俳句2
まぶしい朝日がカーテンの隙間を縫って俺の部屋に差し込む。
俺はけたたましい目覚まし時計の音で目覚めたはいいものの、いまだ朝日の差し込むほうへ立ち上がれないでいた。
これは俺の怠惰だろうか。
いや、違う。
これは物質的な動き、ミクロな動きが俺に影響を及ぼしたためだ。
だからこの問題の解決を俺がしようとするのは違うだろう。
俺が解決しようとしなくたってミクロの世界が後々解決してくれる。
まあそう思ったところで、解決されるような気配は塵すらもなく、結局主体的にその問題を解決することになったのだが。
ところで、こんなことを言うのは気が違っていると思われそうなのだが、今日も昨日と同様に、なぜか朝が来た。
朝が来たということは結果論ではあるが、昨日が有限だったということだ。
昨日が有限だったとするのならば今日ももちろん有限であろう。
なぜなら有限から無限が始まるとき、スタートの一分から無限は無限であり続けるが同時にスタートの一秒から無限でもあり始めるからだ。
つまりどういうことかと言うと、無限にはスタートがあってはならないのだ。
もしスタートがあった場合、先の例のように一分の無限の中には一秒の無限があり、一秒の無限の中にはコンマ一秒の無限があり……と、最終的には0秒の無限へと行きつくからだ。
ちなみに一秒の無限はいつまでたっても一分の無限にはなれない。
なぜなら、一秒もまた無限であるからだ。
話を戻すとして、しかし、0秒、つまりスタートの時点で時間は有限である。
ということはその0秒は有限であり、かつ無限であることになる。
だが、日々我々が経験しているように有限には無限性がないし、同じく無限には有限性がない。
しかし、とここでこんな質問が来るかもしれない。
しかし我々の情報は無限にあるように見えるではないか。
これは有限であるはずの世界に無限が存在し得るという何よりの証左ではないのか。
確かにそのように思える。
だが、それは一見無限に見えるだけであって、ただ無際限なだけなのだ。
要は無際限が無限の皮をかぶっているだけである。
でも、とここでまたこんな質問が来るかもしれない。
でも神様は全知全能、無限有限のすべてを司り、無限の存在でありながら有限の存在ではないか。
スタートの0秒には神が現れたのではないか。
しかし、ここで思い至ってほしい。
神とは全てを統べるのだ。
つまり、神とはスタートでありながらゴールである。
無限がスタートしたとき、これでは語弊があるため換言すると、無限が存在するとき、ゴールは設定されない。
つまり、神というのはそういう無限というものですらとらえきれない、超越者なのだ。
以上、まとめると今日も昨日と同様に有限である。
この結論で俺が言いたかったのはちっぽけなことである。
後悔せずに生きよう。
本当にちっぽけなことを言ってしまって済まない。
だが、俺の論を聞いてからこの分を見ると少し違って見えないか?
そんなことを考えているうちに蘭との待ち合わせ場所に着いた。
寝てたらもうこんな時間になってしまった。
今回も起承転結で言う起です。
ええ、イエス・キリストもびっくりの構成になってしまってごめんなさい。
ところでこの「イエス・キリストもびっくりの」という発言は昨日から温めておいたんですけど面白かったですか?
まあそんなことはどうでもいいので早く投稿しましょう。




