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水曜の朝、午前3時

作者: 白昼夢男子

 彼女のベッドの中、かすかな寝息が聞こえる。天井を向いて目をつむって、静かに彼女の胸が波のように上下に動いていた。近くで見ると、若さに圧倒されずにはいられなかった。顔には皺が全くなく、どこかで見たモデルを思い出した。

 彼女と寝たことは何かの間違いにしか思えなかった。騙した訳でも、お金をちらつかせた訳でも、関係を強制した訳でもない。しかし、それでもなぜか彼女を裏切った気がしてしまった。

別に彼女の家に来るつもりなんてなかったんだ、と自分に言い聞かせたが、上手く行かなかった。ひそかに望んでいた結果ではあったし、彼女も望んだ結果ではあった。だから罪悪感を持つ必要はあるのか、なぜ自分を責めるのか自分にも分からなかった。頭の中で再生されるのは、「俺に彼女といる資格はない」という言葉だった。

 そうだ、今ならいなくなっても彼女は気づかない。この瞬間出ていってしまえば、この罪悪感と向き合わなくていいし、良い夢だったということで済ませられる。いつか別れないといけないんだな。朝は、もうすぐ来る。ベッドのすぐ横のデジタル時計はちょうど3:00を表示していた。今頃がちょうどいい。ありがとう、良い夢を見させてもらったよと心の中で彼女に感謝した。


 半日ほど巻き戻すと、俺はバイト先の先輩に紹介されて女子大学生とデートをしていた。よく俺みたいな25歳でフリーターをしているやつと喜んで晩ご飯を食べるような若い子もいるものだ。俺たちは彼女の勧めで早稲田駅近くのブリュレフレンチトースト専門店という店に来ていたが、俺にはその言葉の意味が分からなかった。たかがコーヒーじゃないか?何がそんなに特別なのかが分からなかった。店番をしている人がオーナーだったらしい。俺と同い歳くらいにしか見えなかった。俺がカフェを経営している姿を想像してみたが、上手く行かなかった。それにしても、同い年の人が俺よりも何かを成し遂げているのを見ているといつもみじめな気分になった。

 スイングジャズが流れていた。大学の時に格好つけてジャズを聴いたことを思い出したが、俺がどういう友だちがいてどうやって一日を過ごしていたかが思い出せなかった。俺も彼女みたいに、20歳だったことがあるんだな、と考えにふけているとテーブルの向こうから、カフェ・ラテに口をつけて彼女が話しかけてきた。

 「何をされている方なんですか?」と彼女は聞いた。

 「俺?」と言葉を選ぶ時間を稼いだ。「いわゆる『フリーター』だよ。漫画家目指しながらコンビニで働いている」

 「そうなんですか!」大げさに返事をするから、みじめな気分になった。「コンビニって働いてどれくらい経つんですか?」と興味を持って聞いた。

 「もう4、5年にもなるかな?でも、全然まだ怒られるんだよ、レジの計算が間違っているとかタバコの配置を間違えたりして」

 「でも、そんなにも働いているって凄いですよね?自分にそんなに厳しくなくて良いと思います」

 「君はバイトしているの?」

 「してます。バイトと言うより長期インターンなんですけど」

 「そうなんだ。どこでやっているの?」

 「福祉系のベンチャー企業なんですけど、そこで事務とか企画のお手伝いさせてもらってます。色んなことが学べて、お金ももらえるので良いです。元々そういうことに興味があって」福祉系のベンチャー?まるで分からなかった。そんなものが存在するのか?存在するとすれば、どういった会社なのか全く想像出来なかった。世の中は俺の知らない場所で進化しているのだな、ということしか分からなかった。

 「すごいね、それで働くのが夢なの?」

 「いえ、発展途上国で働きたいんです。JICAってご存知だと思うんですけど、そこで働きたいのでたくさん経験を積んでいきたいので、インターンはその一環です」と言い終わった後に俺に聞き返した。「漫画家になりたいんですか?」

