過去という名の呪縛
「……ただいま」
「おかえり」
「おかえりなさい、千夏」
家に帰ると、父さんと母さんが揃ってリビングでテレビを見ていた。
「どうだったの、試合?」
「うーん……」
言葉を濁す私に、チャンネルを無造作に変えながら父さんが呟いた。
「卒業してまで、そんなものを観に行かなくても良いだろう」
「朱里ちゃんが誘ってくれたのよね、千夏」
「……うん」
母さんは誰も聞いていないのにぺらぺらと、私の交友関係を父さんにに披露していく。日頃から一人で家にいると、誰かと会話したくてしょうがないのだろうか。
――……うるさい。
結局いつも、静かな場所を求めて私は自分の部屋に籠ることになる。冷たいお茶を片手に、そそくさと引き上げていく私。しかし後ろから、湿りきった両親の声が追いかけてくる。
「千夏はまだ、バスケに未練があるのか」
「あれだけ頑張ってんだもの、仕方ないでしょう」
「死んでいても、おかしくなかったんだ。 部活ぐらい諦めがつくだろうに」
「そ――」
続く母さんの声は、わざと乱暴に閉めたドアの音で聞こえなかった。
「……っ」
ほんの少ししか歩いていないのに、息が乱れた。何も感じたく無いのに、何も考えたく無いのに、湧き上がる感情を抑えきれなくて。
肩に掛けていた鞄を無造作に床に落とし、私は力尽きてベッドにうつ伏せになった。思い出したくも無い過去が、私を飲みこんで行く……。
幼稚園の頃から、部屋の中より外で遊ぶのが好きだった私。小学校で全員入ることになっていたクラブ活動で、人気のドッチボールの抽選に外れて仕方なく入ったのがバスケットボールだった。大きくて痛いだけだったそのボールは、いつしか、何よりも私を夢中にさせる物へと変わっていった。
中学入学と同時に、何の躊躇いも無く女子バスケ部に入部。そこそこの強豪だったそのチームで、私はめきめきと成長していった。楽しいことばかりじゃなく、辛いこともいっぱいあったけど、私はバスケが好きだった。
中二の春、都大会の決勝で惜しくも敗れた時は涙が枯れるまで泣いた。でもそこで私立の強豪、磯ヶ岡高校のスカウトさんが私に初めて声を掛けてくれた。夏の本番でも活躍出来たら、スポーツ推薦でうちに入れるよって。バスケをやってる子なら誰でも一度は憧れる誘いだったし、びっくりし過ぎて返事も出来なかったのを覚えてる。今思えば、それが私のピークだった。
三年生になって、私は女子キャプテンとして張り切っていた。上手い具合に一年生も入部してくれたし、今度こそ優勝するぞーって皆で気合を入れて。……結局、全部無駄になっちゃったけど。
梅雨時で。他の運動部は部活があったり無かったりしてたけど、うちはそんなの関係無くて。あの日も、私は下校時刻ぎりぎりまで部活していた帰りだった。
皆で傘さして、週末の練習試合の話なんかしていたと思う。交差点で、信号待ちで止まっていた時に。スピードの出し過ぎで曲がりきれずにスリップした車が、たまたま私たちの方にぶつかって来た。
……何が起きたかは正直、全く覚えていない。今のは全部、後から聞いた話を自分で繋げただけだから。とにかく気付いたら私は病院にいて、ベッドに縛り付けられていた。
涙ぐんでいる父さんと母さんにまず聞いたのは、他のメンバーがどうなったか。女キャプとして、怪我人が出ていないか心配だった。……自分が試合に出れないなんて、想像すらしてなかった。
母さんが言うには、車の直撃を受けたのは私だけで。あの場にいた子達は皆、検査だけしてすでに退院したということ。ほっと安心した私は、後からやってきた主治医の先生に聞いた。
「先生、私、いつ頃退院出来ますか? バスケの試合があるんです」
「はあっ? その足で歩けると思ってんの?」
若いその先生は、私を見て嗤った。ぽんぽんと包帯でぐるぐる巻きにされた足を触って、早くても一カ月はここで大人しくしておいて貰うよと宣告した。
実際私に下された診断は、左足大腿骨頸部骨折。歩くどころか、身動き一つ取れない状態だった。それでも私は確かに、その先生によって不幸のど真ん中に突き落とされたのだ。急に感じ出した痛みに、私は再び意識を失った。
