オフホワイトの世界
はじめまして。男子大学生のキズキです。
この作品は、人生で完結させることの出来た2個目の小説です。自分は気に入ってる作品です。まだアマチュア中のアマチュアですが、読んで頂ければ幸いです。
麺は伸びきっていた。今思えば、三十分程前にカップ麺にお湯を注いだのだ。この時間僕が何をしていたのかというと、天井を眺めていた、としか言うことが出来ない。天井は元々白だったと予測されるが、今やオフホワイトになっており、模様一つ無い。僕が今いる位置から見て右端の方が少しだけ黒ずんでいるくらいだった。だけれど、僕はそれを気に止めていなかった。この三十分という時間の中でも、その黒ずみには目もくれてやらなかった。
完全に汁は吸われていて、麺はべちょべちょだった。食べようか食べまいか考えているうちに、さらに五分が過ぎた。せっかくなら美味しい麺を啜りたかったのだが、今日は他に食べられるものが家に無いということもあり、結局伸びきった麺を食べることにした。いささか嫌な気持ちになった。ここのところマトモな食事をしていなかったし、睡眠不足にもなっていたので、久しぶりに食べるラーメンでさえも美味しく食べることが出来ないのかと思うと、萎えてきた。もうどうでもいいや、という気持ちになって割り箸を半分に割った。上手く割れずに不均等な形をした箸が出来上がった。そんなこんなでやっと麺を口にすると、もう既に冷めてしまっていた。僕が悪いのか?それともラーメンが悪いのか?その答えは誰にでもすぐに分かってしまう問題だった。水分たっぷりな麺を啜っているうちに、ある考えが浮かんできた。麺を汁に長い間浸していると水分を持っていくだろう?それは人間には無理なのか?僕ら人間を水やらお湯やらに長い間浸していたら延命したりしないのだろうか?という考えだった。その答えは「ノー」だった。
カップ麺を食べ終えると、僕は読みかけの小説を開いた。『朗読者』という題名の本であった。僕はこの作品を映画で知り、——映画は異性の友達に勧められた——見終わってから二ヶ月程経ったのちに他大学の友達に勧めたところ、見終わった彼が僕に映画についての意見を求めてきたので、原作が気になって近隣の本屋で購入した。原作は海外のものであり、映画の邦題は『愛を読むひと』であった。地味な映画ではあったが、どこか心打たれたものがあった。僕がこれらから学んだこととしては、自分が良かれと思ったことは本当に相手にとって良いことであるのだろうか、そして愛と呼べるのだろうか、ということだった。それは主に伝えたかったものではなかったにせよ、僕が学んだのはそんなことだった。
休日や祝日は、特にすることもないので『朗読者』を黙読する。短い時は一時間で集中が途切れたが、長い時は五、六時間ぶっ通しで読み続けた。そんな日はよく眠れた。大学やアルバイトが忙しくて疲れた日よりもよく眠れたものだった。
昼から始まった読書を続け、夕方に差し掛かり、僕の耳が時計のチクタク音だけが聞こえる空間に慣れ始めた頃に、突然電話が鳴り響いた。僕の心臓はコンマ一秒活動を止めたようだった。僕は受話器を取って、はい、と言った。
「こんばんわ、遥香です」
それは、大学で知り合った遥香からの電話だった。
「こんばんわ、ハシモトです」
少しの間の後に遥香は言った。「ハシモトくん、今時間ある?」
「本読んでるよ」
「おっけー。なら暇ということだね?」
「聞いてた?本読んでるんだけど」
「それって暇じゃないの?私って、暇な時しか本読まないのだけれど、ハシモトくんは、これから読むぞ、読んでやるぞって本読むの?」
言ってることがよく分からないから、どう返事しようかと考える。「うーん、暇だよ」
「おっけー。なら、今から外に出てきて。駅のドーナツ屋さんで落ち合おう」
「ミッションでも下されるのかい?」
「どうだろうね。まあ楽しみにしてなよ」
バイバイ、と言ってから電話を切った。遥香と電話したのは初めてのことだった。大学でも特別話す相手でもなかったし、正直電話をかけてきたのは驚いた。しかも、呼び出されることになろうとは、天井を見上げていた僕には想像出来なかっただろう。
自動ドアを抜けると、いらっしゃいませーと声がした。僕は適当にドーナツと飲み物を購入し、適当な席に座った。掛時計の針は十七時四十三分を指していた。そろそろ夕飯時か、と思ったら急にお腹が空いてきた。ここで夕飯を済まそうかと思ったけれど、ドーナツでは納得いかなかった。あとで遥香を誘って、どこかへ食べに行こう。
なかなか遥香はやって来なかった。もう十八時半を回っていた。読んでいた小説が終わりに近づいてきたので、早く来てくれと思った。あと三ページ、二ページ、一ページ。そして最後の一行を読み終えた。やはり人にはそれぞれを愛の形があって、愛する人と自分の愛のピースの形は必ずしも適合するわけでは無かったのだ。これは難しい問題だと思った。十九歳の僕には、まだ早かったかもしれないと。この本はもう少し大人になったら読み返すことにしよう。その時には、この著者の伝えたかったことが理解できるかもしれないと思った。
遥香は十八時四十五分に来た。何でこんなに遅いのかと尋ねると、まあまあ女の子はそんなもんじゃないと言われた。それは人によると思ったのだが、これ以上追求すると、何だか怒られそうな予感がしたので黙っておくことにした。
「急に呼び出すなんて、どういう風の吹き回し?一体僕に何の用なの?」
「え?用なんてないよ」と遥香は言った。
全然意味が分からなかった。何のために呼び出されたのだろうか。
「え……じゃあ、何するの?」
「語りましょう」
そこから僕らは、何の生産性の無い話をぐだぐだと続けた。だいたいは彼女が話していた。大学で出来た廣瀬という友達の話とか、哲学の講義の隣席の男子がいつもノートを見せて欲しがるという話、そして貸した後にお茶でもしないか、と誘ってくる話。そいつは多分君の事が好きなんだろうと思った。遥香は一般的に可愛らしい顔をしていた。特別美人では無かったが、僕の好きな顔だった。彼女はドーナツをチマチマと食べながら、そんな他愛も無い話をしていた。僕は基本的に相槌を打ち、追加注文したコーヒーを飲んだ。
「何か面白い話は無いの?」遥香は急に話を振ってきた。
「無いよ。特に面白い日々は送ってない」
そうかー、と言って彼女は紅茶を飲んだ。
「好きなことは?」
「読書……かな」
「つまんなーい。それは趣味に入るの?私だって読書くらいするわよ。でも趣味では無いよ。趣味っていうのは、何かこう、夢中になってのめり込んでしまうものの事を言うんじゃないの?」
「趣味というものの定義がそこにあるなら、僕の趣味は趣味と言えるんじゃないかな。僕は読書している時、本にのめり込んでしまうよ。時間を忘れるくらい。今日だって、昼から何も飲まず食わずでひたすら小説読んでたんだ、君から電話が来るまで。さらに君が遅刻してきて、それを待っている間にその小説読み終えちゃったよ。だから僕の趣味は読書だよ。」
「なるほど、何か納得したわ。読書も立派な趣味なのね。ありがとう。私も本好きになるね」
「無理して好きになる事ないよ」
「何の本読んでたの?」
僕は鞄から『朗読者』を取り出した。「これだよ。映画にもなってるんだ」
「朗読者?何か難しそうな本だね」
「まあそうだね。僕には少し早かったかもしれないと思ったよ。だって愛が何だとかよく分からないからね。僕ってまだ十九歳だからさ、愛がどうのこうのってまだピンと来ないんだ」
「私もだよ。でも、そういう本読むのって大事な事だと思うよ。だって、そういった本から学ぶことってあるじゃない?私、あなたほど本読まないけれど」
「面白いんだよ、この本。愛が何だってのは分からないけれど、この本が面白いってことは分かったよ。学んだこともある。でもドイツの話だから縁が無い事が多かったように思ったよ。でもまあ、読んでみてもいいと思うよ、みんな」
「みんなって誰よ?」
僕は冷めきったコーヒーを啜った。
「世界中のみんなだよ」
結局、夕飯は家で食べることになった。遥香を誘ってみたのだが、家で食べると断言してきたので、それなら家に帰ろうと思ったのだ。家に帰る頃には二十一時を過ぎていたので、近隣のスーパーは閉まっていた。家には何も食材が無かったので、コンビニへ行き、酒とツマミとカップ焼きそばを購入した。大学の近くにあるコンビニは年齢確認されないという緩いシステムになっていたので、容易に酒を買うことができた。スーパーや薬局より少し値段が高いのが気になったが、仕方がなかった。今日は、よく分からない理由で呼び出されたかと思いきや、意外と深刻な問題がそこにはあって、僕は疲れきっていた。
「今日は、何かあって呼び出したんじゃ無いの?」
「何でそう思うの?」
「何でって、そりゃあ理由が無きゃ僕を呼んだりしないと、僕が思ったからだよ。僕らは特別仲が良かったわけじゃ無いじゃない?なのに急に連絡をよこして出てこいだなんて、何かあったとしか思えないんだよ」
「……」遥香は黙っていた。
「言いたく無いなら言わなくていいよ。そんなに気になるわけでも無いから」
「割と酷い事を言うのね。可愛い顔して、あなた酷いところあるのね。でも嫌いじゃ無いよ。なんなら好きよ。でも付き合うとかじゃ無いから許してね、そこは」
もう僕のコーヒーは無くなっていた。次のを頼もうと思ったが、遥香の勘違いを正しておきたかったので次の機会にすることにした。
「誰も付き合ってくれだなんて言ってないよ。適当なこと言ってないで、理由を言ったらどうなんだい?」
「聞きたい?」
「聞きたく無いと言ったら嘘になるかもしれない」
「実はね……」彼女は少し間をとった。
「私ね、二年前から交際している彼がいるの。それでね、一年ほど前かしら。彼が私に暴力振るうようになったの。あ、でも、これは誰にも内緒よ。誰かに言ったことがバレたら、私どうなるか分からないから」
まず恋人がいた事に驚いた。それから、その恋人から暴力を受けているだなんて、自分の耳に疑った。
「それは本当の話なのかい?」
「本当よ。こんな嘘つかないでしょう。誰にも言わないでね、本当に。これを見てよ」
彼女はそう言って、袖をまくってみせた。そこには火傷の跡が残っていた。
「根性焼き?」
「そう。彼、タバコ喫うのよ。それの火を消す度に、私に擦り付けるのよ。本当に熱くって、これ。もう耐えらんないのよ。あなた火傷したことある?」
「無いよ。低温火傷ならあるけれど」
「そんなの比べ物にならないわ。気を失いそうになるほど熱いのよ。やめてって大きな声で言うのよ、私。そうすると、近所にバレたくないのか知らないけど、私を殴って黙らせようとするの。物凄く痛いじゃない?だから、私ぐったりするの。するとね、彼、ごめんって言うのよ。ごめん、もうやめるからって。でも、やめたことないわよ。人間ってそう簡単に変われるものじゃないわね。私、もう疲れきっちゃったのよ」
