愛2
読者の皆様はアレクサンドラ・アマデウスという単語に何か引っかかりを覚えてくれるだろうか。
多分大多数の方は引っ掛かりを覚えるどころか、お初にお目にかかると言うだろう。
しかし、ここまで読み進めてくれた方は必ず一回は見ているはずなのだ。
では、その人がどんな人だったのかをおさらいしたいと思う。
アレクサンドラ・アマデウス。
彼との出会いは部活体験中のことであった。
俺と蘭とエリックが一緒に回っていた部活体験のことである。
俺たちはテニス部を見ることにした。
そのテニス部の部長の名前こそ、アレクサンドラ・アマデウスなのだ。
彼は熱血漢で、俺はその熱血にあろうことか触れてしまい、良く言えばたくさん運動し、悪く言えばその熱血に焼けただれたのである。
これで思い出してくれた方ももしかしたらいるかもしれない。
しかし、なぜ今になってそんなことを掘り返したのか。
実は今回話す話は彼が主となっているからだ。
いや、むしろ彼と俺しか舞台にいないと言い切ってもいいかもしれない。
今回はそんな外伝的な話をするつもりだ。
俺は扉を開く。
すると、包み込むような陽光が降り注ぐ。
風はさらさらと肌をなで、心の奥底がくすぐったくなるような肌寒さに木々は葉擦れの音を奏でる。
則天去私。
この心地よさを前にして俺はそう語った偉人の、自然という母性へのカタルシスを感じる。
少なくとも今の俺にはその言葉を悲観的にとらえるようなペシミズムは内在していなかった。
学校に着く。
今日も変わらず授業が行われる。
俺たちは先生の言ったことや書いたことを熱心にノートに書く。
いつも通りのことだ。
しかし、人間の間でなされるからだろうか。
その授業にはどこか温かみがあった。
コミュニケーションとは原初はノンバーバルであったのではなかろうか。
相手の前でリンゴを指して、それがなっている木の方向を指す。
そしてその相手についてきてもらう。
最初はそういうものだったのではないか。
つまり、我々のコミュニケーションの根幹には非言語的な部分があるように思われる。
その人の身振り手振りやら、語勢やら、そしてそこからうかがい知れる感情やらが根幹にあるのではないか。
人間と人間による会話にはそういうものがあるからどこか温かみがある。
これは、例えば、今発展目覚しい機械がしゃべるようになったとしても到底無理だろう。
なぜなら、これは生物の、長い間培われた進歩に依っているように思えるからだ。
機械というのは余裕がない。
機械というのは与えられた命令をただ淡々とやり続ける。
人間のようにだらけたり、なぜこんなことをしているのかふと考えてみたりはしないのだ。
だから、そんな余裕のない機械に感情を持つことは不可能だろう。
つまり、この温かみというのは我々の内に存在するものなのだ。
寝過ごした。




