悪の花には悪の果実しか実らないか。
花が枯れる音を聞いたことがあるだろうか。
それはちょうど、未来が潰える音に似ている。
彼女と一緒になら、因果地平の果てまで見渡せた。
彼女と出会うために孵った自分は、同時に彼女と別れ虚数へと帰ることをパラダイム。
全てが終わろうとしていた。
彼にとっての全てが、余命宣告によってベッドに縛り付けられている女性を目で抱きながら。
視界が歪む。これから起こる全ての崩壊の予兆のような眩暈は、それ以上に強くなる様子はない。意識を失うほどに強烈なものであるならば、彼は夢へと身を任せただろうが。
「松風さんは、もう永くありません」
付き添いで行った病院で受けた説明に、彼の耳は研ぎ澄まされた。
聞き間違いを正すために、目の前の椅子に腰かけている白衣の男の言い間違いを正すために。
ただ、彼にとっても……医者にとっても、決して穏やかな話ではない。
膵臓癌。中高年の男性に多いというのだから、彼が暴れ出して椅子のひとつも窓から投げ捨てたくなる衝動に拍車を掛ける。
それがありがちな病気で無かろうと、叫びながら血の手形で全てを殴り壊したくなる滾る衝動を抑えることはできなかっただろうが。
答えなんて要らない。存在するわけがないのだから。彼女に罪なんてあるわけもない。
何もかも手遅れだと云われてからの日々は、輝かしい闇そのものだった。
彼女がほほ笑むたびに絶望を味わう。彼女の温もりが死の冷気を纏った。彼女の声が弾む度に心臓がカウントダウン。
「なんかゴメンね。家の鉢の世話までさせて」
「良いよ。別に」
「タンポポとか、咲いてる?」
「微妙だな。なんだっけ。セイヨウタンポポだったか。あっちの種がどっかから入り込んでいるらしくて、見分けが大変だ」
「あはは、本当にゴメンなさい。外来種の方が強いのよね」
謝らなければならないことを彼女が何かしたと云うのか。
外来種であろうと在来種だろうと、何か滅びなければならない理由があるのか。
どんな理由があれば、若い身空での死を強いられなければならないのか? 贖う時間すら無いのか?
もしも、彼女がいかなる罪を犯していようとも、彼が知らないところで外道の所業をしていたとしても、彼はこの現実を噛みしめ味わうことなどできるわけがない。
「プレゼントですか?」
「なんでも良いよ、ついでだから」
彼こと吉橋雄平と、松風莉奈の出会いは、彼女がアルバイトしていた花屋の店先でのとある昼下がりだった。
足の踏み場のないような狭い店の中、自分を見ろと引け目もなく花々が輝いている店。彼女はそんな傲慢な花たちに飽きれもせず、枯れた葉を取り、じょうろを傾ける。
賢そうには見えなかったが、漠然と柔らかそうな印象を受ける。花と似ていた。
彼がこの店に寄ったことに大した理由は無かった。ただの恋人への贈り物。
古臭い言い方をすれば許嫁、新しい言い方をすれば政略結婚、それらしい言い方をすれば、親の敷いたレール。
自分で作った空き時間、雄平は強いられるように立ち寄った花屋でプレゼントを買いに来た。
プレゼントを選ぶのではない、買いに来たのである。子供の御遣いと大して変わらない使命感の伴わない使命。
「それなら、好きな花とかありますか?」
「知らないよ、何回も会ったことのない女だから」
「好きなお花は?」
「だから知らないって……」
「あなたのお好きな花です。あなたがキレイだと思うお花を貰うのが、私だったら一番嬉しいです」
雄平に初めて、花が香った。
今まで鼻をくすぐっていることを気付きすらしなかった匂いが届いていた。
自分が生まれたのは莉奈に出会うためであると確かに理解できるほどに彼女を愛していた。
誰かのために生きるということがどういうことか分かって、何度目か会ったときにそれは心の中だけでなくなった。
引き合うように、呼び合いながら、彼と彼女は会う回数は増えていった。
「きっと、これだね」
「何が?」
「私、きっと雄平に会うために生まれて来たんだよ! 今、分かったの」
雄平は震えた。莉奈が、自分が思っていたが口に出来なかった言葉を、音にしてくれた。
