29 大空洞救出戦その2
「よし、この分だと後は押していけば勝てるかな」
汗を拭った私に言ったのはリーシャさんだった。
「そうですね。しかし、一つだけ気がかりもあります」
「気がかり?」
「はい。一人別格に強い大鬼族がいます。その力は、おそらく災害級以上。この森の魔族でも、最も強い個体の一つでしょう」
「そ、そんなに強いの?」
びびる私にリーシャさんがうなずく。
「同じ災害級でもその中にはかなりの幅があります。平地なら数で囲んで押せば良いのですが、狭い洞窟でこの個体を相手にするのは簡単な話ではありません」
「でも、ジルベリアさんがいるし大丈――」
すさまじい炸裂音が鼓膜を裂いたのはそのときだった。
衝撃波に鍋が地面に転がり、トマトスープが血だまりのように広がる。
尻餅をついた私の目には、ただ濃い土煙しか映らなかった。
一体何が起きたんだろう?
耳鳴りが止まない。鼓膜がダメになってしまったのかも。私は鍋に残っていたトマトスープを口に含む。広がる甘みと酸味。身体が淡い緑色の光に包まれて、耳が聞こえるようになる。
私のすぐ側で、護衛の緋龍族さんたちが、「お下がりください」と庇うように盾になってくれていた。
「一体何があったの?」
「視界をクリアにします。伏せてください」
リーシャさんが言う。直後、強い突風が土煙を吹き飛ばす。背中の翼が揺れていた。
岩肌に、巨大な大穴が空いている。
堅い岩盤は暴力的にえぐり取られ、摩擦熱からか焦げ臭い匂いが辺りに漂っている。
私の目の前には異常な数の大鬼族さんたちが倒れていた。
味方になってくれた大鬼族さんたちだ。元々ここにはいなかったから、壁の向こうから吹き飛ばされてきたのだろう。反対側の壁に叩きつけられ、そこにめり込んでしまっている大鬼族さんもいる。これだけの大鬼族さんが一度にやられるなんて一体何が……。
そう、倒れた大鬼族さんたちに目をはしらせていた私は、次の瞬間視界に映ったその姿に言葉をなくした。
「ジルベリアさん!?」
転がる大鬼族さんたちの巨体に混じって、赤い髪の少女がそこに倒れていた。
以前ジルベリアさんに聞いたことがある。
ジルベリアさんはどれくらい強いのか、と。
彼女はこう答えた。
『我輩より強い相手などこの世界にはおらぬぞ。いても一人か二人、三人……九人くらいか』
『まあまあいるね』
『六魔皇と呼ばれる最高位六種族の王などは対界級の強さだと言われておるからな。本気で暴れれば世界が大変なことになる』
『そ、そんなに強いんだ……』
『だが、今の我輩はナギのごはんのおかげで調子がすこぶる良いからな! 筋力も魔力量も以前の二倍近く上がっておる。六魔皇が相手でももしかすると勝ってしまうかも知れぬな。うむ、是非手合わせしてみたいものだ!』
実際ジルベリアさんは強い。
危険度が高い魔獣だって簡単に倒してしまうし、戦いで苦戦している姿なんて見たことが無い。
圧倒的な力を持つ緋龍族の王にして、最強の竜種の一角。
それがジルベリアさんで、ジルベリアさんのはずで。
だから、目の前の光景は私にとって衝撃以外の何物でも無かった。
「大丈夫!? しっかりして!」
駆けよって肩を揺すろうとして思いとどまる。頭に強い衝撃を受けている可能性がある。たしか、こういうとき頭を揺らすのはよくなかったはずだ。
そうだ、トマトスープ!
これで回復させれば!
持っていた鍋のトマトスープを飲ませようとする私の後ろから、リーシャさんが言った。
「ジルベリア様、何故気絶しているふりをしているのですか」
「え?」
改めてその姿を確認する。
黙っていると、傾国の美姫のように美しい顔立ち――は置いといて、たしかにその閉じた瞼はぴくぴくとわかりやすく動いていた。
「ふ、ふりではないぞ。このまま倒れておけばナギがかまってくれ、さらにおいしいスープも飲めそうだとか考えているわけではない。断じてない」
「…………」
かまってほしいのか。
ってか倒れている人寝言でそんな長く話さないから。
「飲んでいいから起きて」
「……す、すぅ」
無理があるから。
そんなわざとらしい寝息ないし。
「嘘をつくジルベリアさんにはスープあげません」
「起きておる! 我輩起きておるぞ!」
がばっと勢いよく立ち上がる。
「別に、倒れるふりなんてしなくても飲ませてあげるのに」
ジルベリアさんは唇をとがらせた。
「だって我輩無傷だし。それを悟られると、飲ませなくていいかってなっちゃいそうであろう?」
「無傷なの……」
すさまじい音してたけど。壁貫通して、こっちの壁にめり込んでたけど。
あまりの耐久力に絶句してしまう。たしかに、その身体には切り傷一つついていなかった。
「量に余裕あるし、飲みたいなら飲んでいいから」
「うん! うまいっ! この一杯のために生きておるな!」
目を輝かせて言う。
かわいい。
「それで、何があったの?」
「敵の前線をボコボコにして回っておったらな。一体別格の強さを持つ大鬼族を見かけたのだ。こいつは面白い、と思ったら試しに攻撃を受けてみたくなってな。それで受けてみたところ、思ったより受け身が難しくてあんなことに」
「なんでわざと攻撃受けたくなるのさ……」
「だってあやつすごく強いのだぞ! あそこまでできるやつとなると、拳の一発や二発くらいは受けておかねば勿体ないではないか! 竜種でないのにあそこまでの実力者とは……うむ、世界は広いな!」
やっぱこの竜ちょっと変だ。
そう再確認していたときだった。
かこん、かこん、と甲高い足音が聞こえてくる。
厚底の黒い下駄。淡い紫色の着物と、腰まで伸びる長い白百合色の髪。額の辺りからは小さな角がひとつ伸びている。
その姿は、可憐な少女のそれにしか見えなかった。
おそらく、この子が『姫様』と呼ばれていた大鬼族なのだろう。
六メートル近い大鬼族たちの中で、私と変わらないその姿はあまりにも小さく、だから逆に底知れない恐怖が私の心臓を握り潰そうとする。
「ナギ様、後ろに」
リーシャさんと護衛の緋龍族さん三人が、私の前に立ってくれる。
何より、問題なのは大鬼族たちが完全に戦意を失っていることだった。畏怖なのか、姫への情なのか、仲間になってくれた大鬼族さんたちの目から、戦おうという意志は完全に消えてしまっている。
まともに戦えるのは緋龍族さんだけ。それで、この子を倒さないといけない。
かこん、かこん、と高い下駄を鳴らして近づいてきた少女は私たちの少し前で足を止めた。
張り詰めたような緊張感の中、薄紅色の唇が動く。
「………………て」
「え?」
聞き返した私に、鬼の姫は言った。
「私を、殺してください」