「それは本当にひどいね。ひどい男だよ。愛する人にそんなこと出来やしないよ、僕は」
「愛してるが故なのよ、多分」
「それは本当に愛って呼べるのかい?そりゃあ、それぞれの人にそれぞれの愛の形はあると思うけれど、それは愛とは呼べないと思うよ。まあ、あくまで僕個人の意見だけれど」
「そう思うのが一般的だわ。でも愛があっても無くても、もう私には関係無いの。私、もう別れたいのよ、彼と」
彼女の目は微かに潤っていた。それが涙なのかは分からなかったが、もし涙だったのならば、僕はそれに気付くべきだったのだろう。気付いて、彼女を救ってあげるべきだったのだろう。しかし、彼女は人前で泣くことを好まない性格のように思えた。だから、僕は気付いていたとしても、その事には触れなかっただろう、と思う。
「僕には何かを言う権利が無いよ。彼のこと何も知らないし。ていうか、君のことも知っているわけじゃない。だから僕は何も言えないんだけど、独り言なら言っていいかい?」
彼女は何も言うことなく、頷いた。
「なんて言うのかな。うまく言えないけれど、僕は、君に幸せになって欲しい。だから、彼とは別れた方がいいと思う。だけれど、僕が思うに、そう出来るのならばとっくにそうしているんじゃないかい?別れられない理由があるんじゃないのかい?これは独り言だから、君は答えることが出来ないけれど、僕はそう思っている。君が抱える理由が何なのか、僕には見当もつかないけれど、僕で良かったらいつでも君の相手になるよ。アルバイトが無い時なら、君のために時間を作るよ。だから頼ってほしい。君に同情するつもりは無いよ、君、同情されるの好まないだろう?これはそんなんじゃないよ」
息継ぎをしたのか分からないほど、早口で喋った。彼女は震えているように見えた。彼女の大きくハッキリとした目は、とろんとしていて、無気力な感じだった。
「ありがとう」そう言って、彼女は残りの紅茶を飲み干した。
天井の右端にあった黒ずみは、心做しか少し広がっているように思えた。前からこんな大きさだったか思い出せない。だけどそんなことは特に気にならなかった。他に気になって仕方がないものがあったからだ。それは昨日の遥香の話だった。今まで特に仲が良かったわけでもない女の子には恋人がいて、その恋人は彼女に暴力をふるっている。それが僕にどんな風に関係してくるのか、僕には分からなかった。分かるはずもなかった。僕には無関係のはずだった。彼女はなぜ僕に話したのか。その理由が分からない。他にも相談する人はいただろう。しかし、彼女は僕に話し、僕の言葉を聞いていた。それはどんなことを意味するのか。
ピーピーピーと音がした。お湯が沸いたことを報せる音だ。僕は台所へ向かい、電気ポットの電源を切り、カップ焼きそばにお湯を注いだ。五分待っている間に酒を一本空けてしまった。もう一本を手に取り、プシューという音と共に僕のやる気と元気が体から出ていくのが分かった。ベッドに座り、コップに注がずに飲む。テレビのリモコンが近くに置いてあったので、テレビの電源を付けると、漫才の番組がやっていた。僕は意識が朦朧としていたために、笑いどころが分からなかった。その番組の面白さも分からなかったし、遥香という女の子の人生の面白さも分からなかった。僕の頭の中は彼女でいっぱいだった。ツマミを買ったことを思い出し、鞄の中から取り出して頬張る。それはいつもより苦く感じられた。その理由は明確だったが、なぜ僕がこんなにも悩むことになるんだ、と思った。彼女が僕という友達でない男に話したということが、全く理解できなかった。でもそれは、それほど深い意味を持つものでは無いのかもしれない。ありったけの知識を使って思考を巡らせたが、もうダメだった。僕はそのまま眠りについてしまった。
朝七時に目が覚めて、酔いが少し残っていることに気づく。二本目の酒は少し余っていたが、もう飲む気になれなかったので台所へ捨てた。すると、そこにはカップ焼きそばが置いてあった。しまった、と思った。昨日作ったまま、食べなかったのだ。麺はべちょべちょになっていて、とても食べられるものでは無かった。そして、昨日夕飯を食べていないことに気づくと、お腹が空いてきた。インスタントの味噌汁を作り、ご飯をレンジで温めると、いつもの朝食がそこにはあった。僕は朝ごはんが一番好きだ。昼や夜の方がマトモなものを食べていないということもあったが、朝ごはんにはどこか幸せが含まれているような気がするのだ。特に幸せとは呼べない僕の人生に、少しだけ幸せを与えてくれるようだった。
朝ごはんを済ませると、シャワーをして寝癖を直し、歯磨きをする。それから、服を着替えて大学へ向かう。これが僕の朝のルーティーンである。平凡な僕の平凡なルーティーンだ。
大学に着くと、教室は生徒でいっぱいだった。その中に僕の方を見つめている男を見つける。彼は全力で手を振っていた。僕は彼の元へ向かい、隣の席に座った。
「おはよう、席取っておいてくれてありがとう」
「いいってことよ」ミシマは言った。
「ミシマ、申し訳ないんだけど……。」
「ああ、出席な、ええよ。代わりに取っておいてやるよ」
「ごめんよ、ありがとう」
そう言ってから、僕は教室から出て、喫煙所へ向かった。喫煙所へ行っても、僕がタバコを喫うわけではない。そこにいる人に用があったのだ。喫煙所に近づくと、やはり彼は居た。
「加藤さん」
そう声をかけると、彼はタバコを咥えたまま振り返った。
そこは、副流煙という名の悪魔で満ちていた。僕は剣も持っていなければ、魔法を繰り出せる杖も持っていなかった。ただただその悪魔を体内に取り込み、自身のライフポイントを徐々に減らしていった。盾は持っていたが、そんな布きれで顔を覆ったところで何の効果も得られず、すぐに取り外した。僕はタバコが大嫌いだ。幼い頃、父親を禁煙させようとしてタバコを隠そうと試みたことがあったが、その企ては失敗に終わったのだった。彼は、タバコが無いことに気づくと、黙ってコンビニへ出かけていった。それから十分くらい経って帰宅すると、台所でタバコを喫い始めたのだった。僕はそれを見てとても悔やんだ。子供がすることは無力なのだと。さらに、タバコを素手で掴んだため、右手には恐ろしいほど強烈な臭いがこびりついていた。何回も何回も石鹸で手を洗ったが、その臭いはしばらく取れることはなかった。そんな幼き頃のトラウマによって、僕は大のタバコ嫌いになったのだった。
加藤さんは人差し指と中指でタバコを挟んでいた。僕を一目見ると、タバコの火を消し、仲間に挨拶した。ベージュのロングコートのポケットに手を突っ込みながら此方へ歩いてくる。髪の毛はストレートで少し茶色がかっており、顔がシュッとし、モデルのようなスタイルをした、いわゆるハンサムだった。
「よお、ハシモト。元気だったか?」それほど久しぶりでもないのに、恰も久しいような素振りである。
「それほど久しいわけでも無いじゃないですか」
「相変わらず冷たいなあ、ハシモトくん。そんなんじゃ女っ気一つないだろう?こういう時は、元気ですよって言っとくんだよ」
僕は少しためらった。「元気ですよ」
加藤さんに初めてあったのは、大学に入学した頃だった。僕が次の講義が行われる教室に辿り着けず、途方に暮れていたところを助けてくれたのだった。どうしたんだ、とハンサムに声をかけられたものだから、怖気付いてしまい、上手く喋れなかったと記憶している。学年が二つ上の彼は、丁寧に教室の場所を教えてくれた。それから一ヶ月ほど経った頃、街中で彼が女性と歩いているところを見かけた。
「こんばんは、加藤さん」
彼は僕のことが分からないみたいだった。誰だ、というような顔をしていた。
「ほら、先月に教室の場所を教えてくださったじゃないですか」
自分が何者なのか説明すると、彼は、あの時の少年か、と思い出してくれたようだった。僕は、彼の隣に立っている女性のことが気になりながら、数分間彼と立ち話をした。そこで分かったのは、学年でいうと二つ上だが、歳は三つ離れていること、中学三年生で受験生の弟がいること、大学の近くに下宿していること(僕の下宿先の近くだった)、バイトはしていないこと、隣にいる女性は恋人ではないこと、というものだった。では隣の女性は誰なのか、と尋ねたところ、「友達」だと教えてくれた。「友達」という言葉には、何か深い意味が込められているように思えた。ただの友達ではなく「友達」であるのは、そういうことなんだろう、と。そういった関係は僕には無縁なことだったので、深く追求しないことにした。それから僕らは別れ、彼らは寄り添いあいながら街中を歩き、僕は一人で歩いた。雨上がりの夜の街はとても美しかった。道路に溜まった雨に、立ち並ぶビルや街灯の灯りが反射し、人々を下から照らしていた。その鏡のような水溜まりを僕は踏みつけた。鏡に波紋というヒビが入り、湿度にまみれた街が歪んでいった。
僕は前髪をいじった。少し癖っけのある髪の毛は変な方向に跳ねていた。今日の朝はストレートアイロンをし忘れたために、前髪は元気に跳ねていた。
「連絡もよこさずに約半年間どうしてたんだ?」加藤さんは少し怒り混じりな声で言った。彼の後ろには『B棟』という文字があった。
「特にどうもしてないですよ。でも、連絡をずっとしていなかったことは謝ります。ごめんなさい」
「いや、謝ってほしいわけじゃなくてな。俺は、お前のことを心配していたんだよ。ほら、去年の七月頃にお前事故しただろ?取ったばかりの免許で車なんか走らせるから。あれから何も連絡ないっていうのは、いくらなんでも心配すんなと言われても無理な話だぜ」
加藤さんはロビーに置いてある電光掲示板を見て、もう一月か、と呟いた。
「本当にごめんなさい。お騒がせしました。でも、もうすっかり元気になりましたよ。骨折していた腕も完全に治ってしまって、一人で快楽へ導けるようになりました」
加藤さんは、うはは、と笑った。
「そんな冗談も言えるのなら、もう大丈夫だな。で、お前、何か用があってきたんだろう?場所移すか」
僕らは大学から出て、加藤さんの下宿先へと向かった。そこは、僕の大学の学生の中でも特に金持ちたちが下宿している立派な宿舎だった。僕の下宿先とは比べ物にならないほど綺麗で、大きかった。お邪魔します、と言うと、どうぞどうぞ、と返ってきた。加藤さんは僕を大きなソファに座らせ、台所へ消えていった。壁の向こうでは、ポコポコという音がしていた。おそらくコーヒーでも淹れているのだろう。食器の音がカチャカチャと響き、時計の音がかき消された。少し経つと、彼は両手にマグカップを持ってやってきた。
「最近引っ越したばかりでな、こんなコップしかない」と彼は言った。立派なコップじゃないか、と僕は思った。