自分の中にある想いが、複製品のように彼女の中にも有る。だがそれはどちらもレプリカではなく、どちらもオリジナル。
自分と彼女がそれぞれ唯一で、それでも孤独とは程遠い。ひとつとひとつが合わさり、ひとつになる感覚。
それが恋だと彼が知ったのは、両親と許嫁に彼女と結婚すると宣言する直前だった。
というより、そうと気付いては、宣言せざるを得なかった、という方が正しいのだが。
車の無い時代の人間は車が無くて馬車は不便だとは思わないだろう。
携帯電話の無い時代の人間は、当然のように公衆電話に並んだだろう。
その想いを知る前の雄平は、持っていない状態当然だったが、手に入れてしまっては失えない。有って当たり前のモノ。
空気と同じように、水と同じように、自分にとって有るべきもので、当たり前のモノ。
相手にとって自分がそんな存在でありたい。海を泳ぐ魚のように、空に浮かぶ雲のように、共にある存在として生を受け、それが生まれてから合わさった。
ある日、体調が悪いからと向かった町の内科医で、ここでは検査ができないと紹介状を書かれた。
医者なんてものは往々にしてそんなもので、運動不足や肥満といった簡単な病気ほど病名を付けられない、ただの風邪か何かで病名を付けられないのだろう。
――そう話す雄平は、ハンドルを握る手が汗ばんでいる事実ごと捻るように曲げ、六階建ての市立病院のパーキングゲートをくぐった。
長く待ち時間ばかりの検査中も、莉奈は花の話をした。
この時期だと桜ばかり有名だが、他にもたくさん花は有って、それ以外も雄平に知ってもらいたい、今度観に行こう、と。
覚えきれないような検査のあと、雄平だけが診察室に呼ばれた。自分じゃなくてツレが病気なのだと云ったが、初老の医師はあなたに話があると繰り返した。
金属で出来ているような硬い表情を見て、雄平の耳の裏側で不穏な波が逆巻いた。
――松風さんは、もう永くありません。膵臓癌の末期です――
身体の中の全ての液体が後退り、遡るような一瞬の後、押し寄せた。
感情と記憶と思い出と心と魂が、いっしょくたになったような津波が、無色の魔力として狭い診察室の大気に放散された。
「――どういうことなんですか、あんたは医者でしょう!」
「落ち着いて下さい。これからもあなたに聞いて頂かなければならない」
莉奈を救う方法が続くと雄平の耳は研ぎ澄まされた。
カネが必要だから銀行強盗をしろとか、アメリカ大統領が隠し持つ秘薬を奪い取れとか、宇宙に火星ダイヤモンドを取ってこいとか、異世界に旅立って竜を倒せとか、どんなことでもするという構えをすべく、腹が座った。
「彼女の余命は半年から一年ほどです。そのことをいつ告知するか。よく考えて下さい」
「……え?」
「ご家族はなく、あなたは婚約者だと伺いました。我々から告知することもできますが――」
「待てよ。違うだろ? 何か有るだろ? 無いわけが無いだろ。莉奈を助けることはできないのか?」
「……ベストは尽くします。ですが、一年を越えることは無いと思ってください。
現状では半年という寿命も、治療が合わなければ難しい場合も有ります。そのことを」
困難に挑むことすらできないと告げられた。
これから打てる手はないという。この白髪交じりの医師が長年勉強して取った医師免許と云う物は、助けられない人間の家族にそう伝えるだけ。
彼女を失う、その事実に押され、雄平は診察用ベッドに腰を落とした。
青くなった唇、締まらない右手と拳を作ったままで動かない左手。力が入っている部分と入らない部分が混在する雄平の肉体は、病気のことを莉奈に隠し通すことは、誰の目から見ても不可能だった。
そして莉奈を待合室に招き、雄平と医者は交互に、莉奈に病状を伝えた。
「前はよく有ったの、こういうこと」
「莉奈……!?」
「小学生の頃だと思うんだけど世話をしてたお花。
秋には萎びてきちゃって、頑張って世話をしたんだけど、冬には枯れちゃった。
なんで、って思ったんだけど、一年草……一年したら枯れちゃう花だったの。
多年草じゃなかったから仕方ないって云われて……ショックだったなぁ……」
暖房も空気清浄機も入っているはずなのに、雄平の目頭が熱を帯びた。
