愛
我思う故に我有り。
こう言った人は偉大だ。
なぜなら彼は方法的懐疑の極致へと自分を誘い、また、そこから論をスタートさせたからだ。
そして今やその言葉は自己の精神の特権的地位を与える金科玉条となっている。
しかし……彼の言葉の真意は何であろうか。
考えても見てほしい。
彼は自分の精神の価値を向上させたいがためにそんなことを言ったのか。
俺は違うと思う。
実際はこうではなかったのだろうか。
と、まず、結果に入る前に方法的懐疑とは何ぞやというところからスタートしようと思う。
とある文献によると、このように書いてある。
“少しでも疑いうるものはすべて偽りとみなしたうえで,まったく疑いえない絶対に確実なものが残らないかどうかを探る態度”
例を示そう。
例えばバナナを机の上に置いたとする。
その時バナナは確かに机の上にあるように思える。
しかし、こうは考えられないだろうか。
俺たちが見ていない間にバナナは盗まれ、もしくは名だたる怪盗もびっくりのトリックで俺たちの目の前で盗まれ、その代わりに本物によく似た絵があるだけかもしれない。
この考え方こそが方法的懐疑だ。
そして彼はこの方法的懐疑を用いてありとあらゆるものをばっさばっさと切っていく。
そしてついに、彼はこの結論に行きついた。
『我思う故に我有り』
これを世俗的なとらえ方でとらえるのだとすると、“我”と呼ばれる情動全体が確かに有るということであろう。
しかし、この解釈には重大な前提が存在していた。
我々はいつから我々が認識されていると思っていた。
我々の感情のように思えるものも実は世界の一部なのではないか。
感情は外の世界に大きく左右されるではないか。
つまりそれは外の世界とのつながりが強い、もはや外の世界のように思える。
もちろんここでは他者はもう切り捨てられている時点なので、他者の存在どうこうという話ではない。
他者とは人間に限らない。
そうすると残されたのは唯一、思うことのみだ。
思うことは外の世界とのつながりが希薄で、感情のようにすべての物事に対して関連性があるというものではない。
つまり、思うことは外の世界とは独立であるということだ。
そう。
彼が言った“我”とは自己の精神のことではなくて思うことだったのだ。
まとめるとこうだ。
「我思う故に我有り」とは自己の精神を保証するものではない。
我々は思うこと、つまり考えることのみで自分という存在を成り立たせるのだ。
やっぱり一気にまとめて投稿しちゃったほうが起承転結がきれいにまとまっているんですよね。
まあ、考えておきましょう。