僕は、昨日遥香から聞かされた話を加藤さんに全て話した。彼女には誰にも言うなと言われていたが、最も信頼のおける加藤さんには話すべきだと思った。なぜ僕が加藤さんのことを信頼しているのかというと、どうしてか信頼してしまったからだった。特にこうだという理由は無かったが、信頼してもいい人は分かっているつもりだった。
「つまり、お前はどうしたいんだ?」加藤さんは僕を試しているような目つきで尋ねた。
「救いたいんです。彼女が言ったように、彼女の恋人は愛してるが故に暴力を振るっているのかもしれません。でもそれは、僕にとっては愛ではありません。これって、間違っていますか?僕はそう思いません。だから、彼女を救いたいんです。でも、どうしたらいいか分からないんです。加藤さんから何かアドバイスを貰いに来たわけじゃありません。あなたに話せば、何か少しでも自分の中で解決していくんじゃないかと思って話しました。独り言だったのです。さっきから独り言を話していたのです」
加藤さんは僕の目をじっと見て黙っていた。何かを訴えかけているようにも見えたし、そうでもないようにも見えた。
「解決したか?」それだけ言った。
僕は少しの間黙ってしまった。しかし、もうやることは分かっていた。それは明確なことだった。加藤さんに話す前から分かっていたのかもしれなかった。僕は加藤さんの目をまっすぐ見つめた。
「ありがとうございました」そう言ってから僕は、大学へ戻っていった。
大学へ戻ると、B棟から業火のごとく火が燃え上がっていた。B棟には実験室があり、そこで実験を行っていた学生が誤って火事を起こしてしまったらしかった。加藤さんの家へ行っていなかったら、僕も火事に巻き込まれていたところだった。棟の外には避難した学生たちが集まって、具合悪そうにしていた。僕は、ミシマを探した。さっきまでこの棟で講義を受けていたからだ。しかし、ミシマはどこにもいなかった。すると、棟の中から一人の女子学生が出てきた。目から滝のような涙を流し、何か言っていた。僕は彼女の近くに行き、それを聞き取った。
「まだ中に人がいます。同学年の少し髪の長い男の子です。私を助けてくれたのですが、彼が閉じ込められてしまいました……」と言った。
ミシマは少し髪の長い男だった。でもそれは、ただの偶然であったほしかった。いや、偶然でないわけがなかった。しかし、僕は何も出来なかった。燃え盛る炎の中になんて行けやしないし、行けたところで生きて帰ってこれる保証はなかった。
しばらくすると、消防士が男子学生を抱えて棟から出てきた。僕は彼の顔を見たくなかったが、見ないわけにはいかなかった。ミシマでないことを確認しなければいけなかった。しかし、見るべきではなかったのかもしれない。燃えてボロボロになった洋服を着た彼は、紛れもなくミシマであった。僕は崩れ落ち、声が出なくなり、息ができなくなった。炎は轟々と燃え上がり、僕から酸素を奪い取っていった。
火事から一週間が経った。僕は奇妙に思っていた。一週間という時が経っているのに、ミシマの葬式は行われていなかったのだ。ただ僕に案内が来ていないだけなのかと思ったが、誰のところにも来ていないらしかった。念のため玄関に降り、郵便物の確認をした。するとそこには一通の手紙が置いてあった。冬空は虚しく流れていき、黒ずんだ雲が空一面を覆っていた。僕の部屋の天井にある黒ずみは、いつかこんな風になるのかもしれないと思った。
『橋本涼太様』。手紙にはそう書いてあった。差出人の名前は書かれておらず、誰からの手紙なのか、なぜ僕の名前を知っているのか、謎めいていた。
橋本涼太 様
お忙しいところ勝手ながらに手紙を送らさせていただきますこと、お許しください。こちらであなたの個人情報をお調べしたこともお許しください。もしお許しいただけたのなら、この先をお読みになってください。この手紙は、あなたのためでもあり、三島光輝のためでもあるのです。
単刀直入に言いますと、三島光輝は死んでおりません。ただ、話すことや動くこと、目を開くことさえ出来ません。ただし、考えることだけは可能です。よく分かりませんよね。そこで私は思ったのです。あなたに、ここに来て欲しいと。もし、あなたが三島光輝に会いたいと願っているのなら、ここへ来てください。ここの施設はインターネット上に載っておりませんので、地図を同封しております。お待ちしております。
僕はその手紙を何回も繰り返し読んだ。意味が分からなかったのだ。ミシマが生きているなんて僕には理解出来ず、頭が混乱していた。一体誰からの手紙なのだろう。どこの誰か分からないが、不謹慎な悪戯は辞めて欲しかった。いや、悪戯ではないのかもしれないが、彼が生きているなんてことは信じられなかった。一度その施設へ行ってみてもいいのかもしれない。本当に存在するのか、本当にミシマは生きているのか、確かめてみるのもいいかもしれない。そこで僕は思い出した。彼の葬式が行われていないことを思い出したのだ。なぜ数週間経った今になっても彼の葬式は行われないのか。その理由はここにあるのではないか。そんな気がした。この手紙は、その理由を僕に教えてくれるものではないのだろうか。しかしその施設が安全である保証はどこにもないのだ。逆を言えば、安全でない保証もないのだが。僕はとりあえず考えることを先延ばしすることにした。今考えても仕方がないと思ったのだ。今考えたところで何も解決しないと、誰かの囁きが聞こえたような気がした。
僕には一つ上の姉がいた。とても品のある、気の優しい女性であった。僕はそんな姉が大好きだったのだ。歳は一つしか変わらないのに、精神年齢はかけ離れていた。とても面倒見が良く、両親は僕の世話を彼女に任せっきりにしていた。朝起きてから夜寝るまで、彼女は僕のことばかり考えてくれていた。しかし、姉が高校に入り、夏に差し掛かった頃、彼女の帰りは次第に遅くなっていった。僕はそこまで気になっていなかったが、両親は毎晩心配をするようになった。そんなに心配することは無いと告げたが、僕の声はまるで存在しなかったかのように返事はなかった。彼女は毎晩遅くまでどこで何をしているのだろう、と思わなかった訳では無い。しかし、人間が出来ている姉に対し、変な心配は不必要だと分かっていた。姉は大体二十三時頃に帰宅するようになり、玄関で待っていた母によく怒られていた。僕は階段の上からその会話を聞き、母に怒りを覚えていた。幼い頃から僕の面倒を姉に任せっきりにし、姉の自由を奪い、好きなことをさせてこなかったくせに、僕が大きくなりやっと自由が訪れた彼女に何が言えるのだろうと。父は黙ってその会話を聞いているだけだった。何かを言ってやれと思っていた。しかし、おそらく父は母の味方をするだろうと理解していた。両親のことを理解していた。僕は姉の味方のつもりだったのだ。何故かって、僕は姉のことが大好きだったからだ。でも僕は、それを表に出さないようにしていた。姉にもそんな感情は悟られないようにしていた。何も実の姉に対し、性的な感情を抱いていた訳では無い。ただ、家族として、弟からの愛として、姉のことが好きだったのだ。
姉は一度だけ、朝に帰ってきたことがあった。それは土曜の朝のことであった。朝帰ってきた姉と玄関で偶然出くわした僕は何食わぬ顔で、おかえりと小さな声で言った。姉は、ただいまと微笑んだ。僕は彼女の笑顔が好きだった。ブレザー姿も、私服姿も美しかった。生粋の美人であった。僕も、もう少し彼女に似ていれば幸いであったが。僕は洗面所に行き、歯ブラシに歯磨き粉を乗せ、リビングへ戻ろうとした時、そこから怒鳴り声が聞こえてきて驚いた。母の声だった。獣のようなその声は家中に響き渡った。帰りの遅い姉に対しての怒りであった。僕はリビングの扉を少しだけ開き、中を覗くような形で歯磨きをしていた。姉は俯いて母からの罵倒を受けていた。母は正気を失い、ただただ姉を責め立てていた。僕は母に対し腹が立っていたのだが、ここで自分が割って入っても姉の立場が良くなるわけでもないので扉の隙間から覗くことに留めておいた。母は五分ほど怒鳴り続けて、終いには姉を平手で打った。姉は驚いたような顔をしていた。確かに母が姉に暴力をふるったのは僕の知る限り初めてのことであった。母は気が済んだ様で台所へ戻っていき、姉は動かなかった。僕は未だ扉の隙間から覗いていた。口の中が泡でいっぱいになってしまったので、急いで洗面所へ向かいうがいをした。口を拭ってリビングの扉に戻ると、姉はもういなかった。家の中は誰も存在していないように静かであった。母の存在も感知出来なかった。喉が乾いていたので冷蔵庫を開け、お茶を取り出しコップへ注いでから一気に飲み干した。二人はどこへ行ってしまったのだろうかと思ったが、そこまで気にならなかった。特にすることもないので二階の自室へ向かうと、その途中にある姉の部屋から物音がした。
「お姉ちゃん。大丈夫?」僕は扉の外から声をかけた。
「涼ちゃん?何でもないのよ。気にしないで」姉の声は震えているような気がした。
姉は扉を少しだけ開け、手を伸ばして僕の頭を撫でた。子供扱いは好きではなかったが、姉のそうされるのは嫌いではなかった。姉と触れ合えるのは嬉しいことだった。しかし、やはり不思議な雰囲気が家の中に漂っており、僕は僅かに気持ちが悪くなっていた。それを何から感じているのか分からなかったが、やはり不穏な空気で満ちていた。そして気づいた。やはり母は存在しなかったのだ。
同封されていた紙を開くと、そこには手書きで丁寧に地図が描かれていた。定規でしっかりと正確に描かれている。それは森の奥深くにひっそりと建てられており、人気が全くと言っていいほど無かった。家から最寄りのバス停から乗り、森の中にある橋の上に設置されたバス停で下車した。綺麗な森だ。道はきちんと整備されており、川は綺麗な透明で、空気は瑞々しく澄んでいた。湿気はそれほど無く、気温も涼しかった。もうすぐ冬になるため寒いのかと思い、薄めのコートを持参したが、どうやら必要ないらしい。僕は地図を開いて、それに従って道を進んだ。道行く中で、リスやカエルに出会った。しかし僕は、それほど動物に興味がある訳では無いので特に反応はしなかった。下車したバス停から二十分程歩くと、開けた場所に出た。直径五十メートル程の円形になっており、真ん中に祠が建てられていた。目的地はそこのはずだったが、小さな祠がぽつんとあるだけだった。
どうやら道を間違えたみたいだ。僕は辺りを見渡してから、地図を再び開いた。少し来た道を戻ってみたが、やはり間違っていないらしかった。おかしいなと思った。てっきり大きな施設が待ち構えているのかと思っていたが、そんな建造物はどこにも見当たらない。世の中から隔離された存在だということを僕に示しているようだ。不気味なくらい辺りは静寂だった。もう一度、祠がある場所に戻ろうとしてみたが、どれだけ歩いても祠は見つからなかった。先程の開けた場所も無くなっていた。いや、元々存在しなかったのかもしれない。僕はもう地図を持っていなかった。さっきまで持っていたという確かな記憶も存在しない。地図なんて同封されていなかったのかもしれない。