熱を帯びた氷山が腰の辺りから背筋に触れ、脳の奥に触れているようだった。吐き気が、した。
「私……一年草だったんだね……ビックリした」
莉奈の頬を伝った涙を、雄平のシャツが胸で拭う。
彼女の後頭部に抱きしめたまま、雄平は吼えた。最初から涙などで足りるわけが無い。
雄平の怒りも悲しみも無念も、何一つ、涙なんぞで表せる質量の感情ではなかったのだ。
「最後まで……枯れるまで、一緒に居させてくれ……莉奈、結婚しよう」
「……良いの? 私で? 長持ちしないよ?」
「お前じゃなきゃ駄目なんだ、俺は、お前が居ないと……!」
枯れてしまうことが分かっても、離れることなんてできるわけがない。
葉が茶色になり、花弁がしなびても、尚のこと愛しさだけが雄平の中に募った。
ふたりで病院に通い、体調の良い日は外に出た。
雄平は仕事を辞めた。父親の系列企業だったので居心地も悪かったと笑ったが、莉奈は目も合わせず、カーディガンの長すぎる袖を伸ばしたり折ったりしていた。
気まずいこともあった。だが、それでも互いにとって枯れるときまでそばに居ることが、最後の花見にとっての要綱であることは共通していた。
花見は、花を見て、花に見られて。充実した日々は、一日ごとが輝いて、輝いているからこそ、光の速度で過ぎ去った。
雪も降り始め、冴える寒さの晩。
道路からは見えないが、星には届かない中途半端な高さの個室のベッドに莉奈は横たわっていた。本当の植物のように静かな息をして。
起きている間、歩くのも、話すのも、食べるのも、何をするにも苦痛が伴い、それを低減するための薬はどれも強すぎて、農薬のようだった。
副作用で根が膨らみ、花弁は落ち、茎はささくれて、起きている時間が短くなっていった。
眠れる内は眠った方が良いと思っていたが、雄平は、さよならと云うタイミングが判然としないことに怯え、反面、安堵していた。
「……さよならなんて、云いたくないないけどよ、ありがとうとは云いたいな。
俺と生きることを選んでくれてありがとう……って」
どれだけ目を瞑っていても、ハツラツとすることはない。病気が治ることもない。
それでも眠らないわけにもいかない。何時間も起きているだけの気力と体力を保てないほどに癌は奪っている。
「――このまま、逝くか? 莉奈」
「そうね、そのままだと死ぬわね。その人」
「……!?」
女の声だが、莉奈のものではない。
甲高く癇に障る頑是も無さそうな、バカな小娘のような声だった。
ドアは開かずノックも無かった。シャッターカーテンの下から華奢な身体を捻りながら童女は滴るように部屋の中に現れていた。
肩に掛かるビビットな桃色の頭髪は、寒い空気を引きずるように流れ、大きな瞳は挑発的な色を浮かべている。
「……ここは五階で、うちの女房の病室だぞ」
「知ってるよ。窓から入って来たじゃん」
登れないことはないだろう。
だがそれは、ロープなりなんなりの準備をした大人が明るい内に一苦労しながら可能かもしれない、ということであって。
雲で空を覆われた暗がりの中、子供が易々と出入りできるという意味ではない。
「私はマリア。マリア・フェレス。あなたから見ると未来人ね。
あなたと取引しに来たの。何千年も未来から」
「出ていけ。俺にはお前と会話する時間は無い。俺の時間は全て莉奈の物だ」
今、ミサイルが落ちてきても、伝染病が発生しても変わらない事実。
未来人が現れたくらいで、どうにかなる雄平ではない、だが。
「……あー……じゃあ、率直に云うね。奥さん、助けたくない?」
「……え?」
「この時代、癌細胞についてスゴイ勘違いをしてるの。
もっと大昔で地球が平たいと思っていたように、ウイルスは呪いや悪霊の仕業と思っていたように、雷を神の怒りと思っていたように。
現代科学っていうのは、必ず未来科学からすると失笑ものの誤謬があるの。
それが癌細胞の勘違い。この時代では癌細胞は健康な細胞が癌化することで起きるとしているけど、
そもそも、どうして自ら死ぬ必要があるの? 他の死因はあえて死ぬことで種全体の間引きとして必要だから起きるけど、癌っておかしいでしょ?
