1 オープニング
1kのアパート。今日はバレンタインだ。
夜、帰宅して玄関からキッチンを通って居室のドアを開ける。
照明をつけ、寒いのでエアコンのリモコンを取ろうとしたら、何もない所で躓いてうつ伏せに倒れてしまった。
「‥‥‥‥」
一人暮らしなので、つっこむ人は誰もいない。
◇◇◇
皆様初めまして、井上雫と申します。
こんな格好で失礼致しますが、簡単に私の過去の話をしたいと思います。
かつて、私には好きな作家がおりました。
いわゆる“推し”だった訳ですが、彼の作品に癒やされた事がきっかけでファンになり、最初は感謝の気持ちを込めて、作品の感想を綴った分厚いファンレターを送りました。
その後、ネットニュースで彼がスランプに陥っていると知り、推しの気分転換になればと思い、感想に加えて私が夢で見た異世界の話も詳しく書くようになりました。
その結果、彼は私の異世界の話を多少アレンジして自分の作品として発表、紙の書籍化もされ、それなりにヒットしました。
何も聞かされていなかった私は驚きましたけれど、推しの幸せは私の幸せだと思い、流しました。
そこでやめておけば良かったのかもしれませんが、雑誌のインタビューで彼がスランプを脱した喜びを語っているのを拝読して、私も嬉しくなってしまい、彼に再び異世界ネタを提供してしまいました。
それからもその一方通行なやり取りは続きましたけれど、彼から私へのコンタクトは一切なく、ただ記者の質問に“熱心なファンが居て感謝している”と答えただけでした。
数年が経ち、彼のヒット作が私の元ネタで埋まり、そして彼の名が広まって裕福になるにつれ、私は自分の生活水準が上がらない現実に違和感を抱き始めました。でもただのファン扱いだとしても、私と彼の心は繋がっている、彼を一番支えているのは私だし、彼が幸せなら良いんだと自分を納得させていた時でした。
“結婚には向いていない”と言われておりずっと独身だった彼が、突如結婚の報告をしたのです。私は一気に我にかえりました。
私の養分を吸い上げ何年も咲き続けていた花は、おそらくずっと前から若くて綺麗な蝶を選んでいました。
私は自分の正直な気持ちに、もっと早く気付くべきでした。
今ここに倒れているのは、後に残された心がカッスカスになった根っこのみです。
趣味でタロット占いをしている私は、事件の後、枕元に置いている三体のうさぎのぬいぐるみに、三枚のタロットカードをそれぞれ関連付けて願掛けをしたりしていますが、何も変化はありません。
世の中そんなもんですよね?
◇◇◇
カーペットからはみ出した足が冷たいけれど、起き上がったらまた頑張らないといけないのだったら、私はもうこのままでいい、生まれ変わって異世界転生とかならないものか‥‥と思っていたら、すぐ近くから話し声が聞こえてきた。
「ねえ、倒れたままだけど、大丈夫かな?」
女性の声だ。いつの間にか人の気配もしている。
「とりあえず、エアコン付けて‥‥ちょっとごめんね雫ちゃん、仰向けにするよ?」
良い香りがして、私の体がぐりんと回転した。柔らかそうなピンクアッシュの髪色の綺麗な女性が、目を見開いた私に笑いかける。
「良かった、意識はあるみたいだね‥‥ちょっと黒ウサ、雫ちゃんをベッドへ運んであげてよ。ほら白ウサも、先にお布団整えて」
「雫ちゃん、抱えるからね?」
何が起こっているか理解できない私を、黒髪の男性が姫抱っこした。銀髪の男性の横を通り、ベッドの上にそっとおろされる。
「どこか痛かったり、痺れたりはある?」
黒髪男性の素敵ボイスでそう尋ねられ、とっさに首を横に振る。
「そう、良かった」
微笑みかけられて、どちら様ですかと聞こうとしたら、横から例の美人がずいと顔を出した。
「今日もお仕事お疲れさま。雫ちゃんの好きなハーブティーを淹れるから待っててね♡」
嬉しそうにキッチンへ向かう背中を目で追う。
‥‥夢なのかな? いきなりモデル並みの綺麗な人が三人も部屋に現れるなんておかしいよね? なんかずっと精神的に疲弊してたから、もしかして本当に地球とさようならするのかもしれない。
「最期に綺麗なもの見られて良かったな‥‥」
呟いて目を閉じる。