笹倉優衣香 編
リビングにあるテレビボードの抽斗には、敬志から届いた手紙を入れてある。
半年ぶりに届いた葉書はいつもと同じだった。それを抽斗に仕舞う前に、私の宛名だけが書かれたその葉書の文字を見て、それを書いている時の敬志を思い浮かべた。
◇ ◇ ◇
私の名前の最初の文字は画数が多くて、後に続く漢字とバランスを取るのが難しい。でも、敬志はいつもバランスの良い文字を書く。
笹倉優衣香 様
十五歳の夏、学校の帰り道で敬志から渡された手紙の宛名には、大きな『優』が書いてあった。中の手紙にある私の名前もそうだった。
敬志が私の名前を初めて書いたその日からもう二十二年も経っているから、上手に書けるようになるのは当たり前だけど、私はそれが嬉しい。
敬志が初めて私の名前を書いた手紙に綴った想いは、今でも変わらずに敬志の中にある。でも、私はそれを一度も受け入れた事がない。
それでも敬志は、こうして葉書を送ってきて、私に会いに来る。
二人の関係を他者が見たら、恋人だと思うかも知れない。でも、唇を重ねた事は無いし、敬志に身を任せた事もない。
ただ、私に恋人がいない時にだけ、敬志は私を抱きしめる。そして、耳元で囁く。
――俺の女になって欲しい。
囁く言葉は毎回同じではないけども、同じ意味の言葉を囁く。
そして私は『嫌ですよ』と答えて、敬志の身体をすり抜けて、逃げて、笑い合う。
敬志は男だし、背も高くて腕力もある。私を組み伏せる事は容易いはず。でも、敬志は何もしないし、抱きしめると言っても、私の身体を強く抱き寄せた事は一度も無い。
私の恋が終わりを告げ、その思い出に胸を掻き毟る間さえも、敬志は何もしない。
――弱みにつけ込むみたいだから。
なぜ今日は抱きしめないのか訊いた時、そう答えた。
そんなに悲しいなら胸を貸すよと言う敬志に甘えた時もある。でも、その時の敬志の鼓動は規則的で、早まる事は無かった。
私たちは幼馴染みだから。
子供の頃からずっと一緒の友達だから。
今の敬志が私を想う気持ちは、多分恋ではないと思う。
ただ、幼馴染みの私と過ごす時間で、自分を取り戻しているのだと思う。
敬志は警察官で、お父さんも警察官だった。
お父さんは所轄の副署長だったけど、敬志は所属を明らかに出来ない警察官で、普段どこで何をしているのか分からない。
自分が警察官である事の証明は出来るけど、仕事の事は何も言わないし、何も言えない。
敬志は私の家に来る時、いつも見た目が違う。
警察官の雰囲気を纏うスーツ姿、髪を染めてアクセサリーを付けたチャラい姿、若い起業家みたいな姿、普通のサラリーマンには見えないスーツ姿など。
毎回どんな姿で来るのか楽しみではあるけど、大人になった敬志がどんな人なのか分からない。
敬志は敬志だけど、本当の敬志が分からない。
前に来た時、敬志は痩せて目が落ちくぼみ、野生動物のような鋭い目線をしていた時があった。それはすごく冷たい目で、これまで見た事の無い敬志の姿に、私はたじろいだ。
でも、私を視界に入れて、しばらく経ったらいつもの敬志に、子供の頃から知っている敬志の目に戻った。
それは、敬志の仕事は大変なんだと改めて思い知らされた出来事だった。
敬志が警察官じゃなかったら、恋人になっていたと思うし、結婚もしていたと思う。
敬志はずっと私だけを想い続けている。そんな男性に愛されるのは幸せだから。
◇ ◇ ◇
最近は、郵便局で葉書を買ってその場で書いた物なのか、コンビニで買ってポストを机代わりにして書いた物なのか、ちゃんと机の上で書いた物なのか、分かるようになった。
今日の葉書はポストで書いたのだと思う。
私は書かれた文字の筆圧や、文字の乱れで敬志の心を探る。
――多分、良くないな。
私は、その葉書を仕舞う前に、敬志が初めて私の名前を書いた手紙を取り出した。
大きな『優』が書かれたその封筒を見ると、いつも頬が緩む。
中の手紙には、たくさんの文字が書いてあるけど、
筆圧の強い部分は『優衣ちゃんの笑顔が大好きです』と書いてある。
私に出来る事は、近日中に訪れる敬志を笑顔で迎える事だけ。
きっと、何かが起きたのだろうけど、何も言えないのなら何も聞かない。
敬志がそう願っているのなら、私は笑顔で迎えてあげる。
ご覧になって頂いてありがとうございました。
ファーレンハイト本編もよければ一緒にお読みください。
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