空の上に無いようであったものの事
間もなく当機は消灯時間に入ります。どうぞ窓のカーテンをお閉めください。
機内放送で見ていたコメディ映画のしょうも無い台詞を遮って、アナウンスが飛行機内に響き渡った。
私は腕時計の文字盤に目をやった。二本の太い針は気づかぬうちに、十二時に随分近い所を指していて、ああ、もう彼の国では夜半に近いんだと考える。もはやこの一回きりで行く事も無いかもしれないのに。
向こうでは一ヶ月程研修を受けてきた。彼の国の公用語を上手く使いこなせたかには、帰国途中の今でも不安が残る。だが、大学で鍛えた第二外国語と英語は決して無駄ではなかっただろう。少なくとも熱意は伝わったと信じたい。
何とまあ情が移った事かと考えていたら、奥の席に座っていた客が、布の貼られた硬いプラスチックの板を引き下げた。青い空を闊歩するもふもふ雲は日除けの向こうに隠れ、同時に機内の照明も消えた。口を半開きにしたまま静止したコメディ俳優が、暗闇のなかスクリーンに浮かび上がっていた。
まぶたの外に光を感じて目が覚める。席では浅い眠りしか得られなかったが、それでも二時間は目をつむっただろうか。どうせ起きたならと身体ほぐしも兼ねてトイレに立った。通路側の席をとっておくとこんな時に動きやすくて便利だ。
用を足して顔と口内を綺麗にすすぐと、頭がさえたように感じられる。ただ戻って眠るだけというのもつまらない。少し機内を歩いてみることにした。
窓際の客も、通路側の人間も、アイマスクや旅行用枕を使って脳を休めている。身体を起こして、前の椅子の背についたスクリーンをつけている者は意外と多い。フィルターがかかって見えないが、延びるコードの先についたヘッドホンやコントローラ、前のめりで画面を凝視する様などから、何をしているかは何となく推測できる。さっき眩しかったのも、きっと隣の客が何か見ていたからだ。
客席の更に後ろには明かりのついた一角があって、添乗員の女性二人が何やら談笑していた。傍らには飲み物のボトルと、小さな袋菓子が入った盆がある。私に見られていたのに気づくと、女性の一人が、お飲み物は何か如何ですかと紙コップを差し出した。せっかくなので、ノンカフェインの珈琲を入れてもらった。見られていては落ち着かないし、後でゆっくり飲む事にしよう。
温かいカップを手に持ったまま、更に奥へ進む。機内の薄暗い最後列には客が触るべきでなさそうな扉と、トイレがもう一つ、そして客席より少し広いはめ殺しの窓があった。外の空気が伝わるからか、窓と扉のそばはちょっぴり肌寒い。
窓といえば、外に広がるのは暗い夜空か、それとも昼間のように明るい空か。そもそも私達は今どの辺りを飛んでいるのか。空の長旅で積み重なった退屈から、好奇心が頭をもたげ、私は透明な板に顔を近づけた。
そこには機内に引き込まれたものと同じ暗闇があり、薄紺色の雲の絨毯が眼下に広がっている。
珈琲を飲んで、両手を顔に近づけたついでに手首を見る。顔を横に向けた機械仕掛けの文字盤が物語るのは、彼の国では草木も眠る時刻だという事だった。ようやく時計に空が追いついた――今我々は時間の概念が無い世界にいる、良い証拠だ。
いや、そんなもの無い方が当たり前で、寧ろ時間の概念がある世界の方が珍しいのかもしれない。
実際我々人間は住む場所は違えど、地球が「生まれて」から何億年この世に存在していて、何回転自転を繰り返したか、おぼろげながら理解している。私の世界では地球は何億回転、お前らの世界ではまだたったの何回転、という事は決してない。どこに住んでいても同じ数だけ回っている。時差なんてただのちっぽけな「ズレ」にすぎない。
故郷の家族や友人、恋人はもう眠っているだろうかと考えたが、すぐに私はその考えを訂正した。彼らからメールが来る時はいつも午後だったが、大抵「もう眠るね」とか「お休み」などとの文句が文末に添えられていた。彼の国と我が国では、十時間弱くらい時差がある。ちっぽけなズレとはいえ、彼らは私よりずっと早く沈む陽を見て、夜を先取りしていたのだ。今はとっくに昼ご飯を食べている筈である。
アクリル板の窓を後にすると、隣の客を起こさないようにそっと席につく。カーテンめいた日除けが下ろされた窓を見る。次にあれを開ける時には、また青い空と白い雲が広がっているだろう。
時間というやつは妙なものだ。あの一ヶ月間ずっと、私が太陽を見ているとき、彼らは夕暮れや夜の月を見ていたのだから。
やや硬い背もたれに体を預けて私は目を閉じた。瞼の裏、脳の奥では、相変わらず件のコメディ俳優がこちらを見ていた。日本の親愛なる隣人達と、薄紺色の雲の絨毯の上をぐるぐる揺れていた。
〈おしまい〉