「ここはどこなんだ」呟いた。
すると背後に何かの気配を感じた。振り返ってみると、そこには丁寧に積木を積み上げたような頑丈そうな建物があったのだ。さっきまで無かったのだが。ため息が出た。それは深く深く体から全ての空気を吐いてしまったようなため息だった。
その建物にはひとつも窓がなかった。さらには扉もどこにもないみたいだった。周りを一周してみたが、やはりどこにも何も無い。ただ大きな岩がドンと置かれたみたいだった。僕は呆然として立ち尽くしていた。瞬きをする。ドライアイを持っているために、すぐ目が乾くのだ。少し長く目を瞑る。深呼吸をした。すると微かに冷たい風が僕に吹いた。驚いて目を開けると、辺りは黒々として何も見えなかった。本当に何も見えないのだ。自分の存在さえも確認することが出来ないくらいに。右手を動かしてみたが、動いている気配はない。左手も右足も左足も、まるで虚無になっていた。自分が今まで生きてきた過程が全て否定されているかのようだった。しかし、もうそんなことはどうでも良くなったのだが。ここでは思考という概念がないのかもしれない。なにか言葉を出してみようと試みたが、それさえも許されなかった。
バン、という音と共に光が灯された。たった今、世界に命が宿されたかのようだった。そこは壁一面真っ白であった。いや、少しくすんだような白さだった。オフホワイトとでもいうべきか。人間の心の内を表しているかのように、完全な白ではなかった。さっきまでとは真反対の異世界に迷い込んでしまった。まるで訳が分からなかった。今、自分がどこにいるのか、生きているのかさえも分からない。とりあえず前に進んでみる。幅五メートル程の廊下を直進する。両側の壁には等間隔で扉がついていた。各扉の右には(誰のものかは分からないが)名前が記されていた。山中渉、斎藤美沙子、藤井智和、岸宮進、近藤千賀、墨咲琴音、今倉太一。ここの従業員の名前だろうか。それともここは病院かなにかの施設で、入院患者のそれなのだろうか。僕には確かめようが無かったが。しかし、どこまで行ってもこの廊下に終わりは来ないようだった。
何分歩いただろうか。もう時間の感覚が狂っていた。誰もいない、何も聞こえない。気がおかしくなりそうだった。
「誰かいませんか」小さな声で言ってみる。しかし、何の音沙汰も無い。
「すみません。誰かいませんか」少し声量を上げてみたが、返事は無い。
「すみません!誰かいませんか!」腹が立って叫んでみた。すると、どこからか声がした。
「コードをお願いします」コードをお願いします。僕は繰り返した。コードって何のことか分からなかった。
「知りません。初めて来たものですから」
数十秒の沈黙があり、やがてまたどこからか声がする。「申し訳ございません。新規の方でしたか。今、スタッフをそちらに向かわせますので少々お待ちいただけますか」
随分と長い間ここにいるのだが、と思ったが言わないでおいた。
「はい」と返事をしたが、天の声はもう何も言わなかった。
それから数分が経った頃、一人の女性がどこからかやって来て僕の背後に立っていた。
「お待たせ致しました。わたくし、アヤコと申します。日向絢子です。」とても美しい女性であった。見事にケアされた艶のある長い髪、キメ細かい白い肌、贅肉が削ぎ落とされたような細い足、人形のような整った顔。完全と言わんばかりの美しい女性だった。「こちらへどうぞ」
僕は彼女の後ろをついて歩いた。彼女が通ったあとには優しい甘い香りが残っており、僕の好きな香りだった。誰かの香りと似ていると思ったが、それが誰なのか思い出すことは出来なかった。懐かしい匂いだった。
「そういえば、お名前を教えていただけますか」彼女は思い出したかのように話しかけてきた。
「ハシモトです。橋本涼太です」
「ありがとうございます。ハシモトさん、ここへはどうやって?」
「バスで来ました」
「手紙がよこされた、とか」
「あ、はい。郵便受けに一通の手紙が入っていました。そこに地図が同封されていたので」
「地図?ここへの案内ですか」
「はい。でも、もう持っていません。どこかに忘れてきたらしいです」
「それは確かですか」
「というと?」
「あなたは初めから地図を持っていましたか?どこかに忘れてきたらしい、というのは確かなものですか?ここへはどうやって来ましたか」
僕は彼女が言っている意味が分からなかった。
「そう言われてしまうと、何とも言えません。地図が存在したかも分からないし、僕がここへどうやって来たのかも分かりません」
「それは困りましたね」アヤコさんは微笑んだ。
「しかし、それでいいのです。ハシモトさん。いや、リョウタくん」彼女は何故か言い直したが、僕は特に気にならなかった。それは、かつて母が僕を呼ぶ言い方であった。
静かな空間が広がっていた。僕はここが何なのか分からなかったが、部屋の中央にある水槽のようなものが僕の想像を遥かに越えているものであることは分かっていた。それは今まで見たこともない装置である。現時点でその装置について分かっているのは、人が中に入っているということだけだ。全裸になった人間が水槽の中で浮いている。水らしきものに浸されているのだ。
「ミシマさんですよ」アヤコさんは言った。
僕は返事をせずにそのミシマらしき人間を見つめていた。毛という毛は全て無くなっており、目を閉じ、赤ん坊のようにうずくまっているために、それが本当にミシマなのかどうか確認出来なかった。しかしそれは、ミシマであるということであった。
「ミシマなんですか」
「はい。彼は大学で起こった火事により、命の存続が難しい状態にありました。しかし、現時点では亡くなっておりません。それは確かなことです。今、あなたの前におられるのは、三島光輝さん本人です」
僕はよく分からなかった。
「何で死んでいないんですか?僕は目の前で真っ黒焦げになったミシマを目にしました。あれだけの大火傷を負っておいて、生きていると言われても信じ難いです」
「それは無理もありません。しかし、ミシマは生きています。それは手紙にも書かれていたはずです」彼女は、なかなか理解しようとしない僕にため息をついた。
「これは特別な装置なんですよ。世には出ておりません。ここは秘密裏にされている施設ですから。この水槽のような物は、人間の寿命を延ばすことが出来ます。瀕死状態でなくても構いません。健康な状態で入っても、効果は得られます。しかし、それなりの代償を払う必要がありますが」
「代償とは一体何ですか」僕はミシマを見続けたまま尋ねた。
「オフホワイトです」アヤコさんも水槽に目をやりながら答えた。
オフホワイト、僕は繰り返した。よく分からない言葉であった。
「記憶ですよ。この水槽で命を延ばした者は、記憶が失われるのです。本人の記憶だけではありません。その人と繋がりのある人間から、その人に関する記憶が全て失われるのです。それから、本人は記憶が無くなっているわけですから、この装置『ライファー』に入ったことも忘れてしまいます」
オフホワイトやらライファーやら、少し時間を与えられないと理解出来そうになかった。
「もとある記憶から、蝕まれるように黒く記憶が消されていく。白かったものがくすんでいくのです。人の心のように。だから私たちはそれを『オフホワイト』と呼んでいます」
「ところでアヤコさん、ミシマはいつまでこれに入り続けるのですか」
「さあ。私には分かりません。明日かもしれないし、来年かもしれない。もしくは、もう出てこられないかもしれません」
ああ、と思った。僕はもう考えるのはよそうと思った。
その時、シューという音と共にオフホワイトの扉から煙が噴き出した。扉はゆっくりと開き、中の液体は外に飛び出した。足元はぐっしょりと濡れてしまったが、それよりも何が起こったのかに興味があった。閉じ込められていたミシマが床に放り投げられる。僕はそれをただ見ていた。アヤコさんは慌てて大きな白いタオルを持ってきてミシマの上に広げた。彼は瞼を開け、眼球を動かす。それから、生まれたての子鹿のように、発達していない筋肉で立ち上がろうとしていた。彼はガリガリに痩せ、死神のようであった。そしてよろよろと歩き始めた。まるで僕のことが認識出来たかのように目配せをした。しかし彼は、何も言わず部屋の奥へと歩いていき、やがて闇に消えた。それは、もう二度と彼には会えないことを示唆しているかのようだった。僕はそれでも構わなかった。死んだと思っていた友人に再び会えたのだ。それだけで十分だった。しかし、矛盾は生じていたことに僕は気がついた。アヤコさんは、『オフホワイト』に入った人間やその周りの人から、本人に関する記憶が無くなると言った。だが、ミシマは僕を認識した。それは一体どういうことなのだろうか。僕には到底理解し得ないことのように感じた。
アヤコさんは水浸しになった床を見つめてから、僕に顔を向けた。
「今日は、ハシモトさんに『オフホワイト』を見てもらいたかったのです。まさかミシマが覚醒するとは思いませんでしたが。しかし、また会えるかどうかは分かりません。わざわざお越しいただきありがとうございました」彼女は深々とお辞儀をした。
「はい」僕はそう言って会釈をした。
アヤコさんに連れられて、僕は施設から出た。どうやって来たのか分からなかったが、何故かバス停まで迷わず行くことが出来た。僕はバスに乗り、今日の夢のような出来事を反芻した。人間の寿命を延ばすことができる装置、生きていたミシマ、日向絢子、オフホワイト、ライファー。
森は静かに流れ、鳥は美しく歌い、僕は深い眠りについた。木漏れ日がバスの中の僕を照らし、安堵させる。この夢はどこで終わりを告げるのだろうか。また来ることは可能なのだろうか。青く澄んだ空の奥には黒々とした世界が広がっているのだ。そこから伸びた手が空をかき分け、穴を開け、僕を掴む。それは不吉な事が起きる予兆なのかもしれない。
以前、彼女は言った。交際している恋人から暴力を受けていると。僕はそのことについて考えずにはいられなかった。なぜ今まで関わりのなかった彼女の黒い部分を知ることになってしまったのか、僕にはよく分からなかった。部屋のカーテンが、緩やかな風に吹かれて優しく靡いていた。ふわり、ふわりと踊っているように見えた。その向こうには澄んだ青空が広がっていたが、大空の奥の方は鉛色で染められており、淀んでいた。それは明らかにこちらへ向かっている空色であった。
