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悲しくもないのに、なんで泣いてしまっているんだろう。私は慌てて頬の涙をぬぐい、言った。
「だっ……大丈夫です。さっき、別の嫌なことがあってもとから泣きそうだったんです」
「そう? だけど……」
女性の台詞の途中で、ガサッ、と乾いた音が鳴った。なぜか私の肩が軽くなる。
音は背後に聞こえた。
振り返ると、リュックの肩紐が継ぎ目からちぎれ、袋部分がぶらさがっている。
ひっくり返って地面に擦ってしまっている。
ずり落ちそうなもう一方の肩ひもを強く掴んだせいで、閉まりきっていなかったチャックから、黒い機器とケースが転がりだす。
このリュックはもう5年使用しているうえ、重い荷物も入れて酷使してきた。
わかってはいたけど、まさか肩の部分からちぎれるなんて。恥ずかしくて顔が熱くなりうつむいた。女性は言う。
「リュックは弁償させて」
「これ、な………長く使っていて、擦り切れてたんです。穴もあきそうだったし………。いえ、穴もあいているくらい古いもので」
外側からじゃ見えないから放置していたけど確かに穴があいている。
「これは? マイク??」
彼女が、何かを拾い立ち上がったかと思ったら、その手にあったのは破損したマイクだった。
私は手を突き出し、それを返してもらう。
「大丈夫です。もとから壊れてて、捨てるつもりだったんです」
「じゃあ、新しいものをプレゼントさせて」
「あの…、いえ、これはもう」
私が言葉に詰まっていると、警察官とこの施設の制服を着たスタッフがやってきた。そこで会話は途切れた。
(消えたい……)
簡単な事情聴取のあと、私はすぐに解放された。双方と面識のない第三者だったからだ。
警察と女性には、それぞれ連絡先を知らせた。女性はまだなにか話をしたそうだったけど、私は、遅くなると親が心配するからと言い訳にして、逃げるようにその場から去った。
なんの役にも立たない自分が、勇気を出して善行をしたことを褒めたい。本当は褒めたい。
でも、あんな綺羅びやかな人の前で、使い古したリュックが壊れて中身が飛び出るなんて恥ずかしすぎてダサすぎて、消滅したかった。
できればこのまま、あの人の記憶から私が消えてほしかった。
そして、もうひとつ。
いくらひどい悪口を言われたからって、既に倒れている人に留めを刺すようにリュックをぶつけた自分。
その暴力性への自覚。
私って善人のふりをして暮らしているけど、本当はこんな人間なんだ。最低だ。
それからーーーー。
あのスーツ姿のガードマンが私に向けた、驚きの眼差しが忘れられない。消えたい。
誰とも関わらなければ、こんな気持ち抱かずに済んだのに!
本当に最低な日。
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どんなに憂鬱でも、同じ時刻に起床時間はやってくる。
「朝倉映子! 日本にいるんだ」
食卓でジャムトーストをかじりながら母が言った。私は向かいの席でテレビに視線を向け、愕然とした。そこで微笑みながらインタビューを受けているのは、どうみても昨日出会った顔だったから。ワンピースも同じ黒だった。ネックレスも同じ。上着は少し違うかも。
私は瞬時に、抱きしめられた時の香りを思い出した。
テレビに映っているのは映画試写会後の姿で、宣伝のようだ。
「………この人って有名?」
「すごく有名だよ。私が学生の頃にはドラマにたくさん出てた。いまは引退してなにか会社してるんだったかな? 最近はぜんぜん見ないけど」
「へえー……」
私はもう一度画面を見る。
落ち着いて見ても、やっぱり昨日のあの人に見える。
「お母さんはこの人のファンだった?」
「ファン? ファンとまでは行かないけどね。ハマってたドラマがあったな。スキー場のやつで、朝倉映子は色白だから、雪景色が本当に似合ってたの」
スキー場の食堂で働く主人公と、そこに長期休暇に来た映画スターのラブストーリーだったらしい。ファンってほどじゃないって言うけど、ものすごく細かく覚えてるみたいだから、思い出のドラマなんだろう。
実は……、昨夜の一連のことは、母には黙っていた。
言いにくかったし、それを話し出すとオーディションに落ちたことも言いたくなるだろう。
わかってる。
ずっと黙ってることなんてできないし、就職に切り替えるなら早く親にも学校に言わなきゃならない。
ただなぜか、どうしても抵抗があった。数日でいいから頭を切り替える時間かほしい。
少しだけ、全部忘れて休みたい。どうすればいいのか、どの道を進めばいいのかすら、ちっともわからない状態だ。
時間を稼ぐためにも、私のこと以外で、母の気をそらす大きな材料があればそれに越したことはなかった。
例えば、朝倉映子とアフタヌーンティーをしてくるとか。