癖
「誰もいないな。」
俺には人にはあまり言えない隠れた癖があった。
それはドアについてる覗き穴(ドアスコープと呼ばれているらしい。)を毎晩寝る前に見ることだ。
始めたことに深い理由はない。しかしあえて言うなら、物騒なこのご時世、鍵やチェーンをしっかりかけても部屋に浸入されるかもしれない、せめてドア付近に誰もいないことを確かめよう、という考えから防犯目的で始めたのが理由だろう。
だがそんな真っ当な理由で始めたことも今では就寝前のルーティーンと化し、あわよくば、帰宅した他の部屋の若い女性を見れればラッキーというような下衆なものへとなっていた。
そんなある日、いつもと同じように俺は就寝前にドアスコープを覗いた。目に映るのは普段と変わらないぼんやりと蛍光灯に照らされた廊下だけ。そう思った俺はドアスコープを覗いた瞬間、思わず声をあげそうになった。
部屋の前に人がいる。
思わずドアスコープから目を離す。
部屋の中にいるとはいえ、ドア1枚隔てた向こう側に見知らぬ人間が佇んでいるのは、それは恐ろしいものだ。それも時刻は深夜0時をまわっている。
思わず息を呑む。そして、足音が悟られぬよう忍び足のようになり、もう一度ドアスコープを覗いた。
何かの見間違いかもしれない、そう期待してのことだった。
だがそいつはまだドアの前にいた。
微動だにしない。インターフォンすら押さない。
ただドアの前に立っているだけ。
毎日のルーティーンの中でまさか本当にこのような事態に遭遇するとは思ってもいなかった。
そいつは恐らく女性だった。恐らくというのは、髪が異様に長く、胸の前くらいまで垂れ下がっていたからだ。しかし異常なのは髪が顔の前にも後ろ髪と同じ長さで垂れ下がっていることだ。まず普通の人間ではない。
しかも今は7月下旬。かなり蒸し暑いにもかかわらず、そいつはコートを着ている。
ドアスコープから見える魚眼レンズのように丸く歪んだフォルムがより一層不安を掻き立てた。
俺は軽くパニックになった。警察に電話しようか、しかし大の男がこんな理由で警察を呼んでいいものか。
しばらくの間俺はドアの前から動くことができなかった。
結局警察は呼ばないことにした。もしかしたら学生のタチの悪い悪戯かもしれない。そう考えると気が楽になった。
いくらか平静を取り戻したところで、ドアの向こうからカリカリと音が聞こえた。
心の片隅に追いやられていた恐怖心がみるみる大きくなっていく。
嫌な汗をかいている。何かを引っ掻くような音は一向にやまない。ドアの向こうの奴は一体何をしているのだ⁉︎
こちらと外界を隔てるドアだが、此の期に及んではひどく心もとない。ここで俺が大声をあげながら、ドアを勢いよく開けられればいいのだが、生憎そんな度胸俺にはない。
そんな俺に今できることは1つだけだった。
俺は恐る恐るドアスコープを覗いた。
そこには蛍光灯にぼんやりと照らされた廊下だけが映っていた。体の力が急に抜けていくのを感じる。音の正体が気になるが、いなくなってくれてよかった。ほっと胸をなでおろす。話のネタにはなるだろう、いや最寄りの交番に不審者情報として届出るのもいいかもしれない。
そう考え、部屋の中へ戻ろうとした。
だがそれも束の間、ドアスコープの下からいなくなっていたはずの奴が姿を見せた。髪の毛だらけの異様な姿が視界に入り、俺は思わず情けない声を出す。
するとドアの向こうのそいつは、俺の声が聞こえたのか、ドアスコープに顔を近づけた。
凄まじい恐怖が俺を襲う。だがその恐れとは裏腹にドアスコープから目が離せない。
するとそいつはおもむろに顔まで伸びた髪の毛をかき分けた。隠れていた顔が見えた。
手は老婆のように皺があり、肌の色は生きているものとは思えないほど白い。爪は鮮やかな赤のマニキュアをしている。現れたそいつの素顔はー
そこから後のことはよく覚えていない。
気がつくと俺は病室で目を覚ました。
精神病院らしい。医者が傍にいる。
ひどく落胆したような面持ちで医者は俺に話しかけた。
「大丈夫です。ゆっくり治していけばいいんです。」
言葉と表情がひどくあっていない。
「先生、俺は…」
「今日はもうお帰り下さい。自宅の方が落ち着くでしょう。」
その一言で俺は全てを思い出した。
俺には人にはあまり言えない隠れた癖があった。
それは夜中に知らないマンションやアパートへ行き、外側からドアスコープを覗くこと。素性が知れないように夏でもコートを着て、顔の前まで髪の毛がある特製のウイッグを被って。
家路につく中、ふと視界に小綺麗なマンションが映った。ぶるりと、俺の中で何かが疼いた。
空は陽が傾いている。俺は周囲を見回した。
「誰もいないな。」