淀んだ闇が,静かに空間を満たしていた。
彼は必死に目を凝らして,闇の向こう側を窺おうとした。まったく無意味な行為だった――暗視装置でも使わぬ限り,この濃い闇を透かし見ることはほとんど不可能に違いない。せめて月明かりが少しでも射し込んでくれたらいいが,天に厚く覆いかぶさった雲はどんなにわずかな光も通すつもりはなさそうであった。
荒い息遣いが彼の鼓膜をいたく刺激した。自分自身のものと分かっていても――いやそうであるからこそ,否応なく子供じみた闇雲な恐怖心が掻きたてられる。日頃わずらわしさしか感じさせない雑踏の喧騒が,毒々しくきらびやかな街の灯りが,今の彼にはひどく恋しかった。
ここにはそのどちらもない。打ち棄てられ,朽ちるに任された高層建築の残骸がうっそりと立ち尽くし,数多の塵芥が吹き溜まる都会の荒野――開発放棄区域。再開発の波に取り残されたエアポケットのような場所がこの街にはいくつもあるが,ここはそういった地域のひとつだった。日のあるときですら,真っ当な市民ならば寄り付くはずもない場所である。
どうしてこんなところに独りで来てしまったのか――何度目か分からぬ後悔に奥歯が軋む。知り合いの誰も彼がここにいることを知らない。せめて誰か一人にでも教えておくべきだったか――。
ありえない。闇の中で彼はかぶりを振った。そんな選択肢は端からない。ここに来ることは絶対の秘密にしなければならなかったのだから。今さら悔やんでもどうしようもなかった。
「畜生」小刻みに震えながら,彼は歯を食いしばって呻く。「畜生め」
右の頬に手を触れる。ぬるりとした感触とともに,生暖かい液体が指先にへばりつく。それが何だか,今さら観察するまでもない。頬骨の上のあたり,一文字についた浅い傷からじくじくと流れ続ける己の血。
傷を負った経緯を思い出して,彼の心を暗色の恐怖が満たす。悪寒が総身を震わせる。
「何だってんだよ,あれは……」
誰に投げかけたわけでもない問いが,闇の中に溶けていく。
一陣の寒風が狭い路地裏を吹きぬけ,ビルとビルとの間に不気味な共鳴音を響かせた。巨大な獣の唸り声のようなその音が,否応なく彼の全身を冷え切らせていく。意思とは関係なく,奥歯がカチカチと鳴った。
こんなところで立ち尽くしていていいわけがない。彼には痛いほどそれが分かっていた。《あいつ》が,《あいつ》が追ってくる。再び《あいつ》に捕まったら,どうなるか――彼には確信に近い予感があった。そう,《あいつ》は,俺を殺すだろう。徹底的に。情け容赦なく。
不意に――彼の背後で,何かが硬い音をたてた。
ひゅっと喉が鳴った。口の中がたちまち乾いていく。大脳旧皮質が全力で喚きたてる――逃げろ。逃げろ。逃げろ!