時刻は既に十五時を回っており、今起床したことに後悔のほか感じるものは無い。昨晩、午前三時まで映画を見耽っていたことに原因があることは考える前から分かっていたが、それは既に習慣になってしまっていた。根付いてしまった習慣は簡単には直せない。直すのにはそれなりの時間と意識が必要になってくる。その習慣が悪いものであればあるほど、その時間と意識は、多く強いものが必要になってくるのだ。しかし、まだ十五時だというのに外は、空もビルも人も道路も、夕陽の橙色で染め上げられている。僕の部屋もまた、その光が差し込んでおり、淡い色で覆われている。鴉の鳴き声が街中に響き渡っているかのように、スピーカーの如く爆音で聞こえてきた。僕の精神は研ぎ澄まされているようだった。他人にあまり興味を持たない僕は、これだけ彼女の事を考えていることに自分でも驚いているほどだったのだ。
僕はベランダに出て、静かに色を変えてしまった無限に広がる空を見上げた。冬空の下で生きている僕は、無力だった。それに今気づいたのだ。これだけ考えても、何をしてやれば良いのか検討もつかなかった。やはり解決はしていなかったのかもしれない。だが、解決は不可欠である。彼女はわざわざ僕を呼び出し、自然な顔で僕に打ち明けたのだ。いや待てよ。なぜ呼び出したはずの彼女が、一時間以上も遅れて来たのか。電車が遅延していたのか、それとも化粧や何やかんやで時間を取られたのか。いや、あの日も彼女は恋人に会っていたのではないか。そして、僕と会う前も暴力を受けていたという可能性は無いだろうか。いやいや、全然可能性しかないじゃないか。そんな弱った状態で彼女は、僕の元へ来たのか。でも、他愛のない話ばかりしてすぐには本題に入らなかった。それは何故か。
僕はポケットからスマホを取り出し、遥香の電話番号を探した。声が聞きたかったのだ。しかし、僕のスマホに彼女の電話番号は記録されていなかった。だとしたら、彼女はどうやって僕に電話をよこしたのだろうか。いや、そんなことは今どうでもいいことだ。今すぐに彼女に会って話をする必要があった。話をしなければいけない、そんな気がしたのだ。
確か、彼女は細畑駅の近くに住んでいると言っていた。僕は名鉄電車に乗り、その駅へ向かった。十分足らずで着いたが、そこからどうすればいいか分からなかった。今思えば、こんな無計画に外に出てくるのは初めての事だ。ホームのベンチに座り途方に暮れていたが、ある考えに辿り着いた。大学の友人が、彼女の連絡先を知っているかもしれないと。早速、手当り次第に電話をかけ(事情は何となく誤魔化した)、その作業に取りかかってから約二十分経った頃に遥香の連絡先を手に入れることが出来た。ふと掛け時計を見上げると、針は十八時ぴったりを示していた。
僕はすぐに電話をした。ぷるるる、と耳許で鳴り響く。三回コールが鳴った後、それは鳴り止んだ。
「もしもし」それは間違いなく彼女の声だ。
「ハルカ!今どこにいる」僕は食い気味に言葉を発した。
「どなたですか。まず名前を言ったらどうですか」彼女は僕のことが分からないらしかった。それはそうだと気づき、失礼なことをしたと思った。
「ハシモトです。申し訳ないが、連絡先を知らなかったから大学の友人に教えて貰った」
「ああ、ハシモト君か。ビックリしたよ、画面に『ハシモト君』て書いてあったけど、君が私の番号知ってるなんて思わないし」
それは僕も言いたいことだったが、今はどうでも良い。
「それで、今どこにいるんだ。君の家の近くの駅にいるんだ。おそらくここだと思う。今から会えないか」僕は焦っていた。僕が焦ったところで何かがどうかするわけでもなく、僕が彼女に会ったところで彼女の人生が変わるとも思えなかったが、今会うべきなのだと、確信していた。(なぜそこまで確信していたかは分からない)
「分かったよ。なんだかよく分からないけど、私も君に会いたいし。いいよ、今からそっち行くから少し待っててね。」そうして僕達は電話を切った。
辺りはすっかり暗くなっており、ホームの小さな光だけが頼りだった。空には星は無く、月はどこにあるか分からなかった。僕だけが見えていなかったのかもしれないし、空から月が消えていたのかもしれない。その真相は明らかになっていないのだが、月が無くなることは無いだろうと思った。ふと前を向くと、向かいのホームに人影があるように見えた。もう来たのか。電話を切ってから一分程しか経っていないが。向かいのホームの人影は微動だにしなかった。何かと見間違えたのかもしれない。しかし、人の気配を僕は感じていた。小さなホームの光を頼りに目を凝らすと、やはりそれは人であった。いや、人の形をした何かであった。僕は、その得体の知れない何かから目を離すことが出来なかった。僕は、自分の意識で体を動かすことが出来ずにいた。しかし、その『人の形をした何か』からは懐かしいものを感じ取っており、それは不気味に僕を安心させていたのだ。涼ちゃん、と耳許で誰かが囁いた。それは聞き覚えのある懐かしい声だった。その声の主が誰であるのか、僕には考える時間は必要なかった。それは紛れもなく、姉の声だったのだ。だが、それは実に奇妙な事なのだ。姉は、三年前に亡くなっているのだ。ごめんね、とまた声がした。僕は目から溢れ出ている冷たいものを微かに感じていた。
視界には何も映っておらず、ただ真っ暗な世界が迎えていた。僕は安堵を覚え、その闇に身を任せていたが、その闇の優しさの中に潜むものが垣間見え、恐怖が一気に押し寄せてきた。僕は意識を取り戻すことに専念した。遠くから階段を掛けおりる足音が聞こえてきたが、その足音は僕の敵でないことは明確だった。大好きな姉から恐怖を感じたのは初めてでは無かったが、これだけ逃げてしまいたいと思ったことは初めてであった。何とか意識を取り戻した僕は、体の内側から吐気が込み上げてきて、ホームに吐き出した。恐怖と一緒に姉との思い出も少し吐いてしまったかもしれない。寒気がした。それは気温のせいなのか、姉のせいなのか、僕には今とても理解出来るはずもなかった。酷く混乱しており、思考回路が絶たれていた。先程、階段から駆け下りてきた女性が僕の背中に手を当て、摩ってくれたおかげで吐気はもう込み上げてこなくなった。ありがとうございますとお礼を言い、顔を見上げるとそこには遥香がいた。その綺麗な顔と彼女の温もりに穏やかになった僕の精神はぷつっと途絶え、僕は意識を失った。
目を覚ますと、そこは見慣れない光景だった。天井には男性アイドルグループのポスターが貼ってある。辺りを見回すと、ピンク色をした物が多いようだ。自分の部屋ではないことは確かであった。意識が朦朧としているために思考回路は閉ざされていた。しばらく、ぼーっとしていると、部屋の扉が開き、遥香が水を持って入ってきた。彼女は僕がいるベッドの横に座ると、はいと言って水をくれた。僕はそれを一気に飲み干した。そして彼女は、ごめんねと言った。
「ごめん、嫌でしょう。私のベッドに横たわるの」
僕は首を横に振った。
「いいや、別に気にしないよ。それこそごめん。迷惑かけてるね」
彼女は首を横に振った。それから彼女は口元だけで微笑むと、僕からグラスを受け取って棚の上に置いた。そして自然な流れで立ち上がって窓辺に向かいカーテンを閉めた。その後ろ姿はとても綺麗だった。綺麗に整えられた毛先、細い腰、ハーフパンツを履いているためにむき出しになっている足。それらは僕を魅了した。見とれていると、振り返った彼女は僕を見つめた。
「どうしたの」そう尋ねたが、彼女は答えなかった。
「何で急に会いに来たの」彼女は尋ね返した。
「君から、その、彼氏の話を聞かされてからずっと考えているんだよ。君のことを救いたい。でもそのために何をすればいいのか、君に何をしてあげられるのか分からないんだ。ごめん」
遥香は次の言葉を待っているかのように黙っている。でも僕は何を言っていいかわからなかった。
「大丈夫だよ。君が心配することじゃない。ただ、誰かに話したかっただけなの。仲の良い友達には何だか話しずらいし」
「だから僕ってことか」
遥香は首を縦に振った。
「そうだ、いいことを思いついた。僕の家に来なよ。それなら君の彼氏は君の居場所が分からなくなる。身を隠すんだよ」
彼女は黙って考えているようだった。
「でも、それはハシモト君に申し訳ないし、男女が同じ部屋で暮らすっていうのは大丈夫なのかな」と彼女は真剣な顔で言った。僕は少し恥ずかしくなった。
「大丈夫。適度な距離は保つよ。でも君が嫌なら来なくていい」
僕はそう言うと、ベッドから起き上がり上着を羽織った。
「君はなんで駅で倒れていたの」
「姉さんが見えたんだ。死んだはずの姉さんが。目の前が真っ暗になったよ。もう訳が分からなくなって」
「そっか」彼女はそれだけ言った。
僕は、水ありがとうと言って彼女の家から出た。
翌日、太陽が僕らの真上を丁度通り過ぎた頃、遥香が僕の家へやって来た。小さなキャリーケースとリュックを背負った彼女は化粧っ気の無い顔をしていた。
「今日は暑い」遥香が言った。
「そうだね、今日は特別暑い。まだ五月だっていうのに」僕は彼女のキャリーケースを受け取りながら言った。
遥香の奥に広がる青と白の空で鴉が鳴いている。制限のない空間で自由に飛び回る鴉が少し羨ましくなった。自分も自由に羽を広げて飛んでいきたいと思った。
遥香は部屋の中に入ると、コップ借りるねと言って台所で水を汲んで飲んだ。その横顔には髪の裏から汗が落ちていた。彼女はコップを静かに置くと、ねえ、と言った。
「本当にいいの」
「何が」僕は素っ気なく返事した。
「いや、私がここにいていいのかなって」
「いいんじゃない」
「他人事みたいだね。君が巻き込まれるかもしれないよ」
「もうとっくに巻き込まれてるよ。君が呼び出したあの日からもうとっくに。しかし面白いね、君が僕の家にいることに実感が湧いてないよ」
「湧かなくていいんじゃない」彼女は少し照れくさそうに言った。
「他人事みたいだね」僕はそう言った。
彼女が着替えたいと言うので、寝室に通してやった。扉を閉めて彼女が着替えている間に部屋の片付けをした。やがて寝室が彼女が出てくると、僕はその姿に驚いてしまった。何とラフな格好なのだろうか。少なくとも、男の家で着る服ではなかった。
「ちょっと露出が多いんじゃないかな。夏ならまだしも五月だし。しかも」僕はそこで続きを言うのを躊躇った。
「しかも」遥香は口角を少し上げながら言った。
「ニヤニヤしてんじゃねーよ。男の部屋で着るような服じゃないんだよ」
「怖い怖い。そんなに怒らないでよ」彼女は脱いだ服を畳みながら言った。
僕は黙ってそれを見ていたが、彼女はふと思い出したようにこちらを見てから、悪そうな顔をした。
「いいよ、襲っても」
「襲わないよ。調子に乗るな」
彼女はクスクス笑っていたが、僕はそれ以上会話を続けることをやめた。
遥香がキャリーケースやリュックから荷物を出してどこに置いておくか決めている間、僕はテレビを見ていた。特に面白い番組はやっていなかったので背景音楽として扱った。僕は窓の外の空をぼんやりと眺めていたが、台所で大きな音がしたので我に返った。台所では遥香が皿を落として慌てていた。ごめんと苦笑する彼女を僕は許し、片付けておくから荷物を整理するように言って、僕は立ち上がった。
