母の思い出
「はあああ……よく寝た。そろそろ、夕方になりましたね。そろそろ、ご主人様もこの町に着いた頃だと思います」
夜の逃避行に備えて眠っていたヒルダが起きてそう言った。おでこには「肉女」と書かれ、左右のほっぺたには「超ブス」「キモ女」とゲロ子に落書きされているが気づいていない。
気づいたとしてもヒルダには「美女」「超美人」「可憐な乙女」としか読めない。ホーリーはとうの昔に起きて、神官服に着替えて脱出する準備をしており、ゲロ子だけがヒルダへのいたずらに飽きて『ゲロゲロ……ゲロゲロ』と不思議ないびきをかいて寝ていた。
「先輩、起きてくださいよ」
「ふあああ……でゲロ」
ゲロ子、めんどうくさそうに起きる。そして、ヒルダの顔を見てにやりとする。ホーリーが気づいてヒルダに顔に落書きされていますよと注意されたが、鏡で自分の顔を見たヒルダ。満足げにゲロ子に言った。
「ダメですよ、先輩。いくら本当のことでも顔に書いちゃ。まあ、本当の言葉なので、脱出が成功するまでそのままにしておきますけど……」
ホーリー、目が点になる。何か言おうとしたが本人が気に入っているなら何も言うまいと思った。それより、時間を急ぐ。
「ホーリーさん、過激な方がよろしいか、大人しい方がよろしいのでしょうか?」
ヒルダ、脱出の方法をホーリーに聞く。過激な方はファイアボムで扉を破壊する方法。大人しい方は針金を変形させた道具でカギをこじ開ける方法。
「派手な方が面白いでゲロ」
「ダメです」
ホーリーは常識人であった。ファイアボムを使えば頑丈な扉は吹っ飛ぶが、ついでに屋敷が燃えてしまう。さらに音が響くから追手がかかるに決まっている。その追手もヒルダは魔法で粉砕してしまうつもりだろう。そんな乱暴な方法は選べない。
「残念です」
「残念でゲロ」
聖女、天使と称えられるバルキリーのヒルダ。邪妖精のゲロ子と思考が同じになっている。
ホーリーに止められたので、仕方なくヒルダは針金の道具を鍵穴に差し込もうとした。だが、ちょうどその時、急に扉の向こうに人の気配を感じ、『カチャ』と音がして鍵が開いた。扉を開けたのはホーリーの母親であるシンシアである。
「ホーリー、逃げなさい。間もなく主人がやってくるわ。あなたに無理やり養子縁組の書類へサインをさせようとするでしょう。ホーリー、絶対、サインしてはいけません」
「お母さん……」
「大きくなりましたね、ホーリー。でも、私はあなたにお母さんなんて呼んでもらえる資格はありません。あなたを身ごもって、お父さんと一緒に逃げたけれど、結局、捕まってしまいました。あなたを産んだのに一度も抱っこもしてあげられませんでした。あなたが泣きながら連れ去れるのを黙ってみているしかできなかったお母さんを許して。本当にごめんなさい。弱いお母さんでごめんなさい」
「お母さん……」
そっとホーリーはシンシアを抱きしめた。そこには血をわけた母娘しか分からない絆があった。
「お取込み中でゲロが、そろそろ逃げないとまずいでゲロ」
ゲロ子が感動の名場面に水を差すが、これは現実的な判断であった。セガール侯爵がホーリーにサインさせようとやってくることは間違いない。ここまで時間がかかったところを見ると、汚いやり方でホーリーに迫るに違いない。ホーリーは体を離すと名残惜しそうにシンシアを見た。これが夢にまで見た母なのだと思い、その姿を脳裏に焼き付けようとした。シンシアは精一杯の笑顔を作った。
「ホーリー、元気でね」
「お母さんも……」
部屋を出て、裏庭に続く階段へと向かう。最後にホーリーは振り返った。
「お母さん、わたしを産んでくださってありがとう。わたしは感謝しています。お母さん」
シンシアの頬に二筋の涙が流れていく。17年前のことを思い出した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「シンシア、もう少しだよ」
「はい、ベルダン」
シンシアは雪が降る夜、3等神官であるベルダン・マニシッサと駆け落ちをした。シンシアが17歳。ベルダンが21歳であった。イルラーシャ神殿を訪れたシンシアが美男子のベルダンに一目ぼれし、やがて密会を重ねるようになり赤ちゃんを身ごもったのだ。
伯爵家令嬢のシンシアが昔は名家とはいえ、今は一般人であるベルダンと正式に結婚の許可が下りるわけもなく、駆け落ちでしか結ばれないのであった。
イヅモの町を出てアマガハラの都へ逃れようとしたのだ。都なら働き口もあるだろうし、人が多いから見つからないだろうと考えたのだ。シンシアのお腹は大きく、移動するのは負担になるのでベルダンが用意した小さな馬車に二人で乗って移動していた。
