霧が晴れると『エリシア』に戻っていた。
「……わたし、もしかしてどちらの姿にもなれるようになったの?」
大人に戻った己の手を見ながら、エリシアが目を丸くしている。
「はい……恐らく、奥様の体は黒魔術と馴染みが良いのかと。体が呪いのかかっている状態も『正常』なものと判断し、呪いそのものを取り込み、己の能力にしてしまったのでしょう」
「……そんなことがありえるのか……」
「魔術師の中にも、己に向けられた魔術の魔力を上書きすることで、その魔術を操ることができる者もおります。奥様の場合は常に体に呪いがかかっていたので、魔術に使用されていた魔力が奥様のものに上書きされた可能性が高いです」
せっかくエリシアは元の姿に戻れたのに、まだ呪いが残っているなんて。
気落ちしてしまうのではとエリシアを見れば、何故か嬉しそうにエリシアが笑った。
「それは素敵ですわ」
それに全員が目を瞬かせた。
「素敵……?」
思わずレオンハルトが訊き返すと、エリシアが大きく頷いた。
「はい。つまり、わたしはいつでも『エリシア』にも『シア』にもなれるのでしょう? これなら『シア』も残ります。……二人と過ごしてきた『シア』を忘れたくありませんから」
笑ったエリシアには、確かにシアの面影が残っている。
エリシアに戻るべきだと思いながらも、レオンハルトと息子にとって、シアは大切な家族である。
エリシアとシアが同一人物だと分かっているが、それでも寂しさを感じていた。
「『エリシア』も『シア』も、家族として受け入れていただけますか……?」
不安そうに見つめられ、気付けばレオンハルトはエリシアを抱き締めていた。
「ああ……もちろん、君もシアも、どちらも大切な私達の家族だ」
「エリシアと過ごせるのも、シアとまた会えるのも、僕も嬉しい」
息子も近寄り、エリシアに抱き着く。
「公爵様、ユリウス……改めまして、シア共々よろしくお願いいたします」
幸せそうに微笑むエリシアはもう、毒婦などではない。
蛹の殻を脱ぎ捨てた蝶のように、彼女はこれから自由に羽ばたいていけるだろう。
* * * * *
ナタリアは手元の手紙を読み終えると、それを無言で丸めて捨てた。
室内には使用人もおらず、ナタリア一人だった。
苛立ちをどこかにぶつければ気持ちはスッキリするだろうが、これまで築き上げてきた『心優しい令嬢ナタリア・ヴァンデール』はそのようなことはしない。
深呼吸をして心を落ち着け、椅子に腰掛ける。
……お姉様、もう元に戻ってしまったのね。
バルフェット侯爵令嬢は『公爵夫人に黒魔術をかけて害した犯人』として、王家の騎士に捕縛されたそうだ。そのうちこうなることは予想ができていた。
ナタリアの甘い囁きに簡単に落ちて、掌の上で転がるような令嬢だ。
すぐに足がついて、気付かれることは分かっていた。
だからこそナタリアは物的証拠を残さないようにした。
父のもとには王家から手紙が届いていたけれど、父もナタリアも知らないふりをした。
お喋り好きな友人達には事前にバルフェット侯爵令嬢から相談をされて困っていたことを伝えてあるし、人払いをした上で口頭で伝えていたのでナタリアが魔術書の違法売買を勧めた証拠もない。
バルフェット侯爵令嬢が何を言っても、証拠がない以上は王家であってもヴァンデール伯爵家に手出しはできない。
明確な証拠もなく、貴族派の家を捕らえれば、王家派と貴族派の仲は悪化する。
……ふふっ、お父様も悪い人ね。
そうと分かっていて、ナタリアにバルフェット侯爵令嬢と接触させたのだから。
しかし、あの女が元の姿に戻ってしまったのであれば婚姻は維持されるだろう。
ナタリアが公爵夫人になる道は遠退いてしまった。
「次の手をお父様と話し合わなくちゃ……」
公爵夫人の座。一度手に入れる目前まであった、その地位を諦めるのは惜しい。
……今回がダメでも、次を作ればいいのよ。
ナタリアは立ち上がると、足取り軽く自室を後にした。
* * * * *