種全体としても長命になったのは最近で、他の死因でも充分死ぬのに、なんでわざわざ自死するための機能を進化させる必要があるの?
それはね、実は癌細胞は……」
「そんなことはどうだっていい! 妻は……莉奈は、治るのか!?」
いつの間にか、というか、最初から彼女の手に握られていたカプセル。
ガラスとペットボトルの間のような質感の、鈍い光を放つそれの中にはグレープのグミをすり潰したような奇天烈な顆粒がみっちりと詰まっていた。
「癌の特効薬だけど、話をする気になった?」
「質問に答えろ! 妻は治せるのか!」
「答えたつもりだけど?
胃癌でも肺癌でも子宮頸癌でも、心臓癌でも大脳癌でも、なんでも治せるよ。
もちろん膵臓癌も例外じゃなく治るよ。
ついでに、ここまでした旧時代的な放射線治療や薬学投与の副作用も治癒できるように配合済み」
車の無い時代の人間は車が無くて馬車は不便だとは思わないだろう。
携帯電話の無い時代の人間は、当然のように公衆電話に並んだだろう。
その想いを知る前の雄平は、持っていない状態当然だったが、手に入れてしまっては失えない。有って当たり前のモノ。
雄平にとってそれは莉奈だったが、莉奈にとっては必ずしも雄平だけを指すわけではなかった。特効薬。魔法の薬。
虚空から現れたに等しい現象は夢としか思えないが、先ほどまでの絶望の重さは夢であるはずがない。
「どんな条件でも良い。俺の命でも魂でもなんでもくれてやる! それをくれ!」
「やった! 良いの!? 条件も聞かずに!」
「莉奈の命が助かるなら、それ以外に何も要らない。寄越せ!」
タタン、とマリアの刻んだ軽やかなステップが暖房の音と重なった。
歓喜の音楽とばかりのそれに加え、マリアはガッツポーズをして見せた。
「本当に本当!? やった! こんな安い癌の特効薬だけで、くれるの!」
「ああ! 構わない! なんでも持っていけ!」
「んっふー♪ 未来の法律だとこれで成立だけど、一応この時代の法律も合わせて……これにサイン貰える?」
剥がすように雄平はA4とB4の間のような妙な形の五角形の用紙を奪い取り、署名欄を探して書き込んだ。
内容に目を這わせはしたが、意味は理解していない。
吉橋雄平の“平”の字、最後の縦線を引いた瞬間、ピョンピョンとマリアが跳ねた。
「おい! 早くその薬を寄越せ! 俺が飲ませる!」
「違う違う。これ、飲む薬じゃないから。あたしが使ってあげる」
軽い足取りで莉奈のベッドの足元に回り、ガバッと足元を出す。
むくみ防止で靴下も履いていない素足を確認すると、マリアはカプセルのグニョグニョとした中身を、莉奈の つちふまずから指の間へと塗り込むように押し込んでいった。
ぐにょぐにょ、ぬりぬり、ねちゃねちゃ、びよんびよん。
足ツボマッサージにも似ているが、ツボや経絡を意識している様子はなく、ただただもみ込んでいるようにしか雄平には感じられなかった。
「一番効く薬は、経口じゃなくて経足、これ常識よ?