 「うん、俺は子供の時漫画家になりたくて、今も続けているって感じ」

 「そうなんですか!」と今回はさっきよりも本当に興味を持っている返事だった。瞳孔が大きく開き、少し前かがみになった。「良かったら、絵見せて下さい!是非見たいです」

 「今は持っていないんだけど.....じゃあ、これならどうかな?」と言って、ナプキンにペンでドラえもんの絵を描いてみた。

 「わあ、すごい!他に何か描いてくれませんか?」と彼女は言いながら、自分の手帳を空白のページを空けた。

 あまり俺はこういった話をすることもないので、何を描いたら喜んでくれるのかがあまり分からなかった。仕方なく、スーパーサイヤ人になったドラゴンボールの悟空を描いた。悟空を描くのは久々で、あまり似ていなかった。少なくとも、こんな悟空が出てきてしまったらクリリンですら倒せないというくらい弱そうに見えた。

 「こんな感じかな?ちょっと腕が鈍っているけど」

 「でも、凄いですよ!クリエイティブなことをできる人って尊敬します」

 「本当に?ありがとう」心から誰かから褒められたのは久しぶりだったので、気分がすっきり良くなった。

 「今はどんなストーリーを描いているんですか?」

 「ん」と少し考えてから話した。「今は何もないんだけど、数カ月前に描いた作品はバトル漫画だった。主人公が超能力を持っていて、好きな女の子が攫われたのを救わないといけないんだ。ものすごくありきたりなんだけど。出版社に送ったんだけど、評判悪かったな」と笑って失望感を隠そうとした。

 「そうなんですか、大変ですね。何か出来たら見せてくださいね!」皮肉もなく純粋に楽しみにしている声だった。

 「俺の話は少し置いておいて」と水を飲んでから聞いた。水が口からこぼれそうになった。「趣味とかないの?」

 「私ですか?昔ピアノやってました」

 「へぇー。クラシックとか?」

 「そうです。小学校の時なんですけど、コンクールに入賞するくらいやってました」と照れ臭そうに言った。「もう今は辞めちゃったんですけど」と残念そうに言った後に、店員が来て申し訳なさそうに「すいませんが、もうすぐお店を閉めるんです」と断った。時計は19:56を指していた。

 「あ、そうなんですか」と俺はぼーっと言った。

 「私が誘ったんで払いましょうか?」と彼女は荷物をまとめた後にブランド物の財布を取りだした。お金がなかったので、正直助かるところだった。

 「本当にいいの?俺が払うよ」と口だけ言った。

 「別にいいです。私が誘ったんで」と微笑んだ。


 外に出ると風が吹いていた。夏から抜け出したばかりのこともあり、風はぬるかった。ホストは客寄せをして、大学生はカラオケに行って、サラリーマンは飲み会に向かっていた。まだ夜は始まったばかりで何でも起こりうる、と言わんばかりだった。ネオンライトは星より明るく輝いて、大きい音楽がパチンコ屋から洩れ、街は活気に溢れていた。

 「まだお腹すいてませんか?」と彼女は聞いた。「良かったらマンションまで戻ったら何か作れますけど」

 その質問の意図はすぐに分かった。「良いのなら、お言葉に甘えさせてもらおうかな」と言った後、彼女は口をつむって髪の毛を後ろに分けながら微笑んだ。

               

 女性の部屋に最後に入ってから何年も経っていた。最後に女性の部屋に泊まったことを思い出そうとしたが誰だったか、どこだったか記憶になかった。

 彼女の住まいはワンルームマンションだったが、8畳くらいありキッチンも新しいモデルのものだった。周りの建物の光のせいで、部屋の中は電気がなくてもあまり暗くなかった、彼女の部屋を見渡すと、白の木製フレームに入ったコルクボードにイヤリングやブローチが飾ってあり、本棚に置いてある「悲しみよこんにちは」や「プライドと偏見」などの本がソファーの上に無造作に置かれたケート・スペードのバッグが合えて上品な雰囲気を醸し出していた。彼女の所持物を見るたびに、彼女は違う世界を生きているという感覚を与えられた。俺には彼女のように複数もカバンや靴を買う余裕もなかったし、英語が読める訳でも、明るい未来が待っている訳でもなかった。

 「生きている世界が違うんだよ」、と自分の中でそのセリフが何回も繰り返された。帰りの切符を買ってしまうと俺の財布の中には数枚の100円玉以外に何も残らないことを思い出した。次の月の家賃が払えるか分からないくらいの状態だった。親は退職していたし、自営業だったので退職金も出ないこともあり、少ない貯蓄と年金に頼って生計を立てていたから親には頼る訳にはいかなかった。そんなことを考えていると惨めになった。

 彼女は何かを成し遂げているし、未来が明るい。だけど、俺はこの25年生きてきて何をしたというんだ?