その日は家に材料が何も無かったので夕飯を作ることが出来ず、しかしスーパーは少し遠いのでコンビニで済ませることにした。コンビニは僕の家アパートから徒歩五分以内にあるので便利が良かった。僕はビールとカップ麺を買い、彼女は水とおにぎりを買っていた。店員が僕らを見て微笑んだので何か勘違いされていると思ったが、僕も微笑んでおいた。遥香は隣で気味悪そうな顔で僕を見ていた。
アパートに戻る途中には街灯がほとんどないために、遥香は何回か転びそうになっていた。その度に彼女は変なポーズをした。転びそうになったことを誤魔化しているのか分からないが、笑ってしまった。しかし五回目には僕は飽きてしまっていた。アパートに戻ると、鍋でお湯を沸かし、ビールと水を冷蔵庫に入れる。遥香がシャワーをしたいと言ったので許可を出し、「運転」ボタンを押した。僕は沸いたお湯をカップ麺に注いで、麺が解かれていくのをじっと見ていた。その時僕はあの装置の事を思い出した。ライファー。アヤコさんはそう言った。寿命が延びる代わりに記憶を失う装置、ライファー。そこから出てきたミシマは僕を認識した。その事実はアヤコさんが言った装置の説明とは矛盾していたのだ。しかし、この日本では毎日人は亡くなっているのに、なぜミシマだけがそこにいたのだろう。そんな考えが思い浮かんだが、それは僕に分かることではなかった。
僕は麺を啜り始めた頃に、遥香は浴室から出てきた。浴室の方から微かに石鹸の良い香りが漂ってきた。それは嗅ぎ慣れた匂いだったが、遥香から漂っていることを想像してしまった。恥ずかしくなって急いで麺を啜ったために、むせた。台所のカーテンを開けた遥香は僕の方を見て不思議そうな顔をしていた。その顔は赤くなっていて、すっぴんだったが十分に綺麗な顔をしていた。僕は目を逸らして麺を啜ることに全力を注いだが、彼女のことが気になってそちらに視線を移すと、彼女はまだこちらを見ていた。髪の毛を拭きながら僕の隣に座った彼女は何も言わずに前を向いていたが、僕の心臓は今にも爆発しそうな勢いで打っていた。僕が何も出来ずに呆然としていると、視界が真っ暗になり彼女の唇が僕のそれに触れた。そのまま時が止まってしまったように彼女も僕も微動だにしなかった。やがて彼女は僕から離れると、ごめんねと言って立ち上がり、冷蔵庫から水を取り出して飲んだ。僕はその後ろ姿を見ていたが、音も無く立ち上がり、その後ろ姿に抱きついた。そして彼女を振り向かせ、その唇にキスをした。彼女が持っていたペットボトルから水が少し流れ出し、僕の足を濡らした。夜は静かだった。車の音も、電車の音も、虫の声も、何も聞こえない。僕らは深いキスをした。彼女の濡れた髪を撫で、彼女の匂いは僕を癒した。今、僕らは罪を犯したのだ。
その夜、僕らは互いを求め合った。活動を止めた世界の片隅で僕らは交じり、愛し合った。でもそこに本当の愛は存在しない。僕らは罪を犯しているのだから。前戯から性交までを終わらせたが、それはやはり気持ちの良いものでは無かった。しかし僕らは夢中だった。夢中でどうでも良くなっていたのだ。これは夢なのだと思いたかった。長い長い夢を見ているのだと。
性交を終わらせた僕らは、ベッドに横たわりぼんやりしていた。窓の外の月は、罪を犯した僕らを慰めているかのように輝いていた。僕は月なのだ。自分一人で輝くことは出来ない。他人の力を借り、それを糧に自分を輝かせることが出来る。しかし僕らが見えていない月は、また違うどこかで輝いている。それを僕らは知っていて、月はいつも僕らの中にある。僕は月であり、光を与えてくれる太陽が必要である。その太陽を探し出すことが出来た時、僕は輝くことが出来る。いつかの炎のように、残酷な光が照らす世界に生きることが出来るのである。
遥香は大学に行かないようだった。用があるので昼まで寝かせてくれと言った。僕は、君にと合鍵を残し大学へ向かった。その日は特別日差しが強く、風が心地良かった。天気は良いはずなのに空には鉛色が広がっており、僕は鳥肌が立った。なぜかは分からないが、遥香の事が引っかかった。今朝、彼女の顔色は良かったのだから、心配は無い。僕の思い込みは彼女を心配していなかった。徐々にその黒さを増していく空の下で、僕は能天気に大学へと足を運んだのである。
一限と二限の講義を終えた僕は、食堂へ向かいお盆を持った学生達の列に並んだ。食堂は混んでいて座る席を見つけるのに苦労した。ミシマが居なくなったことにより、僕は一人で昼食を取るはめになったが、それは平気だった。言ってしまえば、一人は気楽で心地良い時間を過ごすことが出来るのである。カウンターで丼を受け取り席に座ると、目の前を三人の女子学生が通り過ぎて行った。かと思いきや、その中の一人が戻ってきて僕の向かいの席に座った。
「君、ハシモトくん?」彼女は真っ直ぐ目を見て尋ねた。
「はい」
「やっぱそうかあ。いや、遥香って分かるでしょ?あの子から君の話を少し聞いてたんだ」
「何の話ですか」
「それは言えないなあ。あ、でもね、君の事を良く言ってたよ。少し羨ましくなっちゃったな」
「羨ましいですか。よく分かりませんが」
「なんか、ツンケンしてるなあ。私と話すの嫌?」
「いや、そういうわけでは無いですけど、何にせよ初対面なので」
僕がそう言うと彼女は、口元だけで微笑んでから席を立ち、友人の元へ帰っていった。嵐のような人だなと思ったが、それよりも大きな嵐のような女性を知っているのでたいして気にならなかった。その大きな嵐は今、そろそろ起きる頃かなと思った。
四限を終えた僕は、遥香が帰ってくる前に夕飯を作っておいてやろうと思い、直帰した。部屋に戻ると、部屋着に着替え、早速夕飯の支度を始めた。簡単なものしか作れないので、二種類のパスタを作ることにした。既に外は薄暗くなっており、街頭の光が仕事を始めていた。作り終えても帰って来ないので、先に食べることにした。テレビの電源をつけ、適当な番組のチャンネルにして麺を啜った。明太子パスタとカルボナーラだ。遥香の分は別の皿に分けて置いておいた。外はすっかり夜になった。やがて自動車の数も減ってきて、人々は眠りにつく時間になったが、彼女は未だ帰ってきていない。そろそろ日付も変わるのでさすがに心配になったが、大学生なので放っておこうと思った。
いつの間にか眠ってしまっていた。気がついた時には深夜二時を過ぎていたが、遥香の姿は無かった。まだ帰らないのかとメールを送ってみたが、返事は無い。やがて三時になろうとしていた時、玄関の鍵が開いた。ただいまーという声が聞こえてきたのでほっとして玄関へ向かった。そこには後ろ姿の彼女がいた。
「ごめんね、遅くなって」声が笑っていた。
「いいよ、でも心配した」
「心配してくれるんだ。優しいね。でも何でもないよ。お風呂入って寝るね」
「君の分の夕飯あるよ」僕は指でパスタを指しながら言った。
「ありがとう。でも食欲無いや。明日食べることにするよ」
「全然良いんだけど、ところでなぜこっちを見ないの」僕は彼女の後頭部を見ながら尋ねた。
「ごめん、何でもないから」彼女はそう言ってからも、こっちを見ようとしなかった。
僕は気になって顔を覗こうとした。すると、やめてと彼女が叫んだものだから、僕は驚いてしまった。
「どうしたんだ。何かあったの」
彼女は答えようとしない。苛立ちと心配から僕は彼女の肩を掴んで無理矢理振り向かせた。すると彼女の顔にはいくつかの痣があった。右目の目尻と左の頬が青紫色に変色していた。
「何でもなくないじゃないか」
彼女は、ごめんなさい、ごめんなさいと言った。
「恋人か。また殴られたのか」
彼女は黙って頷いた。
「何で会いに行った?奴から距離を置くために僕の家にいるんだろ。この数ヶ月を何で無駄にした」僕には彼女の行動の意味が分からず、苛立っていた。
「ごめんなさい」彼女は俯いたまま、ただそれだけを言っていた。
「僕には君の行動の意味が理解できない。自分から傷つきに行ってどうするんだ。彼に会ったらこうなることくらい分かっていただろう」僕は間を空けてから続けた。
「申し訳ないけれど、僕には君が分からない」僕はそう言うと、ベッドに入り、目を閉じた。
彼女は風呂に入り、髪を乾かし、布団に入った。その音だけが僕に届いていた。僕は彼女の顔を思い出して眠れなかった。また、もう少し優しい言葉をかけられなかったのかと悔やんだ。明日は土曜で何も予定がないので、起きれるところまで起きてやろうと思った。一時間ほど経った頃、遥香がトイレへ行った。帰ってくると、自分の布団に入らず、僕のベッドの中に潜り込んできた。僕は何も言わずに寝ているふりをしたが、遥香は僕を抱きしめるように手を僕の腰に回した。どうしたと声をかけると、こうしていたいと彼女は言った。それから、ごめんねとも言った。
午後に目が覚めると、彼女の姿は無かった。彼女の全ての荷物が無くなっていて、僕の部屋は半年前の姿に逆戻りしていた。焦っても仕方が無いので、とりあえずメールを送ってから昼食を済ませた。夜になっても返事は来なかった。電話もしてみたが、彼女は出なかった。発信履歴は遥香の名前でいっぱいになったが、着信履歴には一つも無かった。
僕はベランダに出て、点々と星が光る夜空を見上げる。この空を彼女も見ていると良いなと思う。彼女は太陽だった。この数ヶ月、太陽を見つけることが出来た気がしていた。脆く輝く彼女の光は、僕の想像を遥かに超えて脆かった。息継ぎが出来ないのだ。底深くに溺れてしまえば彼女は楽になれるのだろうか。何もせず何も考えず、ただひたすらに漂うだけの世界。そんな世界に僕は憧れを持った。今、おそらく、彼女は藻掻いている。でもそれは不確かなことであって、想像に過ぎない。
「脆い。脆く儚く散っていく。月の下弦から少しずつ、ほろほろと零れていくのか」僕は夜の街に向かって呟いた。
夏空に浮かんだ僕の涙はキラキラと光を放ち、この乾いた世界に無力な潤いを染み込ませていた。
目の前を白煙がゆらゆらと踊っている。鼻につく匂いが僕を苛立たせたが、僕はそれを顔には出さずに踊る白煙を見つめていた。加藤さんは煙草を咥えて深く息を吸ってから、僕を避けるように煙を吐いた。煙草の先の灰を落とし、それで、と言った。
「解決したのか」彼は僕を見ることなく言った。
「していません。いや、正確には出来なかったと言うべきでしょうか」
彼は煙を吐く。
「彼女が今どこにいるのかさえ分かりません。恋人の元へ帰ったのか、それとも僕のことが嫌になったのか」
「前者も無ければ、後者も無いだろうな」
「どういうことですか」
「お前の話を聞いた限り、暴力を振るう様な恋人の元へは帰らないだろうよ。いや、俺がその立場だったら帰らないってことからの憶測だが。それから、お前のことが嫌になって出ていったっていうのもよく分からない。彼女はお前を愛しているし、お前も彼女を愛しているんだろう。だったら、それは考えるまでもないんじゃないか」