……未来のだけどね」
あまりに現実離れした治療法に、雄平の放射されていた自我が収束して来た。
絶望のハンマーに砕かれていた物が、希望というボンドで寄せ集めたものだが、雄平に状況に客観視するだけの余裕を生んでいた。
「本当に、莉奈は治るんだな?」
「しつこいなぁー。治るよ。っていうか今の時代、癌ぐらいで死ぬ人なんて居ないよ」
「じゃあ、何で死ぬんだ」
「生活習慣病に決まってるじゃん。死亡原因ダントツナンバーワン」
もちろん、雄平にはギャグなのかを判断する材料も理由も無かった。
「まず、お前が未来人だという証拠は?」
「この時代、重力制御装置無いよね」
「この部屋に入って来たのが証明ってことか」
「じゃなくて、今」
云われて視線を振れば、マリアの足は地面に付いていない。
落ち着いている様子とは裏腹に浮足立っている。意味が違うが、雄平の中ではそんな言葉が浮かぶほど、平然と浮いている。
「必要なら、幻覚投影装置か成長促進装置で私がボンキュッボンに変身とかもできるけど」
「どちらかというと、平成でも死語なボンキュッボンが何万年も未来に残ってることの方が驚いてる」
「そうなの? 古代語……っていうか、平成における現代語の翻訳装置に入ってるんだけど」
「入力したヤツはどんな奴なんだ?」
「南東北大学の西教授って人」
嘘臭さと突拍子の無さが、一周して現実味を帯びた。
というより、これが嘘だとすると莉奈の完治も虚ろいでしまう。疑うという発想自体が、最初から雄平は振り払わなければ、自我が解けてしまいそうだった。
「俺は何を払えば良いんだ? 代償は?」
「髪の毛一本」
「……え?」
「嫌? だったら、鼻毛か眉毛。
それが無いなら面倒だけど採血か細胞片の採取でも良いけど」
「そうじゃなくて、そんなものをどうするんだ?」
「DNAのサンプルを採るんだけど、あれ? 平成の頃にはDNA調査って一般化していたんじゃないの? やったことない?」
「俺はやったこと無いな」
「ふーん。平成ってもう、みんなDNAサンプルの登録をしている時代だって聞いていたけど、聞くのと見るのって大違いね。
……良いわ。私の時代ではDNAごとの完全解読ができていて、そこから薬や色々な物が作れるの。
それで必要なモザイクパターンを探していたんだけど、それを調べたら、あなたらしい、っていうことが分かったの」
「そんなことが分かるのか?」
「子孫のリボソームから親のDNAがわかるの。そのシステムで、どうやらあなたがこのDNAを持っているって分かったのよ」
「つまり、俺の遺伝子から……何か、薬とかが作れるってことか? なんで俺が?」
「雄平は優れたDNA特性を持っていたんだけど、子供を作らなかったのよ。それで一代限り……だけど」
話しをしながら、彼女は背伸びすることも無く、空に浮かんで雄平の頭頂部付近から一本、ピンっと抜いた。
痛いことは痛いが、身体の内部から削られるような心の鈍痛に比べれば、天秤に乗せることもできないような些末な苦痛。
その一本さっきの薬が入っていた物に似たケースに入れた。
それだけでマリアは幼さを瑞々しいまでに尻から爪先まで込めて爆発させ、飛び跳ねる。
「うん! 雄平からは人類外免疫非存在の殺人ウイルスが作れる!」
……ん?
「どういう、こと、だ?」
「だから、人類外免疫非存在の殺人ウイルス! あなたのウイルスで敵星を皆殺しにできるわ!」
「話が……わからん」
「だから最初に説明するって云ったのに。
あのね。私たちの時代は人類ほとんどの病気で死なないから、人口がすごく多いの。
で、住むところを求めて宇宙まで進出してて、地球や火星、木星じゃ資源が足りないの。
それで他の星にまで行って、そこを開発して資源を使って、人類は更なる発展を遂げてるんだけど、最近は宇宙中を開発しすぎて、それなりの知性を持った生命体の居る星しか残ってなくって。
その星の支配生物を壊滅させるのに兵器が必要なんだけど、人類が棲めなくなるような兵器は使えないじゃない?