発条がはじけるように彼は飛び出していた。足下を確認するなどという悠長なことは言っていられない。一瞬のためらいが命取りになると,今の彼にははっきりと分かっていた。ひび割れたコンクリートを磨り減ったスニーカーの靴底で踏みしめ,ひたすらに駆け出す。
身の毛もよだつおぞましい獣の咆哮が轟いた。凍てついた殺気と悪意に満ちた凶暴な叫び声が路地裏に殷々と反響する。
畜生,《あいつ》だ。ここまで追いすがってきやがった――真っ黒な恐慌が奔騰し,彼の脳髄から冷静な判断力を根こそぎ奪い去った。己の生存を脅かされる骨がらみの恐怖がアドレナリンとなって筋肉をブーストする。両腕をでたらめに振り回し,半開きにした口から舌を突き出して,彼は声にならない悲鳴をあげながら走った。走った。走った。
不意に世界がでんぐり返った。何かにつまづいたのだ,と気づいたときには,彼はしたたかに冷たく固いコンクリートの路面に叩きつけられていた。肺から空気が残らず絞り出される。受身を取ることもできず,痛烈に全身を打ち付けてしまったのだ。
喉の奥から苦痛と恐怖がない交ぜになった呻きを洩らしながら,よろよろと身体を起こす。全身がギシギシと軋み,喉の奥から情けない声が洩れた。あばら骨に違和感――ヒビでも入ったか。今さらのように腿がパンパンに張って,燃えるように痛むことに気づく。日頃の不摂生の報いであった。
荒い息遣い。ひとつ息をつくごとに,肺が燃えるように痛む。少しだけでも休みたかった。しかし,そんな余裕がとっくに失われていることを,彼は痛いほどよく承知していた。立ち止まれば,すなわち死だ。こんな冷たくて暗いところで,誰にも知られずにくたばるなど,彼には到底了承しがたい話であった。
脈打つように苦痛を送り出し続ける鉛の棒と化した脚を引きずって,彼は逃走を再開した。悲しくなるほど鈍い足取りだった――まるでナメクジだ。今にも首筋に鋭い牙が打ち込まれるのではないかという予感が,彼の喉を震わせ,か細い笛のような声をあげさせた。死んで冷え切った高層建築の外壁に手をついて,よろめくように彼は前へ前へと進んだ。
いくつもの曲がり角を通り過ぎ,代わり映えのしない裏路地を歩き続けるうち,いつしか彼の感覚は完全に麻痺していた。恐怖と疲労に濁った思考の片隅で,いつか何かの本で読んだ故事が思い出された――ギリシャだかどこだかの神話。人を喰らう凶暴な怪物を閉じ込めた巨大な迷宮。そこに放り込まれた生贄もまた出口を見失い,迷宮を彷徨う怪物の餌食となる運命であり――。
まさか。厭な予感が彼の全身を凍りつかせる。まさか。まさかそんなはずは。
そこで彼は気づく。いつの間にか自分が狭い路地を抜けて開けた一画に出ていたことに。そして,自分が今どこにいるのか,すっかり見当がつかなくなっていることに。
周りを見回す。決して広くはない空き地には乱雑に瓦礫やスクラップが積み上げられていて,ひどく足場が悪い。そして――周囲の三方を取り囲む,黒く高い壁。
行き止まり。
(罠だ……!)
膝から力が抜けて,彼はその場に崩れるように尻餅をついた。自分でも気づかぬうちに巧みにここに誘いこまれていた――もう逃げられない。出口はひとつしかなく,そこに飛び込むことは自殺行為以外の何ものでもなく――。
唸り声が,闇を震わせる。
背筋を凍らせる戦慄と共に振り向いた彼は,闇の奥に決定的なものを見た。
禍々しい赤に輝く2つの光点。血に飢えた,獰猛な捕食獣の双眸。
「……ヒッ。ヒッ。ヒィッ」
喘ぐように,細切れのか細い悲鳴をあげながら,彼は尻をべったりと地面につけたまま後ずさった。いくらも進まないうちに,背中に硬い感触を感じた。積み上げられた瓦礫の山が,無情にも彼の逃亡を阻んだのだった。
紅玉めいた2つの輝きが近づいてくる。あくまでゆっくりと,余裕をもった動き。哀れな犠牲者をなぶる邪悪な意図が透かして見えた。しかし,彼にはもうどうすることもできない。
不意に,世界が明るくなった。厚い雲のヴェールの切れ間から,満月が蒼褪めた貌をのぞかせる。冴え冴えとした冷たい光が,彼を,そして追跡者の姿を照らし出す。
蒼白い光を浴びて浮かび上がった追跡者の姿を見て,彼は悲鳴をあげる。恐怖と絶望に濁った,ざらついた叫び声を。絶叫は路地裏に虚しく反響して,闇の中に拡散していく。
再び雲が月を覆い隠し,残酷な光景を闇の中に消し去った。
さて。後先考えずに発進してしまったわけですが……どうなることやら。次回更新は……できる限り早くに行うつもりです。