一話
吹き荒む冷たい風に意識が浮上する。
「ここは……?」
辺りは一面、霧に包まれていた。
敷き詰められた石と水の流れる音。それらを総合するに、どうやら此処は河原らしいと分かる。
「私……」
なぜこんなところに居るのだろう。
そう考えて、思い出す。
――そうだ。自分は、死んだのだ。
体が透けて消えていってしまったはずなのに、一体なぜまた形を取り戻してこんなところにいるのだろうか。
梓は改めて辺りを見回し、ごくりと息を呑む。
「もしかして此処、三途の川ってやつ……?」
「御名答。いやー察しがいいねえ。おいでませ三途の川ー。ようこそ冥府の入口へ!」
どこからともなく場違いなほど明るい声がして、梓は慌てて声の主を探す。
そして、すぐ近くにぬっと現れた馬の頭部に声も出ないほど驚いた。
「……!!」
ひっくり返って腰を抜かした梓を見て、馬人間がけたけたと肩を揺らして笑う。
もう動いていないはずの心臓がばくばくと騒ぎ立てているような心地がした。
――よくよく目を凝らすと、頭部は被り物だった。
梓を見下ろして、「それ」がおもむろに馬の頭を脱ぎ捨てる。
ふわりと現れたの蜂蜜色の髪。吊った勝気そうな目。翡翠色の瞳が、髪と相俟って鮮やかに映る。
梓はその顔を見て、安堵ともつかない息を吐いた。
「……子どもじゃないの。脅かさないでよ」
「なっ……誰が子どもだ、馬鹿!」
「だってあなたどう見たって中学生……? くらいじゃない」
「俺はとっくに成人済みだ!!」
言われて、梓は立ち上がってじろじろと彼を見つめる。
背丈は一六〇センチの梓より少し低く、全体的に小柄。顔も幼いし、やはり一見すると中学生程度にしか見えない。
しかし細部まで観察すると確かに十代ではなさそうな部分もあり、童顔なだけと言われればそうかもしれないと思えるところはあった。
彼は酒や煙草をすんなりと買えないタイプだろう。
はあ、と溜息を吐くと、彼は梓を睨むように見つめながらぶっきらぼうに言った。
「おまえ、名前は」
「八重洲梓……だけど」
「歳はいくつだ。職業は? 自分の死因は分かるか?」
「えっと。二十一で学生、死因は……自殺」
ふん、と彼が鼻を鳴らす。
「俺より年下じゃねえか」
「…………」
あらそうなのそれはごめんなさいね、と皮肉たっぷりに返したくなったのを堪えた。
こんなところで正体不明の相手に喧嘩を吹っかけても意味はない。
「まあいい。記憶はあるみたいだな。思考力も鮮明で、俺を子どもだと言うような馬鹿げた余裕もある、と」
応戦した方がいいのだろうか。露骨に喧嘩を売られている気がするが。
……いや、やはりここは堪えておくべきだろう。これからどう転ぶかも分からないわけだし。
我慢だ、我慢。梓は自分に言い聞かせる。
「梓って言ったか。おまえ、単なる死霊にしちゃ意識がはっきりとしすぎてるな」
「……どういうこと?」
「普通は死んだ日のまま意識も思考も止まってたり、怨念に凝り固まってたりするもんなんだよ。死ぬ間際の行動を繰り返したりな」
どきりとした。
死ぬ間際の行動を繰り返す、
それは忌まわしい血の記憶。
振り払うように頭を振っていると、彼とまともに視線がかち合った。
「けどおまえとはこうして違和感なく会話できてるわけだろ。てことは、冥府関連の誰かの干渉があったとしか考えらんねえんだよな」
冥府関連の誰か、と言われても梓に覚えはないが……
しかし、思い当る人物ならただひとりだけいる。
「ナナシ……」
梓はぽつりとつぶやいた。
波のように繰り返し不安が訪れる日々の中で、ナナシだけが梓の心の拠り所だった。
決して非難することもなく、ただ黙って穏やかに受け入れてくれたナナシ。優しいブルーグレー。
彼は今、一体どうしているだろう。あの部屋でずっと静かに暮らしているのだろうか。いつまでも。
「ナナシ……? あいつに会ったのか」
驚いたような声音で言われ、梓は頷いた。
「彼がその……冥府に関わる人間かどうかは知らないけど……」
言うと、目の前の男は何事か考えているように黙りこむ。
そしてひとしきり考えたのちに、気を取り直すかのように口を開いた。
「おまえの非礼はあいつの名に免じて許してやる。ついて来い、冥府へ案内してやるよ」
「あの、あなたは……? ナナシとは知り合いなの?」
翠の双眸が真っ直ぐに梓を射抜く。
「ヘルメスだ。大概の奴らがそう呼ぶ。あいつとは旧友だ」
落ち着き払った淡々とした声で問いに答えると、ヘルメスは背を向けて歩き出した。
まだまだ聞きたいことは山のようにあるが、ここではぐれては元も子もない。
梓は慌ててその後ろを早足で追いかけた。