それで、人類には影響を与えない兵器が欲しくって、あなたに白羽の矢が立ったの!」
――外来種っ!――
このマリアの時代の人類は、宇宙へと向かう外来種なのだと雄平はこの段になって初めて理解した。
外来種とは、本来の生息域から離れて、別の地域に広がる種族。
在来種はその環境の中で循環できる程度の力しかないが、その絶妙なパワーバランスを崩す力を持つ外来種が広がる現象が、現代の地球でも数多く起きている。
例えば、毎日ふたつ実を付ける弱い木が生えている島に、毎日ひとつだけ実を付ける強い木が上陸する。
強い外来種の木は、弱い在来種の木の生息域を奪っていき栄えるが、強い木は弱い木より少ない実しか付けない。
それを食べていた動物が減り、絶滅してしまうこともあるだろう。
その実を食べて種を広める動物が居なくなれば、栄えたはずの強い木自身も絶えてしまう。
自然は長い間の絶滅と繁栄を繰り返して、それが循環するような生態系を整えたが、不用意な人類の移動でその環境が次々に破壊され、絶滅に追い込まれている。
現代の地球内で起きている大量絶滅。
それと同じ現象を、マリアの時代では宇宙規模の破壊活動として広がっているというのだ。
宇宙史上最強最悪の外来種、人類の手によって、荒らされているというのだ。
「そんなことに、俺の細胞を使おうとしているのか!?」
「そんなことって……契約書には書いてたじゃないですか。私も説明しようとしたよ? それをどんな条件でも良いから、って云ったのはあなたでしょ?」
「それは……そうだが……!」
声を荒げながら腕を振るう雄平に、マリアは腰から肩までを蛇のようにくねらせながら、ニィと笑った。
ちょうど表情も、蛇のようだ。
「一応、平成の契約のルールでは、異議の申し立てはできるんですけどね。
今、私は訪問販売と同じだから、この時代、この国の法律では解約はできます。クーリングオフですね」
「冷静に解約、正に今の俺のことだな。だったら……!」
「でも、しないでしょ? クーリングオフ。するなら……ワクチンも引き上げるから」
「……んなっ!?」
「当たり前でしょ? 契約が解約したら、原状回復……この場合、奥さんの末期癌の状態に戻して撤収よ」
雄平の時間がひどく遅くなった。マリアの言葉を待ってしまっているが、喋ることなどもう有りはしない。
有るのは雄平の決断だけだ。
たったひとりの女のために、数多くの惑星単位での無辜の民を皆殺しにする兵器を造らせるか。
未来なんてあやふやな非現実を忘れ、最愛で唯一の妻との人生を構築するか。
「選択肢なんてないよね。
あなたは奥さんを救って、私たちの歴史では存在しなかったお子さんたちと、仲良く暮らせる」
「そ、れ、は……」
「ダメだよ……雄平……ッ!」
聞き間違えるはずもない、幻聴でもない。
雄平の一番好きな声。ずっと聞きたかった声、だが、今だけは聞きたくなかった声。
意識が無かったはずの愛妻、莉奈その人。枕に沈んだ頭から瞳と意思をしっかりと向けていた。
「間違えないで雄平。
私は死ぬはずの人……でも、未来の人たちは……死ななくて良い人。
私を助けるために、死ななくて良い人たちが死ぬなんて、絶対に……ダメだよ」
「ご立派! 正しい! 莉奈さん! 私もそう思う!
そうだね! 最高の正論! でもね! 雄平が決めることなの!
あなたが意識を取り戻したのも、全部私が揉みこんだワクチンのお陰!
見ればわかるよね、雄平! 莉奈さんはさっきまでいつ亡くなってもおかしくない状態だったのに、ホッペがピンクでしっかりと言葉が出てた!
あなたが、未来の異星人たちを選べば、この素晴らしく正しい奥さん、死んじゃうよ!
