俳句
光と影は一心同体か否か。
昔の人々の中には影に本質を見出し、影を重視するような美の形式を取った人もいると言う。
例えばある木に光が当たったとしよう。
その人々は、現在では光が先立つと説明されている影を本質だと思ったのだ。
それは現代の我々でも十分に納得もできよう。
しかし、いや、だからこそ問いたい。
光と影は一心同体なのかと。
我々は本当に光と影が一心同体だと深く理解できているのかと。
ということで我々は純粋な光を見ることにする。
しかし、純粋な光を、つまり影のない光を我々は今の状態では見ることができない。
なぜかと言うと、それは我々が光を知覚するとき、同時に我々という影を生み出す物質的存在、先の例で言うならば木があるためだ。
同時に我々は純粋な影というものも知覚しえない。
なぜなら我々は光によって知覚するからだ。
こういってはやや複雑に思われるかもしれないが、我々は光があることによって影を知ることができる。
ということはこの議論は影の知覚というより光の知覚に焦点を合わせるべきというのは火を見るより明らかだろう。
俺は先ほど今の状態では純粋な光を見ることができないと言った。
しかし、だからと言って純粋な光を見ることができる道が絶たれたということではないということはこの言い方から薄々勘付いてくれているだろう。
そう、我々にはまだ方法があるのだ。
それは個の自由が主張されるようになった昨今、「我思う、故に我有り」という、個人主義を標榜するための典拠、金科玉条としてそれが唱えられるようになった現在にぴったりの方法だ。
……我々の精神のみで知覚したらどうか。
つまりは幽霊になってみたらどうかということだ。
確かにこの論は影を作り出すものがないという点で最適だと思われる。
しかし、よくよく考えたらそれは自家撞着のようなものを含んでいた。
光というのはあくまで物質である。
物質の世界にあるということは物質なのだろうという推論に過ぎないが、多分俺の予想は当たっているだろう。
ここで、だったら精神はどうなんだという疑問ももちろん上がってくることだろう。
これに対して一言言うのであればこうだろう。
我々は確かに自分の精神については認識できるが、他人の精神については認識できない。
つまり、精神というのは光のように客観的に確固として知覚できないのだ。
さらに言わせてもらうと我々は自己の精神ですら知覚しているかどうか、いや、もとより知覚はしていないからその時点で精神というのは光とは違う次元にあることは確かなのだが、それでも認識しているかどうかは疑わしい。
つまり精神は、我々の思う非物理的な現象はこの世界に存在しているかどうかすら怪しいのだ。
しかし、我思う故に我有りと言われているではないか。
残念ながらそんなことはないのだ。
これにも一応俺の論があるのだが、それを書くとなると長ったらしく、締まりのない、寄り道だらけの、言いたいことが貫徹されていない文章になってしまうので割愛させていただく。
次の機会にでも書こうか。
で、戻らせてもらうと、光というのは精神と区別されて物理的なものである。
そんなものを一体非物質の精神にどうやって知覚できようか。
それが自家撞着の正体である。
そう、その論は物理的なものを非物理的なものが知覚するという、いわば、さいころを二回振ったときにそれぞれ出た目がそれぞれに影響しあうというほどおかしなことが起きてしまうのだ。
物理と非物理が次元の違うものであることは、文字を見てもらえば明らかであろう。
そんな次元の違うもの同士がどのようにして影響を及ぼしあえるのだろうか。
そういう点でその論は破綻するように思える。
いや、実際は破綻などしていないのだが、今回は通俗的な範囲でのみ、この論を組み立てたいのだ。
著名な哲学者は著書の中で体現した。
俗世の理解は通俗的な価値観のもとで理解されるべきだということを。
つまり真理は俗世に存在する以上、世俗的に理解し得ると。
光と影が一心同体かどうかは、どう見たって世界、ここで言うなら俗世の存在を前提としている以上世俗的であろう。
世俗的とは人間の世論の中での世界のことで、物理現象そのものを指すのではないという批判、確かにごもっともだ。
しかし、それは後々ここではないどこかで解消するからここはぐっとこらえてほしいのだ。
とまあ、論点先取になってしまうが精神が非物理的な存在であるときの物理的な身体への影響の仕方への考察は次の機会にとっておこう。
だから、まとめるならば、光と影は、俺たちがここにいる限りでもいなくとも、一心同体ということだ。
で、本当はここで論を閉じたいのだが、多分俺の論を全部理解してくれた方なら気づいてしまうであろうことがあるので一応触れておく。
いや、俺だって、意見の貫徹性を守りたいしな。
俺は先ほど非物質の精神は物質的な光の影響を受けないというようなことを言った。
そうか、非物質的な精神は物質的な光の影響を受けないのか……ん?
ではなぜ俺たちの体は今ここにいる限り物質的であるはずなのに精神の影響を受けているんだ?
そう、実はこの論は通俗的に捉えるのだとすると精神が非物質的であるという根本から間違っていた。
実は精神は物質的なのだ。
精神とはホルモンの移動それだけのことなのだ。
とするとそれは独我論の克服にもつながる。
他人にも客観的にホルモンが流れていることが分かっているからだ。
まあ他にもいろいろつながりそうだが、これまた長くなるので省略しよう。
と、いろいろ言ってきたが言いたいのはこれだけだ。
光と影は一心同体である。
読み易くなりました。
短くなりました。
本当はもっと短くして連投するつもりだったんですけど、いかんせんここが起承転結の起の部分でどうしても分割できなかったんです。
にしても、これだけ見るといったい何が起こったのかっていう感じですよね。
ご安心ください。
今回も起承転結の起の部分は物語に一切かかわっておりません。
そもそも起承転結があるかどうかすらも怪しいです。
てか、起承転結って何をもって起承転結というのですか?
今回は時間がいっぱいあるのでまだ書きますね。
実は、皆さんにご報告があります。
常軌の過程とは違うものの、この度この物語に感想が付きました。
本日のこれはそれを参考にした結果です。
僕も感想で提言されたことは一生懸命訂正しようと思います。
ですから皆様も感想を書いてくれたらうれしいです。
でも……そうなんですよね。
感想を書いたら読み続けなくてはいけないような気がしてくるんですよね。
かと言ってじゃあ、読むのをやめた理由を感想に書くのもどこか自分の傲慢さというものに嫌気がさすんですよね。
本当は傲慢でも何でもないんですが……
さて、どうしましょう。
ここで僕は思考を放棄します。
放棄という言葉はいささか邪険が過ぎますが、それでもその思考と密になっていた時を鑑みると当たらずとも遠からずなのでしょう。
思考を放棄することは時には大切です。
なぜなら、それによって生じる諸問題との精神的距離が、諸問題を再度対象化し、今までには見られなかった変化や考え付かなかった妙案が現前するかもしれないからです。
ということで僕は思考を放棄しました。
そろそろ投稿時間になったので投稿しますね。