 生まれつき何としてこれといった才能もなかった(まだ出版されたことのない漫画を描けることを才能と呼ぶなら別だが)。勉強は得意とは言えなかったが、どうにかして7年前に東京の二流私立大学に入った。2年生まで通っていたが、金銭的な問題で通うことが難しく、借金と言う名の奨学金に頼りたくもなかったので辞めた。高額な金額を払い大学に通う意味が元々見いだせなかった俺には良い口実だった。退学したあと、コンビニで働き夜に漫画を描くという、いわゆる「フリーター」生活が始まった。もちろん、漫画で生計を立てることの難しさは十分に理解していたつもりだったので、どこかの大きい会社で正社員として働き口を見つけることも考えた。しかし世の中はそう上手く出来ていなく「社会人としての経験が足りない」や「新卒ではない」という理由で何回も蹴られ「ちゃんとした」職が何年経っても見つからずコンビニで働き始めて4年にもなる。その間にアルバイトは10何人ほど入っては出ていった。

 漫画も思ったように上手く行かず、様々な出版社に原稿を送っても「絵の技術が足りない」や「プロットが弱い」と言われ突き返された。もうすぐ26歳。自分の状況をイヤでも直面しなければいけなくなる。生きてきたこの25年で何を成し遂げたんだろう?何百時間もコンビニで働き、何百本もタバコを吸い、誰も読まない漫画を何百ページ分も描いた。それだけだった。今死んだとしても俺の名前はどこの殿堂にも入らないだろう。コンビニバイトの殿堂にも入れそうになかった。そう考えると虚しくなった。

 いつまで俺はこんな生活をしなければいけないのだろう?自分によく鏡を見て問いかけてみたが答えはなかった。数日前に鏡を見てみたが、黒いはずの髪の毛の中には白髪が数本だけ混じっていた。俺の父も父側の祖父も40歳代には白髪になっていたが、俺が白髪に襲われるには早すぎないかと考えないわけにはいかなかった。

                    

 時計は3:22になっていた。天井を眺めて考えていたが、アパートメントを出ることにした。幸い荷物は元々持っておらず、着替えもしていなかったので靴を履いて出るだけだった。彼女といたかったし、彼女もそれを拒まなかったはずだ。それでも、ずっと夢を見るわけにはいかない。人間、いつかは相応な生活に戻らないといけないのだと言い聞かせた。もう会えないんだな、と考えながら彼女の顔を脳裏に焼き付けるようにもう一回だけ見た。

 俺はリビングの彼女の机の上のメモにペンで手紙を書いた。

 「こんな急に出ていってごめん。でも、出ていかないといけない気がするんだ。あなたのことをもっと知りたかったのですが、本当のところ、知る資格すらない。笑うかもしれないけど、本当にそう思っているんだ。あなたは全然そんな風には思っていないかもしれないけど、いずれにせよ避けられない問題なんだ。生きている世界が全然違うから、今別れた方がいいと思う。最後に言いたいんだけど、ありがとう。本当に。良い夢を見させてくれてありがとう」と名前を最後に書いて二回折ってから、彼女の枕の横に置いた。

 「ありがとう」と心の中で唱えながら、ゆっくりとドアを出た。

アパートメントを出ると、淡い暗闇が街を包んでいた。頼りになる光は通りの向こうのマンションの光だけだった。まだ新聞配達は見えない。いつも、大学生の時にレポートを徹夜で仕上げている時にはよく新聞配達の音が時計代わりになっていたものだ。ノスタルジアに浸りながらポケットから「ラッキーストライク」を取りだした。

 確かに、俺はラッキーだったな、とブランド名を見ながら飽きれて一人で笑った。タバコに火をつけ、今からどこへ行けば良い?何をすれば良い?と自分に問い始めた。答えも出ないまま、歩き始めた。どこに向かっているのかは分からない。息を吐き出すとタバコの煙がくっきりと暗闇の中に吸い込まれていくのを眺めてた。

タイトルはサイモン&ガーファンクルの楽曲「水曜日の朝、午前3時」(1964)から引用


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