あなたが、殺すんだよ!」
「違うわ! 雄平! 私は最初から死ぬはずだったの!
私はあなたと出会って、ここまで生きて、幸せだった!
誰かの、誰かが幸せになれる庭を荒らしたくなんてない、雄平に荒らして欲しくなんて、ない!」
「他人なんてどうでもいいじゃん! 今は有りもしない庭だよ!?
そんなもののために自分の奥さんを殺すなんて、マトモな人がすることじゃないじゃん!」
マリアがまくし立てるように叫べば、莉奈は諭すように唸る。
どちらが正しいのか、どちらに従うべきなのか。
だが、雄平の答えは決まっていた。最初から、選択肢なんてない。
「帰ってくれ。マリア」「クーリングオフはしない。俺は……莉奈と一緒に生きていく」
『雄平!』
重なったマリアと莉奈の言葉は、同じ音の全く別の言葉だった。
「ありがとう! 雄平! これで私の世界の地球は、新しい星を征服できる! 本当にありがとう!」
莉奈の非難を背に浴びながら、マリアはスルリスルリと華奢な身体を踊るように揺すり、窓辺まで到着し、リズミカルにシャッターと窓を跳ね開けた。
「それじゃあ、おふたりさん、幸せにね!」
「ああ、ありがとう。マリア」
「待ちなさい! それを渡すわけには行かないの!」
医療器具を蹴り飛ばし、掛布団を弾き飛ばし、莉奈はマリアを追った。
莉奈の身体は完治し窓の外を見渡したが、飛び降りたはずのマリアの姿は闇に溶けたとしか思えなかった。
その肩を後ろから抱き寄せる一対の腕は、振るえていた。
「どうして……っ! 雄平! あんな取引……っ!」
「嫌って良い。殴って良い。詰って良い……でも、お前には生きて欲しいんだ……」
「……バカ……っ!」
ふたりの永遠がそこに有った。
ふたりにとって、永遠の別れまでの僅かな別れだけでも永遠だが、その永遠が永ければ永いだけ良い。
未来まで、何が残るのかわからない。
遠い未来のことはわからない、だが、それでも、雄平にはある確信が有った。
「俺と莉奈の愛は永遠だ」
鏡写しの確信が莉奈にもあるという確かな絆を、倒れた医療器具が医師と看護師を呼ぶまでの数秒の間に確かめ合う。
本来の歴史では、莉奈は死ぬはずで、未来まで永遠は残れなかった。
だが、この世界では、雄平と莉奈の間に愛の形が残る。それは、確かに、未来に永遠を繋ぐのは確信を越えた確約だ。
「……どういう、こと、これ……!?」
出発前と多少の違いは出る可能性は、有った。
過去が変われば未来も変わる。バタフライエフェクトと呼ばれ、蝶の羽ばたきが回り巡って台風になる。風が吹けば桶屋が儲かる理論。
それで過去の人間の生き死にから多少の変化はあるとは思われていたが、それは所詮些末なエネルギーであると計算されていた。
遥か彼方の過去ならば、現代に行くまでに時間そのものの修正力によって廃れる、そのはずだった。
だが。
「……どういうことなの、支配しているはずの星は……これだけ……っ!?」
出発前と出発後のデータを見比べたマリアは、思わず後退った。
億単位で人類が征服していたはずの外宇宙の惑星が、比べものにならないほど減っている。
【不老技術が必要か、この議論は永遠に続けなければなりません!
他の惑星を侵略することを前提とする人類の発展は、本当に必要でしょうか!】
テレビではマリアの知っている男とは違う顔が演説をしていた。
知らない顔ではあったが、見覚えのないわけではない。
政治家の名前は、ヨシハシ・エイユウ……明らかに、雄平と莉奈の子孫だった。
そして、自分の手持ちのウイルスについて調べると、ヨシハシ一族の提供・研究で大昔にワクチンが生み出され、なんの価値もないものになっていることも知った。
「……愛、地球を救いすぎでしょ……」
意味を失った雄平の髪の毛を見つつ、ぼそりとマリアは呟くだけだった。