次に目が覚めた時には手術の予定が決まっていて、それが無事に終わって痛みが倍ほど増えた後も、私は宣告通り大人しくしていなければならなかった。
身体からいっぱい管が出ていたから、両親以外の面会は全部断って、夜は病室に一人。ベッドの脇に吊るされた千羽鶴や、励ましの言葉が書かれた色紙を見ながら、私はただただ焦っていた。一刻も早く退院して、バスケの練習しなきゃ。こうして寝てる間にも、どんどん落ちていくんだからと。
ようやくリハビリが始まった時は、辛いけど嬉しかった。慣れない松葉杖で、看護師さんが困るぐらい歩き回っていた。可哀想にと呟く父さんも、病院の不満ばかり言う母さんも、どうでも良かった。たまにしか来ない主治医の先生よりも、頑張ってるねと言ってくれるリハビリの先生の顔を見る方が嬉しかった。
退院した後もずっと、松葉杖と一緒に家にいた。ようやく杖が一本だけになった頃には、大会が始まってしまっていた。私はキャプテンとして、試合を観に行くことすら出来ないまま最後の夏を終えた。
ついに松葉杖無しに歩いて良いという許可が出たのは、二学期が始まる直前のこと。
「千夏さん、おかえりなさい!」
「皆ずっと待ってたんですよ!」
すっかり大人びた後輩達に歓迎されながら、私は久しぶりに部活に顔を出した。同期の子達は皆夏大会で引退していたけれど、私は元々受験ぎりぎりまで続けるつもりだった。今はどこまで動けるかは分からないが、とりあえず早く練習に戻りたかったのだ。
久しぶりの感触にうきうきして、明らかに片方だけ細くなった左足で走ろうとした私は愕然とした。まるで、力が入らないのだ。
生まれたての小鹿の様に、震え、頼りない足取り。後輩達の失望と、諦めの視線。誰もがよたよたしている私との接触を避け、自分達だけで疾走していく。取り残された私は、ボールに触ることも無く試合途中でコートを出た。……そんな私を、誰も引き留め様とはしなかった。それが余計、心に刺さった。
完全に心が折れた私は、次の日には正式にバスケ部を引退した。コーチは残念そうな顔を見せたけど、内心ほっとしているのは分かっていた。
大事な時期に事故に合い、全ての仕事を押し付けた同期達にも一応挨拶だけはしにいった。ほんの少しタイミングがずれていれば、私の代わりに足が不自由になっていたかもしれない彼女達。皆ぎょっとした様に私を見て、次に退院出来て良かったねと笑顔を向けた。しかし二、三言話すと、お互い会話を続けることは無かった。日常生活には支障が無いとはいえ、少しぎこちない私の歩き方は無駄な同情しか誘わなかったのだ。
そんな中朱里だけは今まで通り、私に接してきていた。しかし私は、何となく知っていた。彼女が自分よりもバスケが上手かった、事故前の私を酷く嫌っていたことを。笑顔の裏で、今の私を見降していることを。
部活と友達を両方失った私の中学生活は、家と学校を往復する味気のない物となった。ぽっかり出来た時間は、そのまま勉強に当てられた。両親は黙々と机に向かう私を見て、バスケをすっぱり辞めて受験生らしくなったと勝手に勘違いして喜んでいた。実際は、余計なことを考えずに出来るものならなんでも良かったのだ。たまたまそこに、勉強があっただけのことだった。
半年程の悪あがきの末、私はそこそこの公立に合格することが出来た。その高校を選んだ理由は、家から近いこと。徐々に回復して来たとはいえ、私はまだ足に負担を掛けたくなかった。
中学の卒業式で、何故か元バスケ部の同期と仏頂面で写真を撮るはめになって。久しぶりに話しかけてきた朱里に誘われるまで、バスケとはすっかり無縁の生活を送っていたのに。
「……嫌い」
部屋には勿論自分しかいないのに、私はわざわざ口に出して言った。そうでもしなければ、忘れかけていた感情が顔を覗かせそうだったから。勢い良く布団に顔を埋めて、私は自分から余計な物を追い出そうとした。何も感じていないのに、涙だけが零れていく。
「……嫌い。 全部嫌い。 嫌い」
唇から零れた呪文は鎖となって私に絡みついて来るが、気にも留めなかった。ただ、今から逃れられればそれで十分だった。
「……嫌い」
現実逃避という睡魔に襲われ、私は静かに意識を手放した。