「愛なんてものは分かりません」僕は、彼の首に付けられたネックレスを見ながら言った。
結局、彼女は恋人の元へ戻っていた。相手が浮気をしていようが、暴力を振るおうが、犯罪を犯していようが、愛はそれを超えるのだろうか。愛があれば何でも許せるのだろうか。僕にとって愛とは何なのだろうか。そんなことを考えても意味がないことには気付いていたが、僕は考えずにはいられなかった。僕の頭の中は「愛」についての情報が駆け巡っていた。光ファイバー。僕の脳内は愛の光ファイバーが螺旋状に走り回っていた。
加藤さんの言っていたことは間違いだったじゃないか。僕のことが嫌になったかどうかは分からないが、暴力を振るう恋人の元へ戻ったじゃないか。無責任なことを言うね。本当に。僕は腹が立って仕方がなかった。加藤さんに、遥香に、母に、父に、姉に、そして自分に。自分自身にも無責任な行動を取ったことに非常に腹が立っていた。こんなことをする人間は、僕が一番嫌いな人種であったが、自分がその行動をとったことに驚きはしなかった。自分に期待をしていなかったのか、元々自分はそういう人間だったのだと理解していたのか分からないが、青天の霹靂よりも驚きはしなかった。
自己啓発の本を購入してみる。ネットショッピングサイトで購入したのだが、九百円という高いのか安いのかよく分からない値段であった。届くのは三日後ということで、読む本は手元に無かった。三日もあれば単行本の一冊くらい読めてしまうものだから、本屋にでも出かけよう。アパートから徒歩五分ほどの距離に小さな古本屋があり、扉を開けるとレジで心優しそうな白髪の老婆が出迎えてくれる。何となく自身の祖母に似ている雰囲気があったが、祖母の顔は思い出せないので深く考えることをやめた。
四十分程経っただろうか。読みたいと思う本が一冊。僕は題名で読みたいかどうか決まるところであったが、その本の題名を見た瞬間ビビッと何かを感じた。グレートギャッツビー。意味はよく分からないが、裏の説明文は読むことなくレジへ持っていく。白髪の老婆は微笑み、僕から文庫本を受け取ってから、来てくれてありがとうね、と言った。
「このところ、本を読む人が減ってしまってね。もう店を閉めようかと思っているのよ。お兄さんは二ヶ月ぶりのお客さんでね」微笑む。
「そうですか。その二ヶ月前の客はおそらく僕だと思いますよ。その時も文庫本を買ったはずです」
「あら、そうだったの。髪型が前と違うから分からなかったわ。今の髪型の方がばあちゃん好きよ」
お礼を言って代金を支払い、また来ますと捨て台詞を言ってから店を後にした。
今日は非常に天気が良い日である。白雲一つ無い青白い海の下で僕は目を細めた。降り注ぐ白い光が視界を遮り、青信号を薄める。青い光の中で歩いていた全身が白い人の姿をしたモノが大地を踏み、僕に話しかける。
「君はいつまでもいつまでも悩むのかい」透き通った低い声だった。
「悩んでいるのかな。ストレスを感じてしまっているよ。なんだか僕には手に負えそうも無い物事が舞い降りてきたんだ」
「知ってるよ、何もかも。ワタシはずっとアナタを見ている。カノジョの名も顔も知らないが、ワタシは君のことを知っているよ」
ソレは世界の問題を全て把握しているかの様な口ぶりで語っているが、僕は何故だか心が晴れた気がした。
「君はナニモノなんだい」
「それは君がよく知っているはずだ。ワタシはアナタなのだから」
ソレが言ったことはよく分からなかったが、僕にはカレが少し笑っているように見えた。
僕は点滅する青信号を横目に横断歩道を渡りきった。車が一台も走っていないこの道はどこまで続いているのだろうか。この道をどこまで歩いて行けば終わりが来るのだろうか。何も障害物の無い道を歩きたいと言っているわけでは無いが、障害物が無ければ苦しむような事は起きないのだから、どうしてもそれを望んでしまうのは僕の罪なのだろう。ありのままの道筋を歩いて行きたいものなのだ。新品の雑巾より使い古した雑巾の方が乾きが遅いように、重荷を抱えた状態でさらに重荷がのしかかると追い込まれて精神は崩壊してしまい、回復が見込めなくなっていく。
ズボンの裾が黒ずんでいた。頬まで伸びた前髪は髪先に滴を引っ掛けたまま、ぐっしょりと濡れていた。深い青と黒のグラデーションを抱えた黒海から降り注ぐ涙に反射した青い光は、佇む僕にスポットライトを灯した。
心臓の鼓動が激しくなっていき、呼吸の仕方を忘れそうになった。自身の中にある、ありったけの幸福感と爽快感を呼び起こしたが、それは儚く散っていった。姉は言った。精神状態が脆くなってストレスに追い込まれたとき、一度思考を止めなさい。心を無にして空を見上げて深呼吸をしなさい。逃げることは恥ではない。ただ、逃げた先に自身が変化し得るような場所を求めなさい、と。
強い日差しが僕に降り注ぐ。僕の隣を歩いている野田は恰も自分はドラキュラなんです、と言いたげな顔をしていた。木にしがみついている葉も、今日ばかりは光合成を止めて、エアコンの効いた涼しい部屋で過ごしたいと訴えかけていた。
「汗が止まらない」
野田は僕の方を向きながら言う。
「今日は格別に暑い日だね。大学なんて休んで家に引きこもっていたいよ」
「でもお前は一人でいると身を投げ出しそうで、お前を独りにするなんてことは俺には出来そうもない」
「幼馴染だからって僕を分かった気でいるな」
僕は気が立っていたのか、思ってもいないことを口にした。
「俺がお前を分かっていなかったら、誰が分かってるんだ。俺はお前のことなら何もかも知ってるよ」
何故だかその言葉には既視感があった。
「一生付き合っていく仲だとは限らないんだよ。だったら僕を理解する時間が無駄だとは思わないかい」またしても心に無いことを言う。
「そうか、分かったよ。お前がそこまで言うなら詮索したり理解した気で話したりしない。だが覚えておけ。お前の問題はお前だけの問題じゃないんだ。少なくとも俺の問題でもあるんだ。だからお前の行動に対して無関係ではいられないんだよ」
その言葉は僕の核を貫通した。涙が頬を濡らしたことに気付いたのは、五メートル先の交差点で赤い車が老婆を轢いた現場を目撃した後だった。
悲鳴が、建ち並ぶビルの窓に反響した。赤い車は時速二十五キロメートル程で左折をしたところだった。白髪の老婆は身動き一つ取らず、後頭部から流れ出た血液で白い半袖のシャツは模様を帯びていた。近くに寄って老婆の顔を確認し、祖母であることを確信した。幼い頃、写真で見たことのある顔。その顔をもつ老婆が目を閉じた状態で僕の足元で倒れている。再会を喜ぶべきなのか、悲惨な事故に遭ったことを嘆くべきなのか、僕が迷っている間に野田が救急車を呼んでいた。
祖母が持っていた手提げの中には本が一冊入っていたらしい。グレートギャッツビー。僕が先週に購入した本と同じだった。祖母は下宿先の近くにある古本屋の店員だったらしい。
僕が初めて古本屋に立ち寄ったのは、大学に入学してから一週間程経った頃だった。それから約二年間、僕は年に十回程通っていた。祖母は僕が自身の孫だと気付いていたのだろうか。何故僕は彼女が自身の祖母だと気づかなかったのか。いや、祖母は気付いていたはずだ。最後に会った時の言葉が、そう僕に感じさせた。今更になって悔やんでも仕方がないが、この想いが天国の祖母に届いて欲しいと願った。
野田は事故当時は冷静に行動していたが、それから二週間経った今、目撃したことが少しトラウマになっていたようだった。さらに、被害者が友人の祖母であるということにストレスを感じてしまっていた。
「俺、お前のばあちゃんに遭ったことないけれど、葬式には呼んで欲しいよ」と泣きそうな顔で言った。
しかし、祖母の葬式は未だに行われる気配は無かった。
僕はすっかり忘れていた。あの不思議な一日の事を完全に忘れていたのだ。何故思い出したのかは不明なところであるが、僕の中で必要とした時に現れるのであろうか。手紙や地図を無くしてしまったため、あの日の記憶を頼りに例の施設へと向かった。アパートから最寄りのバス停から乗り込み、走る事四十分。前来た時はこれ程に時間がかかったのかは覚えていなかったが、橋の上のバス停に到着した。二十分程歩くと祠が見えてきた。
「アヤコさん」彼女の名前を呼んでみる。
しかし何かが起きる気配は無かった。右手を伸ばし、祠に添える。目を瞑り、あの日の光景を思い出す。ライファー、オフホワイト、アヤコさん、三嶋。目を開けると、僕の右手はあの装置に添えられていた。
「お久しぶり」
後ろから彼女の声がした。何とも言えない懐かしいような、でも聞き覚えのない声。振り向いた先には、胸元まで髪の伸びた彼女が立っていた。
「アヤコさん、あなたは誰ですか」
彼女はその質問には答えず、微笑んだ。
「君のおばあさん、まだ見込みは無いわよ」
「この装置から出られる日はまだ遠い未来ってことですか」
「そうね。でも、君には関係の無いことでしょ」
「そうかもしれないです」
僕には無関係のことであった。祖母は、僕の世界には居ない人なのだ。
「何で来たの」
「分かりません。でも、来ないといけない気がしたんです」
「そうね」
彼女は素っ気なく返事をした。
「そうだ。君に伝えたいことがあったんだ」
事前に覚えてきた台詞を読むような口調で言った。
「三嶋君ね、二週間前にここを出て行ったのよ。名前や住所を変えてね」
「そうですか。では、もう会うことは無いのですね」
「そうね」
彼女は澄んだ瞳をしていた。
天井の黒ずみが広がっている気がした。枕元に置いたあったスマホを取り、着信履歴を確認したが、誰からも連絡はきていなかった。午前六時二十分。眠れない日々が続いており、そのうち気絶する様に眠りにつくのだが、四時間程度で目が覚めてしまう。無理矢理眠ろうとすると、体のあちこちで痒みが止まらなくなるという睡眠障害を抱えた。サイドテーブルに置いた間接照明が消えることが無い夜が続いた。
目が覚めたのは、午前十一時だった。窓を開けたまま眠ったために、カーテンが日曜日のそよ風に吹かれていた。スマホの待ち受け画面を確認すると、一通の留守番電話が届いていた。再生する。
「…‥…久しぶり。私です。遥香です。急に出て行ってごめんなさい。別に君の事が嫌いになった訳じゃないんだよ。でも、君の優しさが不安を大きくさせてしまっただけなんだ。私は君の事が好きだよ。遠出デート、一緒に眠った夜、全部楽しかった。けれど、私はそれじゃダメなんだって気付いた。ちゃんと向き合わなきゃいけないんだって。でもね、ハシモト君。もう限界が来てしまったみたいなんだ。ごめんね」
彼女の声は止まった。僕の心臓は正常な脈を打ち、目は乾いていた。脳裏には何も横切ることは無く、ベッドから這い出る気も無かった。顔を思い出したく無いし、もう声も聞きたくなかった。ゴミ箱のマークをタップし、留守番電話を削除した。また祠まで足を運ばなければいけない。
心が脆い人ほどよく笑う。
