泡になる
正式にレギュラー入りした私は、前にも増して練習に励む様になった。松葉杖をついて登校してきた美和は、私を見てちょっと泣いて、最終的には頑張ってと応援してくれた。
「……私の分まで、頑張ってね」
「――嫌だよ!」
「――!」
まさか、断られるとは思っていなかったのだろう。美和は涙を湛えた目をいっぱいに見開いて、私を見た。
「美和の代わりをするために、レギュラー入りするんじゃないよ。 自分で、戻って来なきゃ」
「……うん。 うん。 うん」
美和は泣きながら、何回も頷いた。
――美和は強いから、大丈夫。 絶対また、パワーアップして戻って来る。
互いに肩を抱き合った後、私はコートの中に入った。もう後ろは、振り返らない。私はボールをドリブルしながら、先輩を掻き分けてシュートを決めた。
「ナイシュー千夏!」
ハイタッチをして、私はさっとボールを構えた。
「次行きましょう、先輩!」
気合い入ってるねーと言われながら、私は笑顔でボールを追いかける。残された時間は、僅かしか無かった。
×××
そして迎えた、夏大会――。私たち光ノ宮高校女子バスケ部は、順調に勝ち進んでいた。先に大会が始まっていた男子バスケ部が、春夏連覇を決めて。明日はいよいよ女子の決勝だという日。私は、スマホを握りしめていた。
――明日の試合には、王子が来る……。
今日見たばかりの、優勝した瞬間の王子の笑顔がもう一度見れるかもしれない。それは、足を犠牲にする価値がある物だと私は思った。けれど――。
――大会が終わったら、王子と美和は付き合うんだろうか。
無料通話アプリの、王子との画面を開いたまま私は思った。優勝して、疲れ果てて寝ているだろう王子に一言メッセージを送りたい。
――好きです。
「……送れるわけ、無いか」
代わりに当たり障りのないメッセージを送り、私はベッドに横になった。今しなければならないことはずばり、明日のために早く寝ること。
「……私も、王子と同じ場所に……」
その日見た夢の中では、王子が私に微笑みかけていた。
×××
翌日の決勝戦に、王子はちゃんと来ていた。二階の観客席に、見た目上はすっかり良くなった美和を連れて。
――王子……。
「ほら、千夏。 円陣組むよ!」
「はい!!」
じっと観客席を見ていた私に、先輩からの声が掛かる。筋肉を纏った腕を、隣の人に絡ませて。私は目一杯息を吸った。
「絶対勝つぞ!」
「おー!!」
お腹の底から出した声は、体育館中に響き、確かに王子の元まで届いた。
大きな総合体育館を貸し切って行われる、高校女子バスケットボール部決勝戦。夏大会の比では無い程の熱気が、そこにはあった。自分の試合が終わった男子の部員も応援に駆け付けているし、ある意味、一番盛り上がる試合なのかもしれないと思う。
「千夏、緊張して無い?」
「大丈夫です」
先輩方が初出場の私に気を使ってくれる中、私は平静とそう答えていた。
――決勝とか、そういうのはどうでも良い。 王子が見てくれているのなら。
スタメンの5人を大声でコート内に送りだし、私はすぐ側から大声を出す。
「頑張れ光ノ宮!!」
互いになかなか点が入らない、じれったい様な試合展開。1クォーターが終わり、2クォーターが終わり。会場全体が、ネットが揺れる瞬間を一目見たくてうずうずしていた。
「……次、交代で千夏出ようか」
「――!」
草刈先生に指示されたのは、予想していたよりもずっと早いタイミングだった。すぐに立ち上がり、私は控えのゼッケンを脱ぎ捨てる。
「……いける、千夏?」
気遣わしげに膝を見る先生に、私は笑顔で答えた。
「最後まで全力疾走出来ます!」
コートから出て来た先輩とタッチを交わし、私はついにその中へと踏み入れた。
――王子、これが私のプレーです!