馬一頭で引く質素な馬車だ。かろうじて付いている幌で降ってくる雪を避けているが、雪交じりの風が二人を襲う。毛布をすっぽりとかぶり、お腹が冷えないようにさらに毛布を巻きつけたシンシアは、それでも大好きな人と一緒にいられることで寒さを忘れることができた。
ヒヒーン。
馬が歩みを止めた。前方に立ちふさがる人影があったのだ。その影は全部で5人。4人は冒険者であった。いかつい体の戦士が3名。ローブを着た魔法使い風の男が1名。その背後に怒りに満ちたアプリコット伯爵が立っている。シンシアが駆け落ちしたと知って、急ぎ、冒険者を雇い、先回りしていたのだ。シンシアの体をかばってゆっくり移動していたことが仇となった。
「若造が、娘を連れてどこへ行く。この薄汚い野良犬が!」
「伯爵、お許しください。僕たちはお互い愛し合っているんです」
「お父様、わたしのお腹には赤ちゃんがいるのです。お願いです。ベルダンとの結婚を認めてください」
「ダメだ。男は半殺しにしろ。貴族への無礼な振る舞いに対する罰だ。娘はこちらへ連れてこい」
「了解、伯爵」
「寒いから、さっさと済まそうぜ」
冒険者たちからすると簡単な仕事であった。寒い中、探す面倒なことではあったが、見つければちょろい。神官の若造と身重の令嬢だ。冒険者たちは死なない程度にベルダンを殴り、蹴り飛ばした。
「いやあ~っ。お父様、やめさせてください」
「ふん。やめさせるものか。娘を傷物にしやがって。こんな腹ではすぐには嫁に出せん。早くしないと我がアプリコット家は破産してしまうというのに」
「やめさせないと私はここで死にます」
シンシアはそう叫んだ。それは愛する人とお腹の子供を守る母親の強い想いからであった。
「シンシア、この男の命を助けたければ家に戻るんだ。そして、セガール侯爵家に嫁に行くのだ。それを約束しないならば、この場で男は殺す。お前の腹の赤ん坊も殺す」
父親の目はまるで悪魔の目のように冷たく、そして残酷であった。4人の冒険者に暴力を受けているベルダンは、頭から血を流し、意識が朦朧としている状態であった。早くとめないと本当に死んでしまう。
「分かりました、お父様。私は家に戻ります。だから、ベルダンを助けて!」
父親がパチンと指を鳴らすと冒険者たちは殴るのをやめた。後はボロボロになったベルダンが倒れてるだけであった。ピクリとも動けないが、かすかに呼吸をしているのが分かった。
「では、行くぞ」
アプリコット伯爵はそう冷たく言うとシンシアの手を取った。乱暴に馬車に押しこめるとイヅモの町へと戻る。その後、倒れていたベルダンは通りかかった行商人によって助けられたが、シンシアを失ったショックで自暴自棄になり、酒を飲みすぎて死んでしまったという。
一方、家に連れ帰されたシンシアは出産をしたが、産んだ直後に赤ん坊は連れ去られた。かろうじてシンシアが刺繍した『ホーリー』という名前の刺繍をした産着を着させてやるのが精いっぱいであった。赤ん坊は神殿の孤児院の前に捨て置かれ、ラターシャという神官が育てることになったというのは何年か経ってから知ったことだ。
赤ちゃんを産み終わったシンシアは、体力が回復するとすぐセガール侯爵家との縁談を勧められた。愛する人と赤ん坊を失ったシンシアはまるで人形のように、なすがまま嫁いで行ったのだ。貴族の娘は父親の命令に従わなくてはいけないという不文律があるのだ。これは絶対であったのだ。
「奥様、よろしいのでございますか?」
そうミッシェル秘書官はシンシアに尋ねた。ミッシェルは有能な秘書官であったが、セガール侯爵がしていることは同じ女性として賛同できず、密かにシンシアの味方をしていろいろと動いていたのであった。今もホーリーの部屋のカギの合鍵を作っておき、シンシアに渡したのと、屋敷を出るまでの逃走経路を策定したのであった。
「無事に逃げられるとよいのですが」
「……奥様。別件でご報告があります。例の冒険者ギルドへ依頼していたハンババの討伐の件でございます」
「引き受けていただけましたか?」
「はい。先ほど、連絡がありまして引き受けてくださる方があったそうです。アオイとおっしゃるS級の冒険者とのことです」
「よかったです。これで主人もホーリーを無理に手に入れる理由の一つがなくなります」
「奥様、報酬のために売ってしまった指輪。大事なものではなかったのですか?」
「私の母からもらった形見でした。でも、娘を救うためなら惜しくはありません」
「引き受けてくださった方が奥様に面談を求めています。明日の朝、町で会えるように手筈を整えています。旦那様に見つからないよう手はずを整えます」
「あの些少な報酬で引き受けて頂いた方によく御礼を言わねばなりませんね」
セガール侯爵がホーリーの部屋へ行こうと階段を上がっていくのを見ながら、シンシアはホーリーが無事に逃げ延びてくれることを祈ったのであった。