「ねえ見て、涼太」
姉は木で作られた柵に寄り掛かって白い歯を見せている。桜が満開に咲いた木々を見つめながら僕に話しかけている。
「姉ちゃん、お母さんとお父さんはどこに行ったの」
彼女は桃色の瞳をしながら白い歯をしまう。
「さあね。遠くへ行ったんだよ」
「遠くってどこ」
「それか、存在してないんじゃないかな」
存在してないんじゃない、存在させなくしたのだ。今、僕の目の前で水色のワンピースを着た天使が彼らの存在を消してしまったのだ。テストのマークシートに一段ずれて書かれた回答を消しゴムで消すように。あの日僕は、歯磨きをしていただけなのだ。赤い色をした包丁を持った姉など見ていない。何故なら、あの日僕は安らかな眠りに落ちたのだから。
今朝の天気予報で、今日は曇りだと予報していたが、いざ日の下に出ると雲一つない晴天であった。風が吹いていたので、おかげで暑くはなかった。駐輪場に停めた自転車に跨がり、コンクリートの上を走り抜ける。目的も無く走ることで未知の世界へ飛んでしまいたかった。しばらく漕いでいると、小さな公園に辿り着いた。木陰に駐車し、ブランコの前に設置されたベンチに深く腰掛ける。何気なく空を見つめていると、隣で男の声がした。
「空が青いのは何故か知ってるかい」
僕は声のする方に目もくれず、答えない。
「宇宙は暗いのになぜ空は青いのかな。考えたことないかな。そんな何でもないこと」
「無いね」
「そうか。僕考えたんだ、何で青いんだろうって。そしたらさ、答えが分かったんだよね」
「何でなの」
「青信号って『進んでもいいよ』って意味だよね」
「うん。命令なのか許可なのか知らないけどね」
「見て、空を。ほら、青いよ」
確かに空は真っ青だった。濁りの無い青。
「進もうかな」
「でも僕はまだ青空を見れてないんだ。自分で言っておいて何だよって思われるかもしれないけれど、僕はまだ夕日を見てるんだ」
「哲学の話をしてるのかい」
「かもね。赤信号は『止まれ』って意味だよね」
「うん。これは命令だね」
「僕はまだ進めてないんだ。ずっと止まったままなんだ。青色になりそうになっては赤色に戻る。僕は夕日から時間が止まってるんだ」
横目で彼を覗くと、彼は真っ直ぐ前を向いていた。
「それは悪いことなのか」
「さあ、どうだろうね。僕は動けずにいる。結果、苦しくて苦しくて仕方がないんだ。良いことだとは思えないな」
「止まって周りを見る。そして深呼吸をする。考えなくてもいいんだ。立ち止まることは悪いことじゃない。いっそのこと来た道を戻って逃げてもいいんじゃないか。それは恥じゃないと思う」
少なくとも姉はそういう人であった。
「なるほどね。夕日で立ち止まって四ヶ月程が経ったけど、その間に何度自殺を考えたか分からない。首吊りは我慢出来なさそうだし、一酸化炭素は苦しそう。飛んでしまいたいよ」
似ていると思ってしまった。僕の世界と彼の世界が繋がっているように思えた。
「青空に向かって飛びたい」
僕は出来るだけ感情を込めて言った。
【私を忘れて、涼太】
あの日の事は切に覚えている。僕が十四歳だった冬の初め、僕は姉に連れられて夜景を見に行った。自転車を懸命に進ませ、山の麓に停車させてロープウェイに乗り込んだ。往復で一人千二百円もしたが、姉が支払ってくれた。僕は姉に手を引かれるがまま空飛ぶ箱に足を踏み入れ、山を登った。頂上に着くと、そこには広大な闇が広がっていた。家々や車のヘッドライトが、微かに煌めいていて、この闇にも優しさが灯されていることを暗示させていた。
姉は真っ直ぐ大地を見下ろしていたが、その目に光は無かった。あの時の姉の顔は忘れもしない。目は細く、顔は白い。対照的に髪は真っ黒で、その闇と同化していた。次第に闇は広がり、オセロでいうと黒側が勝利した。姉の中に街灯は灯されていなかった。何気ない日常が、今、完全に姿を消し去ったのだ。姉は僕の手を離すことなく、柵を登ってそのまま落ちた。僕は姉と共に空に身を投げ出された。
「私を忘れて、涼太」
確かにそう聞こえた。僕は目を瞑り、姉の中で蹲った。全身に痛みを感じながら、僕らは山の中へ沈んだ。
意識を取り戻したのは、赤と青の光がくるくる回っていたからであった。警察車両の光だ。身動きが取れず、視界は極端に悪く、頭は混乱していた。警官らしき人物が何か話しかけてきたが、何も聞こえなかった。次に目が覚めた時には病院にいた。扉の近くを通りかかった医者に姉はどうしているか尋ねたが、返ってきた言葉に僕は驚かなかった。
それから半年が経ち、僕は退院することが出来た。遠い地に住む叔父から送られてきたお金を使ってアパートを借り、アルバイトを始めた。ふと、姉の葬式が行われていないことを考えたりもしたが、近くに身寄りのいない僕は、仕方がないのか程度にしか思わなかった。
終電が目の前を去っていく。僕はそれを恋人を見送るような表情で見送る。さあ、どうやって帰ろうか。歩いて帰れるような距離ではない。なんて言っても、家まで電車で四十分程かかる距離にいるのだから。何故そんなところに居るのかというと、今日は一人で遠くへ出かけたかったからだ。全てのストレスから逃れるために、僕は別世界へ迷い込みたかった。いつか、この苦難から解放される日を望んで走り出そうとした時、僕は独りなのだろうか。いつか、全てを忘れて幸せなパラレルワールドへ沈む時、そこに僕の愛する人は存在するのだろうか。人間は、愛すべき人間を愛さなくてはならない。愛より金、と主張する人間は人間では無いと思う。愛すべき人間を愛することで、僕らの歯車はテトリスのように重なり合い、荒れ果てた大地に花を咲かせるのだろう。
久しぶりに大学へ足を運んだ。午前の授業に出る気は起きなかったので、三限目から参加する。教室の最後列の席に座り、一人で教授の退屈な話を聞く。正確には聞いていないのだが、聞いているフリさえすれば単位なんて貰える。この平凡で退屈な日常が一番の幸せだ、なんて事は僕には分かりそうもなかった。僕の脳は空っぽで、どこにいても何をしてても大したものは得られない。
「久しぶり」
声のする方へ顔を向けると、ポニーテールの女子学生がいた。
「覚えてるかな、私のこと」
当然覚えていない。
「あー」
「良かった。君のことを少し心配していたんだ。遥香、ずっと大学休んでるよね。君もやっと来たって感じだし」
あぁ、この人は遥香がもういないことは知らないんだ。彼女は、誰が見ても分かるくらい泪に沈んでいた。
「何故、僕のことを心配していたんですか」
「そりゃ、遥香から話を聞いていたからだよ。遥香は君のことが本当に好きだったみたいなんだ。君の方はどうだったか知らないけどね」
僕に、僕がどう思っていたかを言って欲しそうな顔をしていた。僕は一度、教授の方に目をやってから、再び彼女を見た。
「好きでしたよ」
僕はそれだけ言った。これ以上は何も言うつもりはない、というよりかは、これ以上何かを口にすることは僕には耐えられなかった。心の底から彼女のことが好きだったからだ。
「そっか」
女子学生はそれだけ言って、教授の方へ向いた。彼女の後頭部で揺れている尻尾を見ていると、彼女が誰なのかを思い出した。廣瀬さん。遥香の友人であった。過去に一度しか話したことのなかった彼女は、それっきり僕に話しかけてくることはなかった。
野田に電話をかける。午後二十時あたり。十回コールしても出る気配が無かったので電話を切った。それから僕は彼の連絡先を削除した。
加藤さんに電話をかける。忙しいのか、彼も電話に出なかった。野田と同様に、彼の連絡先も削除した。
遥香に電話をかける。出るはずもない彼女に電話をかける。この行為に意味はなくとも、僕は意味を見出したかった。これが彼女との最後の思い出になるだろう。すぐにこの記憶を消し去りに行きたいが、忘れてしまうとしても僕は最後に思い出を作りたかった。ただ、彼女と話がしたかった。留守番電話に繋がる。僕は深くため息をついてから話し始めた。
「久しぶりです。ハシモトです。これを聞くことが出来るのなら、僕はこれ以上の幸せはありません。もし、明日僕が自身の存在を消すことになっても、僕の中にある君の存在は消すことが出来ません。それは僕にはどうしようも出来ないことです。僕は……」
限界を、超えてしまった。電話を切り、スマホを床に放り投げた。恋蛍が部屋中を飛び回っている。その光に照らされた天井の黒ずみは、八割程に広がっていた。黒ずみは、全ての恋蛍を飲み込んでしまい、また少しだけ広がりを大きくした。
窓の外では神様が泣いていた。今日の降水確率は百パーセントだった。洗濯したばかりの白い長袖とジーパンに着替え、僕は扉を押し開ける。階段を駆け下り、降り注ぐ酸性雨を全身で受け入れた。両手を広げ、天に向かって叫ぶ。
「僕は生きる」
たった七文字の言葉で、カラオケで三時間歌い続けた様に喉が痛くなった。
限りなく黒に近い空を見上げ、全身で呼吸をする。足下からの強風に吹かれ、僕は空を飛んだ。豪雨の中を気持ち良く泳いで泳いで泳ぎまくった。新しい世界に踏み入れる時、僕は笑顔であった。雨たちは、僕らと一緒に、と言った。夢を見ているかのようだった。
158番をお願いします。そう告げると店員はその番号を探しにいく。レジの横に置いてあったライターを手に取り、カウンターへ差し出す。戻ってきた店員は、品が合っているかの確認をして、僕から代金を受け取った。
ベランダに出て、158番にライターで火をつける。ジジジッという音と共に七百度の高熱が生まれた。深く息を吸って、青空に向かって煙を逃す。喉に膜が張ったような気がした。ミストの世界へようこそ。ここがパラレルワールドである。使い切った鉛筆の様に短くなった158番の先端を床に押し付けてから、砲丸投げの選手の様に遠くへ飛ばした。僕はようやく主人公になれた気がした。
スマホが着信を告げる。プルルルという音が僕の頭をきつく縛った。知らない番号からであったが、僕は応答することにした。
「おっ、やっと出たなハシモト」
それは聞き覚えのある男の声だった。全身が白いアイツだ。
「この前は電話に気付かなかった。それから何度も電話をかけたんだけど、気付かなかったのか」
僕は静かにその声を聞いていた。
「なぁ、ハシモト。どこにいるんだ」
煌めいた世界。濡れることのない世界。青空へ飛んで行ける世界。天井に黒ずみが無い世界。街を歩く人々の足音が鮮明に聞こえる。しかし街には誰一人いないはずである。ここは僕の世界。記憶の中の世界。薄目を開けた先は、水槽の中にいるような視界が広がっている。胸元まで髪が伸びた女性が微かに見える。ありふれた日常から解放されるために僕はこの世界に入り込んだ。目を閉じて、僕はまだこの世界に留まることを選ぶ。
「さぁ、僕はどこにいるんだろうか。強いて言うなら、オフホワイトの世界だね」
ハシモトは愛を見つけられたのでしょうか。それは、読んでいただいた方の受け取り方を尊重します。