今まではお情けの様に、試合終盤にちょろっと出て来た私がここで登場するとは思っていなかったのだろう。相手チームが、少しざわっとしているのが伝わってきた。
「あれ、誰……?」
「一年生?」
そんな様子を見て、先輩がにやりと笑った。
「千夏、あんた、隠れ兵器みたいだね!」
「……ですね」
喜んで良いのか悪いのか。とにかく私は、高く上がったボールが叩かれた瞬間に全力で飛びついて行った。試合、再開だ。
機動力に欠ける分、私の強みは何なのかと問い続けた一カ月。磨いたのはシュートの精度と、周りを見渡す能力だった。
私に課せられた役目は、相手チームの動きを制限する、スクリーン。ボールを持った見方選手のマークを、逆に動けない様に壁になっていく。
「――ちっ!」
年上の選手からあからさまに嫌そうな顔をされても、私は怯まなかった。これが私の、仕事なのだから。その一方で、自分に回ってきたパスは出来たらシュートまで持って行きたいという思いもあった。
――私が、私が……!
その思いに答える様に、良いポジションでボールが来た。
「千夏、シュート!」
先輩に言われるまでも無い。私は躊躇わずに、床を蹴った。
――入れ!
まあまあの距離からのロングシュートは、すっぽりゴールに刺さった。
――っ。
「ナイシュー!!」
「流石千夏!!」
湧き上がる歓声の中、私はこっそり膝を擦る。着地の時に、一際大きいポキッという音が聞こえたのだ。
――膝が、もたない……。
そう感じたが、私は草刈先生の方を見もせずにプレーを続けた。やっと日の許に顔を出したのだ。こんなところで、再び沈んでたまるのものか。
鬼気迫る気持ちで、しかし笑顔のまま私は走り続ける。
――この試合が終わったら、立てなくなっても良い。
膝の悲鳴を無視して、私は何度でもコートを蹴る。
――王子が見ているのに、また手を抜くわけにはいかないんだから。
焦った相手チームの選手がぶつかって来た時に、私は思わず膝がガクッとなってコートに転がった。
「――千夏!?」
――っ。
「……大丈夫です」
本当はこのまま倒れていたい気分だったが、すぐに立ち上がった私に与えられたのはフリースローの権利だった。
「千夏……」
ボールを手渡してくれた先輩は、祈る様な表情で私を見た。……時間的に、これが最後のプレーだった。
「大丈夫です」
そうとだけ言って、私はゴールを睨む。入れてみなさいよとでも言う様に、白いネットが私を見降ろしている。
――外すわけが無い。
思いっきり膝を曲げ、私はそこへ向けてシュートを放つ。一瞬の静寂と、パサッという小気味が良い音。会場は再び、歓声に沸いた。
その直後、審判のホイッスルが鳴った。試合終了。私たちは、勝ったのだ。
男女共に優勝という快挙に、会場中が湧いた。私もすぐに味方チームに揉みくちゃにされ、誰が誰だか分からないうちに抱きしめられる。
――王子……。
しかし私は、人の隙間から観客席だけを見ていた。
――王子、どこ……?
先程と変わらない、二階席で。王子が、多分泣いている美和の頭をぽんぽんと撫でているのが見えた。
――王子……。
その横顔は、今まで見た中で一番優しくて、光り輝いていた。
――王子……。
濁流の中で、私はそっと目を閉じた。全部終わったんだという気持ちと、これで良かったんだという気持ちが半々で心の中を満たして行く。
――私は、きっと王子が笑うのを見るためにバスケを始めたんだ。
つうーっと、一筋の涙が零れ落ちた。
――さようなら、王子。
溢れ出た感情は、泡になって消えて行く。空っぽになった私は、静かにその場に崩れ落ちた。
「――千夏、大丈夫?」
「え、どうしたの千夏!」
「しっかりして! 担架! 担架下さい!」
別の意味で騒がしくなった会場のことなど、まるで知らないかの様に。私は笑顔を浮かべたまま、その場から去ろうとしていた。
――さようなら……。
天窓から射しこむ光だけが、優しく私を包んでいた。