足と引き換えに
翌日――。どんな顔で美和に話しかけようかと悩んでいた私に、彼女は自らやって来てくれた。
「もう、急に走ってっちゃうからびっくりしたじゃん」
「ごめん……!」
手を合わせて謝る私に、美和は膨れっ面を止めて笑った。
「とりあえず、元気そうで良かったよ」
「……え」
「心配したんだよ?」
美和の言葉に、今更の様に罪悪感が湧いてくる。段々俯いて行く私に、彼女はひとり言の様に呟く。
「……まあ、その分王子と結構喋れたんだけどさ」
「……どうだったの?」
「バスケやりたいですって言ったら、とりあえず見学おいでよって誘ってくれて……」
「へー」
「来る者拒まず、って感じだったけどなー」
「そーなんだー」
「……」
「……」
出来てしまった沈黙の後、美和は頬をかきながら言った。
「余計なお世話かもしれないけど、一応王子に謝っといた方が良いんじゃない?」
「……うん」
小さく返事した私に、美和は放課後にまた王子が教室に来るつもりらしいことを教えてくれた。そしてその通り、彼はわざわざ私たちのところにやって来てくれたのだった。
「よっ! 昨日ぶり」
「……その、すみませんでした……」
ちゃんと謝罪しようと、思っていたのに……。突然現れた王子を前に、教室に残っていた女子達が騒いでいてどうにも素直になり辛かった。ぼそっと呟く様に言った私に、王子は溜め息を吐いた。
「……場所変えるか。 ちょっとぐらい、話聞いても良いだろ?」
「ええ、まあ……」
私は助けを求める様に美和を見たが、彼女は黙って首を振るだけだった。教室を出て、無言で歩く私たち。ようやく二人になれたのは、校門を出てからだった。
「何で、バスケ楽しくないって言ったんだ?」
「それは――」
話せる様な空気になった途端、直球で聞いてきた王子に私はつい怪我のことを口にしていた。
「中三の時に、事故にあって……」
簡潔に言えば、一行で終わりそうなところを長々と洗いざらい話し続ける私。唯一の救いは、王子が口を挟まずに聞いてくれていることであった。
「――だから、もうバスケ出来ない足なんです」
ようやく話を締め、ほっと一息吐いた私。だが王子は、ゆっくりと口を開いてこう言うのだった。
「……怪我をしたのと、バスケ楽しくないのとが結びつかない」
「えっ、それは、あの――」
言葉に詰まる私に、王子は不可解そうな顔をして言った。
「治った直後にバスケしても、前と同じ動き出来ないのは当たり前だろ。 ……プロだって皆、山ほどリハビリしてんだよ」
「……はあ」
「怪我したから引退って、誰が決めたんだよ。 浪速の足は、まだ生きてるじゃん」
「――!」
思いがけない言葉に、私は足を止めた。王子はそのまま歩き続けながら、私に言う。
「事故で怪我したんだったら、バスケ何も悪く無いだろ」
「悪いとか、そういうわけじゃなくて……。 どうせ、入っても戦力外ですよ私?」
王子は曲がり角の直前で、立ち止まって言った。
「……うちのバスケ部は、勿論大会優勝目指してるけど、それだけじゃない。 皆、バスケ楽しんでやってんだよ」
「――!」
ハッと顔をあげる私に、王子は振り返りつつ続けた。
「やるかやらないかは、浪速次第。 周りに流されるんじゃなくて、自分でどうしたいか決めろよな」
「……」
沈黙する私に、じゃあなと手を振って王子はいなくなった。後に残った私は、茫然と王子の言葉を反芻する。
「私が、どうしたいか……」
染まり始めた夕焼け空には、残念ながら答えは見当たらなかった。
×××
家に帰ってからも、私は考え続けていた。
――私が、どうしたいか……。
ベッドに寝転がり、目を閉じれば自然と王子の顔が浮かんでくる。
――……それより、ちゃんと決めなくちゃ。
ごろっと寝返りを打って笑顔を掻き消し、私は改めて思った。
――私が、バスケ好きじゃなくなったのっていつだろ……。
事故にあって入院してた時――は、まだ嫌いじゃなかった。怪我治して、早く戻らなきゃ……ってずっと思ってたぐらいだし。退院して家に籠ってた時も、違う。杖さえ取れたら、前みたいにバスケしたいって思ってたから。じゃあ、いつ……?
ゆっくりと思い返していた私は、ふいに耳が遠くなる様な不思議な感覚に襲われた。まるで水の中にいる様に、身体が重くなる。激しい拒絶反応と共に蘇って来たのは、部活に顔を出した時のこと。
――あの練習で、もう駄目だなって感じて……。
学校から帰宅する頃にはもう、バスケが嫌いになっていた。
――何で……?
強烈な頭痛に耐えながら、私はもがいた。ふっと思い出したのは、王子と初めて出会った授業中の試合。王子は私が手を抜いてシュートを打たなかったと思ったみたいだけど、それは違う。本当は怖くて、打てなかったのだ。
――確か、あの時も……。私に、ボールが回って来たんだ。
気を使ってくれた後輩から手渡された、お情けのチャンス。右からドリブルして決める簡単なレイアップシュート、。高くジャンプするはずだった私は、スキップするみたいによろけてバランスを崩した。
――あっ、やば――。
右手で押し上げるはずだったボールは零れ、後ろにいた後輩が手を伸ばしてキャッチした。そしてそのまま、私の上を通ってシュート……。
――その後。 その後に、シュート決めた子が何か言ったんだ……。
思い出の中で、誰だか分からないその人は私を見ずにこう言った。
『……もう千夏先輩、無理じゃんバスケ』
「――っ!」
悪夢から目が覚めたかの様に、私は汗だくで息を荒くしていた。頭痛は、いつの間にか引いていた。
「そっか、私……あの時……」
あの時初めて、私は人から見限られた。もう、バスケは無理だと。それはバスケだけを追い求めて頑張っていた私には、死刑宣告に等しかった。
――きっと皆、心の中ではそう思ってたんだ。 でも、優しいから言わなかっただけで……。
今さらの様に、ぽろぽろと涙が出てくる。それは、悔し涙だった。
――私以外誰も、私がバスケ出来るなんて思って無かったんだ。 可哀想とか、言われたくなかったんだ。 だから……バスケが嫌いだって自分で自分を納得させて、逃げたんだ。
ぎゅっと結んだ口元から、嗚咽が漏れ始める。私は目元を乱暴にこすって、天井を睨み続けた。
――授業の時も……。 久しぶりにボールに触って、ちょっと楽しかったんだ。 でも、気付きたくなかったから、また……逃げた。
「もうヤダな、私」
ぐすっと鼻を啜って、私は一人自嘲した。
――馬鹿……。
心は決まった。否、最初から決まっていたのに、目を逸らしていただけだった。
――ありがとう、王子。
一転して晴れやかな気持ちで、私は王子の顔を思い出した。正直なところ、バスケ部に入ったところでまともにプレー出来るかどうかはまだ分からない。それでも、私にはもう迷いは無かった。何故なら――。
――王子が認めてくれたから。
――王子が見てくれるなら。
――私は頑張れる、気がする。
ぐっと拳を握りしめ、私は天井に向かって突き出した。
「頑張るぞー!」
それは誰も知らない、秘かな決意表明だった。