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その日は土砂降りの雨だった。
いつも店の窓から見える馴染みの歩行者も、この天気では一日中見られそうにない。
ただでさえ毎日片手で数えられる程度の客しか来ないというのに、これでは閑古鳥も鳴く前に逃げていきそうだ。
時刻は昼前。今日は太陽が昇る前からずっとこの調子だ。
朝早くに店の近くを馬車が通ったくらいなもので、その音で目が覚めたリベルも外の天気を一目見て二度寝を決め込んだ。
一階にリベルが姿を見せたのはそれから約半刻を過ぎた頃。
暗い店内では、両手に雑誌を広げて足を組んだローレンツがカウンター席で寛いでいた。
「おはよ、父さん」
「……やっと起きたか」
ローレンツは雑誌から目を離して、階段から下りて来るリベルを睨むような視線で見上げる。
「ちったぁ店の手伝いしやがれ。朝飯なら冷蔵庫ン中だ」
手伝いって言ったって、どうせ来る客なんていないだろう?
口に出ない反発も、いつものようにローレンツには届かない。
だが、そんなリベルの考えは、けたたましく鳴った鈴の音で覆された。
「た……大変だ!」
怒号にも近い、見知らぬ男の声が店内に響く。
見れば傘すら差していない。
フード付きの上着は濡れていない面が無い程、雨の激しさを物語っていた。
リベルもローレンツも突然の来訪者に声を掛ける間も無く、男の方が続け様に口を開く。
「馬車が……!!」
そこから先、正直リベルはハッキリと覚えていない。
馬車が一台、崖から転落したと男は口にしていた。
救助作業に人手が足りないとも。
ローレンツは慌てて外出の準備をしていた。
リベルはしばらく呆けた後、既に救助の人間は向かっているというのに、自分がいの一番に駆け付けようと店を飛び出した所でローレンツに腕を掴まれ、上着と傘を押し付けられた。
アリアンテールの扉に『Close』の板がぶら下げられる。
リベルとローレンツは、跳ね上がる泥が衣服に飛ぶのも気遣う事なく男の後を足早について行った。
「こりゃ酷でぇな……」
リベルの住む町の外。
出発してからそう遠くない崖の上で、リベルとローレンツ、そして先程店に駆け込んだ男は事故の現場を眼下に収めた。
ピクリとも動かない馬、土砂に潰されて原型が判らない程ひしゃげた鉄の箱の周りに、数人の大人と思わしき人間が集まっている。
リベルはその場で崖の上を見上げた。
原因は突然の土砂崩れだ。
道は馬車が通るのに充分な広さが有った。
可能性だけで言えばこの道の何処でも起き得る災害は、不運にも馬車を直撃したらしい。
近くを流れる川の音は、今にもその場の全てを飲み込んでしまいそうだった。
「何処から下りられる?」
ローレンツは男に訊く。
男は現在地より先の道を指差すと、慎重にローレンツへ返答した。
「あっちの坂から行けそうです……雨でぬかるんでますから、お気を付けて」
男が示した道に二人は進む。
緩い坂を所々に生えている枯れ木伝いに下ると、雨に混じって大人の声が微かに聞こえて来た。
「ローレンツさん! 良かった、こっちだ!」
現場には数人の大人の声が入り乱れている。
道すがらに男から聞かされた馬車の搭乗者は三人。
「ガレットさんが馬車の破片に挟まって動かないんだ! ローレンツさん、そっち持てるか!?」
「よし、良いか……持ち上げるぞ! 一、二ィの……!」
「操縦してた男はどうだ!」
「体は出て来たけど意識が無い! 先に運んで!」
三人だ。
「……リーシェ、は?」
何処にも見当たらない彼女を探して、リベルの口から名が零れた。
「……見つからないんだ」
近くの大人が、リベルの背中に返答した。
「もしかしたら、川に流されたのかもしれないな……」
川と呼ぶには変わり果てた濁流が、リベルの視界に映る。
もしあれに落ちたなら、いくら泳ぎに自身の有る達人でも無事では済みそうにない。
落下した衝撃で転がり落ちるには、有り得なくはない距離だ。
リーシェは、いつもなら家に居る筈の時間だった。
ガレットと一緒に出掛ける話も、彼女自身から聞いた事は無い。
しかも大雨だ。余程の理由が無い限り、ガレットが連れ出したとも考えられない。
最後にリーシェの姿が目撃されたのは町の出入り口。
馬車の中ではあったが、まず間違いないと大人たちは口を揃えた。
「何でこんな日に限って……」
馬車の残骸の下には、あの日彼女が見せてくれた本がポツンと投げ出されていた。
癖がついて開いたページに、今にも剥がれそうな押し花が挟まっている。
大事な物、だったのだろう。
「リベル! ちょっとこっち来い!」
父親の声に呼ばれ、リベルはその本を拾ってフード付きのコートの中にしまった。
斜面に足を滑らせながら父の元へ向かう。
そこには、意識の無いガレット……の手を屈んで眺める父、ローレンツの姿が在った。
「お前、これが何か解るか?」
ローレンツの指し示す『それ』に、リベルは見覚えが有る。
見ていたのは手では無い。指だ。
ガレットの右手中指に巻き付いている物。
長い髪の毛のように、しっかりと二重三重に巻かれて結ばれている。
リベルは確信を持ってこう答えた。
「……糸だ」
「クソッ……やられたな、ガレット」
糸の色は黒だった。
巻いた相手の破滅や不幸を望む色。
「店で買ったヤツを調べる事は出来るが……買った人間と巻いた人間が別なんて事もザラだしな」
ローレンツが担架に乗せられるガレットを見ながら立ち上がる。
「別に義理も無ぇし、こうする為の道具だが……俺の店で売ってる物で俺のダチに使うたぁ良い度胸だ……! 戻るぞ、リベル」
静かな怒りがローレンツの周りを纏っていた。
それは打たれた雨も蒸発させるかのように熱く、深く、重い空気だったとリベルは思う。
懐の本が落ちないようにギュッと抱きしめ、リベルは初めて見る父の背中を追った。
そして、ガレットに結ばれていた黒い糸をもう一度振り返ると、誰も気付く事の無い二つ目の確信を抱いていた。
冷たい雨は何も洗い流してくれない。
足跡の一つだって、消える事は無いだろう。
その日、道具屋アリアンテールに明かりは灯らなかった。